17話
目が覚めたのは、まだ朝も早い時間だった。
カーテンの隙間から、淡い光が差し込んでいる。もぞもぞと寝返りをうちながら枕元のスマホを確認すると、午前五時半。
(……早く目が覚めちゃったな)
普段の習慣のせいだろうか。それとも、慣れない場所だからか。
身体を起こして、周りを見渡す。
奈央が大の字で寝ていて、その隣で由美が丸くなっている。
そして凛は、こちらに背を向けて、規則正しい寝息を立てていた。
(……よく寝てる)
昨夜、あれだけ飲んだのだから当然だろう。
皆を起こさないように、そっと布団から抜け出す。
顔を洗って、髪を一つに結んで。
寝間着のままじゃなんだから、薄手のパーカーを羽織った。
(……少し、散歩でもしようかな)
まだみんなは起きそうにない。
この静かな時間を、少しだけ味わいたくなった。
コテージのドアを、音を立てないように開ける。
外に出ると、爽やかな朝の空気がふわりと頬を撫でた。
昼間の熱気が嘘みたいに涼しく、空気も澄んでいる。
空はもうすっかり明るく、その中に僅かに朝焼けのオレンジが混ざり合っていた。
自然の中でしか聞かないような、軽やかに歌う鳥の囀りが、どこかから聞こえて来る。
都会のハトやスズメの鳴き声とも違って、どこか清々しい。
海風と共にやってくる潮の匂いに誘われるように、私は海へと続く坂道を下りていった。
砂浜に着くと、そこには誰もいなかった。
昨日はあれだけ賑わっていた浜辺が、今は波の音だけを響かせている。
打ち寄せる波と、風によって彫刻された波打つ白い砂浜が、朝日を受けてきらきらと光っていた。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
サンダルを脱いで、裸足で砂を踏む。
朝の砂は、昼間とは違ってひんやりとしていて、気持ちよかった。
波打ち際まで歩いて、立ち止まる。
くるぶしまで打ち寄せる波の冷たさと、波が寄せて返す度に砂の中に足が埋まっていく感覚が、少しくすぐったくて、それでも気持ちよくて。
ただぼんやりと水平線を眺め、潮騒をBGMに昨日のことを思い出していた。
凛の言葉と、綺麗な星空の下で過ごした、あの静かな時間のことを。
(……凛、喜んでくれたみたいで良かった)
ふと、そんなことを考えて——目を閉じて波の音に聞き入っていた。
しばらくそうして過ごしていると、誰かの声が聞こえた気がした。
(……誰か来た?)
こんな朝早くに珍しいなと、何気なく振り返って——私は、固まった。
見覚えのある人影が、こちらに向かって歩いてくる。
朝日が眩しくて顔は見えないけど……何となく、直感がそうだと告げていた。
「……星野さん?」
その声に心臓が跳ねた。
やっぱり、高坂君だ。……でも何で?
砂を踏みしめながら、彼が目を丸くして近付いてくる。
ラフなTシャツに短パン。寝起きなのか、いつもより少し髪が乱れている。
「えっ、本当に星野さん!? うわ、びっくりした……!」
「……高坂君こそ、なんでここに」
驚きすぎて、声がうまく出ない。
まさか、こんなところで。このタイミングで。
「俺、友達と旅行で来てて。この近くのホテルに泊まってるんだ」
高坂君が、後ろの方を指差した。
「昨日遅くまで飲んでてみんなまだ寝てるから。俺は変に目が覚めたから一人で散歩でもって……星野さんは?」
「私も、友達と。近くのコテージに泊まってて……」
「ああ、あのいつもいる三人と? 女の子だけの旅も楽しそうだよね!」
そこで会話が途切れ、お互いにまだ若干状況が飲み込めずに見つめ合う。
「しっかし……うわー……すごい偶然だね!?」
「……ほんとに」
まさか伊豆で、しかも早朝の浜辺で会うなんて。
誰が想像できただろう。
少しの沈黙の後、高坂君が照れたように頭をかいた。
「えっと……隣、いい?」
「……どうぞ」
高坂君は、私と少し距離を空けて隣に立った。
そのまま二人で、黙って朝日に照らされる海を眺める。
ここは大学でも推し活の現場でもない。
本来彼とすれ違う事も、話す事もないはずだった場所。
そんな偶然と偶然が重なって、私はなんだか……不思議な気分を覚えていた。
「……早起きなんだね、高坂君って」
「いや、普段は全然! でもなんか、旅行先だと早く目が覚めちゃってさ。枕が合わないってやつ?」
