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彼の推しの中の人が私だなんて言えるわけがない!  作者: 濃厚圧縮珈琲


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18/52

17話

 目が覚めたのは、まだ朝も早い時間だった。

 

 カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。もぞもぞと寝返りをうちながら枕元のスマホを確認すると、午前五時半。


(……早く目が覚めちゃったな)


 普段の習慣のせいだろうか。それとも、慣れない場所だからか。

 身体を起こして、周りを見渡す。


 奈央が大の字で寝ていて、その隣で由美が丸くなっている。

 そして凛は、こちらに背を向けて、規則正しい寝息を立てていた。


(……よく寝てる)


 昨夜、あれだけ飲んだのだから当然だろう。

 

 皆を起こさないように、そっと布団から抜け出す。

 顔を洗って、髪を一つに結んで。

 寝間着のままじゃなんだから、薄手のパーカーを羽織った。


(……少し、散歩でもしようかな)


 まだみんなは起きそうにない。

 この静かな時間を、少しだけ味わいたくなった。




 コテージのドアを、音を立てないように開ける。

 外に出ると、爽やかな朝の空気がふわりと頬を撫でた。

 

 昼間の熱気が嘘みたいに涼しく、空気も澄んでいる。

 空はもうすっかり明るく、その中に僅かに朝焼けのオレンジが混ざり合っていた。

 

 自然の中でしか聞かないような、軽やかに歌う鳥の囀りが、どこかから聞こえて来る。

 都会のハトやスズメの鳴き声とも違って、どこか清々しい。


 海風と共にやってくる潮の匂いに誘われるように、私は海へと続く坂道を下りていった。




 砂浜に着くと、そこには誰もいなかった。

 昨日はあれだけ賑わっていた浜辺が、今は波の音だけを響かせている。

 打ち寄せる波と、風によって彫刻された波打つ白い砂浜が、朝日を受けてきらきらと光っていた。


「……綺麗」


 思わず、声が漏れた。

 サンダルを脱いで、裸足で砂を踏む。

 朝の砂は、昼間とは違ってひんやりとしていて、気持ちよかった。

 


 波打ち際まで歩いて、立ち止まる。

 くるぶしまで打ち寄せる波の冷たさと、波が寄せて返す度に砂の中に足が埋まっていく感覚が、少しくすぐったくて、それでも気持ちよくて。

 

 ただぼんやりと水平線を眺め、潮騒をBGMに昨日のことを思い出していた。

 

 凛の言葉と、綺麗な星空の下で過ごした、あの静かな時間のことを。


(……凛、喜んでくれたみたいで良かった)


 ふと、そんなことを考えて——目を閉じて波の音に聞き入っていた。




 しばらくそうして過ごしていると、誰かの声が聞こえた気がした。


(……誰か来た?)


 こんな朝早くに珍しいなと、何気なく振り返って——私は、固まった。

 見覚えのある人影が、こちらに向かって歩いてくる。

 朝日が眩しくて顔は見えないけど……何となく、直感がそうだと告げていた。

 


「……星野さん?」


 その声に心臓が跳ねた。

 やっぱり、高坂君だ。……でも何で?


 砂を踏みしめながら、彼が目を丸くして近付いてくる。

 ラフなTシャツに短パン。寝起きなのか、いつもより少し髪が乱れている。


「えっ、本当に星野さん!? うわ、びっくりした……!」


「……高坂君こそ、なんでここに」


 驚きすぎて、声がうまく出ない。

 まさか、こんなところで。このタイミングで。


「俺、友達と旅行で来てて。この近くのホテルに泊まってるんだ」


 高坂君が、後ろの方を指差した。


「昨日遅くまで飲んでてみんなまだ寝てるから。俺は変に目が覚めたから一人で散歩でもって……星野さんは?」


「私も、友達と。近くのコテージに泊まってて……」


「ああ、あのいつもいる三人と? 女の子だけの旅も楽しそうだよね!」


 そこで会話が途切れ、お互いにまだ若干状況が飲み込めずに見つめ合う。


「しっかし……うわー……すごい偶然だね!?」


「……ほんとに」


 まさか伊豆で、しかも早朝の浜辺で会うなんて。

 誰が想像できただろう。


 少しの沈黙の後、高坂君が照れたように頭をかいた。


「えっと……隣、いい?」


「……どうぞ」


 高坂君は、私と少し距離を空けて隣に立った。

 そのまま二人で、黙って朝日に照らされる海を眺める。

 