「わかる。私も同じだよ」
「あ、だよね! だからステラのイベント遠征行く時とかも、よく寝不足なんだ~!」
ふっと、二人で笑った。
話している間も、黙っている間も、波の音が心地よく響いている。
「……朝の海って、いいね」
高坂君が、ぽつりと言った。
「昼間はあんなに賑やかなのに、今は静かでさ。なんか……特別な感じがする」
その横顔を、私はちらりと見た。
大学でみんなに囲まれている時の彼でも、ぬいぐるみを抱えてはしゃぐ彼でもない。
静かに海を見つめる、知らない横顔。
(……こういう顔も、するんだ)
静かに視線を海へと戻し、遠くを飛ぶ海鳥を目を細めて見つめた。
どれくらいそうしていただろう。
波に足元を冷やされ続けていたせいか、ふいに鼻の奥がむずむずした。
「……っくしゅっ」
小さなくしゃみが出る。
「あ、寒い? ずっと足、水につけてたもんね」
高坂君が心配そうにこちらを見た。
「……ちょっとだけ」
「そろそろ戻る? 風邪ひいたら大変だし」
「……うん。そうだね」
名残惜しいような気もしたけれど、確かにそろそろ戻った方がいい。
みんなも、そろそろ起きる頃かもしれない。
そう思って、踏み出そうとした——その時。
「……あれ」
足が、上がらなかった。
ずっと同じ場所に立ち尽くしていたせいで、足首まで砂に埋まってしまっていたのだ。
無理に足を引き抜こうとして、バランスを崩す。
「わっ……!」
グラリと身体が前のめりに傾いた。
あ……これ、転ぶな。
僅かな時間の間にそう思い、覚悟を決めた――その時だった。
「危ないっ!」
ぐっと、手首を掴まれた。
強い力で引き戻されて、転倒を免れる。
「……っ!」
顔を上げると、すぐ目の前に高坂君の顔があった。
倒れないように、まだ私の手首を、しっかりと掴んでいる。
「だ、大丈夫……?」
「……うん。ありがとう」
心臓が、変な風に跳ねていた。
掴まれた手首が、妙に熱い。
朝の海の冷たさとは、全然違う熱だった。
「……っと、ごめんね」
高坂君が、慌てたように手を離す。
その頬が、ほんのり赤く見えたのは——朝日のせいだろうか。
「砂、埋まってたんだね。気づかなかった」
「私も……ずっと立ってたから気付かなかったよ」
離れた手首に、まだ感触が残っている気がして。
私はそっと、その手を反対の手で包んだ。
(……なんだろう、これ)
知らない感覚だった。
大学で彼を見ていた時も、推し活の付き添いで隣を歩いていた時も、感じたことのない——
「星野さん? 顔赤いけど、本当に大丈夫?」
「……っ、だ、大丈夫! ちょっと、朝日が眩しくて!」
慌てて誤魔化して、私は砂から足を引き抜いた。
……自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
「えっと……それじゃあ、私はそろそろ戻るね」
「うん! 気を付けてね!」
「……ありがと。高坂君も気を付けてね」
「はは、ありがと! すごい偶然だったけど、楽しかったよ!」
いつもの屈託のない笑顔を浮かべて、高坂君が手を振る。
私も小さく手を振り返して、坂道へと足を向けた。
歩く速さはいつもより少しだけ早く、私はコテージへの坂を上っていった。
* * *
コテージに戻ると、まだみんなは眠っているようだった。
(良かった。まだみんな起きてない)
ほっと息をついて、足元を見て——
「……あ」
ビーチサンダルは、いつの間にか乾いていた。
でも、浜辺で足を洗うのをすっかり忘れていたせいで、足の裏も指の間も、砂まみれだった。
あんなことがあって、それどころじゃなかったのだ。
外の水道で、足を洗い流す。
冷たい水が、砂を流していく。
その感触をぼんやりと感じながら、私はふと、さっきのことを思い出していた。
誰もいない朝の浜辺。
静かに海を見つめる、知らない横顔。
掴まれた手首の、熱。
「……夢じゃ、なかったんだよね」
ぽつりと、独り言が漏れた。
砂はもうすっかり流れたのに、私はぼんやりと足に水を当て続けていた。
(いやいや、何考えているのさ私! 助けてくれただけなんだから)
キュッと蛇口の栓を締める。
すっかり冷えてしまった足も、日差しに当たればすぐに熱を取り戻していく。
空はもう、すっかり朝になっていた。