 ここは大学でも推し活の現場でもない。

 本来彼とすれ違う事も、話す事もないはずだった場所。 


 そんな偶然と偶然が重なって、私はなんだか……不思議な気分を覚えていた。



「……早起きなんだね、高坂君って」


「いや、普段は全然! でもなんか、旅行先だと早く目が覚めちゃってさ。枕が合わないってやつ?」


「わかる。私も同じだよ」


「あ、だよね! だからステラのイベント遠征行く時とかも、よく寝不足なんだ~!」


 ふっと、二人で笑った。

 話している間も、黙っている間も、波の音が心地よく響いている。


「……朝の海って、いいね」


 高坂君が、ぽつりと言った。


「昼間はあんなに賑やかなのに、今は静かでさ。なんか……特別な感じがする」


 その横顔を、私はちらりと見た。

 大学でみんなに囲まれている時の彼でも、ぬいぐるみを抱えてはしゃぐ彼でもない。

 静かに海を見つめる、知らない横顔。


(……こういう顔も、するんだ)


 静かに視線を海へと戻し、遠くを飛ぶ海鳥を目を細めて見つめた。




 どれくらいそうしていただろう。

 波に足元を冷やされ続けていたせいか、ふいに鼻の奥がむずむずした。


「……っくしゅっ」


 小さなくしゃみが出る。


「あ、寒い? ずっと足、水につけてたもんね」


 高坂君が心配そうにこちらを見た。


「……ちょっとだけ」


「そろそろ戻る? 風邪ひいたら大変だし」


「……うん。そうだね」


 名残惜しいような気もしたけれど、確かにそろそろ戻った方がいい。

 みんなも、そろそろ起きる頃かもしれない。

 そう思って、踏み出そうとした——その時。


「……あれ」


 足が、上がらなかった。


 ずっと同じ場所に立ち尽くしていたせいで、足首まで砂に埋まってしまっていたのだ。

 無理に足を引き抜こうとして、バランスを崩す。


「わっ……!」


 グラリと身体が前のめりに傾いた。

 あ……これ、転ぶな。

 

 僅かな時間の間にそう思い、覚悟を決めた――その時だった。


「危ないっ!」

 

 ぐっと、手首を掴まれた。

 強い力で引き戻されて、転倒を免れる。


「……っ!」


 顔を上げると、すぐ目の前に高坂君の顔があった。

 倒れないように、まだ私の手首を、しっかりと掴んでいる。


「だ、大丈夫……?」


「……うん。ありがとう」


 心臓が、変な風に跳ねていた。

 掴まれた手首が、妙に熱い。

 朝の海の冷たさとは、全然違う熱だった。


「……っと、ごめんね」


 高坂君が、慌てたように手を離す。

 その頬が、ほんのり赤く見えたのは——朝日のせいだろうか。


「砂、埋まってたんだね。気づかなかった」


「私も……ずっと立ってたから気付かなかったよ」


 離れた手首に、まだ感触が残っている気がして。

 私はそっと、その手を反対の手で包んだ。


(……なんだろう、これ)


 知らない感覚だった。

 大学で彼を見ていた時も、推し活の付き添いで隣を歩いていた時も、感じたことのない——


「星野さん? 顔赤いけど、本当に大丈夫?」


「……っ、だ、大丈夫! ちょっと、朝日が眩しくて!」


 慌てて誤魔化して、私は砂から足を引き抜いた。

 ……自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。


「えっと……それじゃあ、私はそろそろ戻るね」


「うん! 気を付けてね!」


「……ありがと。高坂君も気を付けてね」


「はは、ありがと! すごい偶然だったけど、楽しかったよ!」

 

 いつもの屈託のない笑顔を浮かべて、高坂君が手を振る。

 私も小さく手を振り返して、坂道へと足を向けた。

 


 歩く速さはいつもより少しだけ早く、私はコテージへの坂を上っていった。



*   *   *


 コテージに戻ると、まだみんなは眠っているようだった。

 

(良かった。まだみんな起きてない)


 ほっと息をついて、足元を見て——


「……あ」


 ビーチサンダルは、いつの間にか乾いていた。

 でも、浜辺で足を洗うのをすっかり忘れていたせいで、足の裏も指の間も、砂まみれだった。


 あんなことがあって、それどころじゃなかったのだ。


 外の水道で、足を洗い流す。

 冷たい水が、砂を流していく。

 その感触をぼんやりと感じながら、私はふと、さっきのことを思い出していた。

 

 誰もいない朝の浜辺。

 静かに海を見つめる、知らない横顔。

 掴まれた手首の、熱。


「……夢じゃ、なかったんだよね」


 ぽつりと、独り言が漏れた。

 砂はもうすっかり流れたのに、私はぼんやりと足に水を当て続けていた。


(いやいや、何考えているのさ私! 助けてくれただけなんだから) 


 キュッと蛇口の栓を締める。


 すっかり冷えてしまった足も、日差しに当たればすぐに熱を取り戻していく。

 空はもう、すっかり朝になっていた。

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