謂れない恨み
ふよふよと浮かぶ半透明の魂が一人、麟の屋敷の庭園にいた。それは先ほどマオが報告していた十名の内の一人だった。
――ここはどこ? あたし、東京に帰ろうと思ったのに……。
理由もわからず招き入れられた中庭から、あやかしたちの目を盗んで戻ろうとしたが、入り口からは出られない仕組みになっていた。他に出口があるかもしれないと、広大な屋敷の中に迷い込む内に、猫耳を持った一人の女性が目に留まり、彼女の後ろに張り付くようにして移動して来たものの、また別空間の屋敷に来てしまい完全に道を失っていた。
――凄く綺麗な場所だけど、あたしはこんな所にいる場合じゃないわ。次のオーディションは絶対に逃がせないんだから!
モデルかタレントだったのだろう。執念の塊と化した少女の魂は必死になって出口を探す。
――どこの金持ち住んでんのよ⁉ ムカつくわね!
徐々に苛立ってきた少女の魂は一人で癇癪を起し、独り言がエスカレートし始める。
――そもそも、このカクリヨ? ゴウとかトクとか? よくわからないけど、あたしに与えられるっていう姿、あれ何なの? 気持ち悪い!
余程この世界で与えられる姿が気に入らなかったのだろう。一人で文句をいいながら、茂みの影から顔を覗かせたその時、屋敷の奥に人の気配を感じて慌てて隠れた。そしてそっと様子を窺うと、そこにひな達の姿が見えた。
見目麗しいヤタの姿に、少女は一瞬目を奪われて惚けてしまう。だが、彼のすぐ傍にいるひなの姿を見つけ、身を震わせる。
彼女は、あやかしの姿をしていないどころか生きた人間だと気付く。
――何……。何であいつ、生きたままここにいるの?
少女はひなに対し一方的な嫉妬と怒りを露わにする。
元々傲慢な性格をしているのだろう。ひなが今の自分にないものを持っていることが急に妬ましく思えてくる。
自分が一番。一番の自分は何でも手に入れることができて、誰にでもちやほやされて、何をしたって許されて当たり前だと疑う余地すらなかった。それが、知らない間によくわからない世界に放り出され困り果てているというのに、たいして可愛くもない人間が、あんな綺麗な男に介抱されていることが許せない。
そう思えば思うほど、黒い感情が沸きあがってくる。
――ちくしょう……! おかしいじゃない! なんであいつ人の姿でいるのよ? あいつが人の姿でいられるなら、あたしだってそうならなきゃおかしい!
少女は、怒りに身を震わせた。
――不公平だ。
半透明の体の中央から、黒い靄のようなものが広がっていく。そして、その靄は少女の体を完全に包み込む。
――ずるい……ズルい……ズルイ……許せない‼
「……!」
ヤタは、背後からただならぬ気配を感じて顔を上げ、背後を振り返る。だが、その強い思念をぶつけてくる正体はどこにもいない。
「何だ、この気配……」
ヤタは眉根を寄せ、冷や汗を流す。
この強い敵意は、明らかにひなに向いている。その気配を、傍にいた獅那も感じ取っていた。
「八咫烏……」
「悪い獅那。ちょっと偵察に出る。ひなを見ててくれ」
ヤタは立ち上がり、背中を大きな翼をはためかせ屋敷から飛び立った。
幽世に住むあやかし達の中には、悪さをする者もいる。だが、今回ひなにむけられているのは危険性の高さを感じさせるものだった。
飛び去ったヤタを薄目を開けて見ていたひなは、心配をかけたくないと傍にいる獅那の指を握った。
「獅那ちゃん……。ひな、もう大丈夫だよ」
「しかし、まだ顔色が……」
握る手の冷たさに、獅那はとても心配しているようだった。ひなは申し訳ない気持ちと嬉しさが入り混じる。
「ありがと、獅那ちゃん」
「ひなさん……」
「ひな、大人しく寝てるから、獅那ちゃんも休んでいいよ」
いつものことだから、と言葉を付け足して笑うと、獅那は眉根を寄せたまま目を伏せ、首を横に振る。
「こんな状態のひなさんを、一人にはできません」
そういうと、ひなは一瞬表情を歪めた。
安易に心を許したがゆえに、傷ついてきた。だからもう一度、昔のように気を張らねばと思っても上手くいかない。獅那の言葉が温かく心を包むからこそ、余計に言葉に詰まる。
ひなは泣き顔を見られたくなくて、顔を伏せて獅那の指を握る手に力を込める。
「……あのね、ひな、なんだか寒い。温かくなるものが欲しいな」
「わかりました。すぐに戻ります」
獅那はそういうと立ち上がり、静かに部屋を後にする。
ひなは彼女がいなくなったことを確認してから、掛けていた布団を頭からかぶった。
ひな自身も、感づいていた。
先ほどマオから向けられていたものとはまた違う、背筋から這い上がってくるような何とも言えないヒヤリとした感覚……。
きつく自分の体を抱きしめてもこみ上げてくる震えが止まらない。
(どうしよう。すごく怖い……またアレが来るかもしれない)
掛布団の中で、目には見えない恐怖に震えている内に、ひなはいつしかうとうととし始めた。まるで深い水の底に吸い込まれるように意識が遠のいていく。
『あれ……? ここ、どこ?』
ひなが目を覚ますと、身に覚えのない場所に立っていた。
辺り一面、赤と黒の世界。
無数に立ち並ぶビルに挟まれた道路のど真ん中に、ひなは立っていた。
歩道橋と歩道を歩く大勢の人たちの顔は皆黒く、同じ顔をして無表情。そして、無音の中で彼らの雑踏だけが延々響き渡る。
『り、麟さん……!』
ひなは怖くなって辺りを見回し、方角も何もわからないまま道路を走り始める。すると先ほどまで車の気配などまるで無かったはずの車が一台、もの凄い勢いで背後からひなを追い抜いて行った。
『!』
ひなは咄嗟にその場にしゃがみ込むのと同時に、耳をつんざくようなブレーキ音と、まるで雷が落ちたような大きな衝突音が響き渡る。
鼻先を掠めるガソリンの臭いに、ひなは震えながらも恐る恐る目を開き、顔を上げた。
先ほどひなを追い抜いていった車は交差点から歩道に乗り上げ、店先に頭から突っ込んで停車していた。そして、その車の傍には一人の少女が倒れているのが見えた。歳でいえば、十六歳くらいの少女だろうか。頭から大量の血を流している。
『じ、事故……』
まさか、目の前で人が車に跳ねられて死んでしまうような事故を目撃するとは夢にも思っていなかった。ひなの体は、自分でも抑えが効かないほど大きく震え、頭の中が混乱して理由がわからなくなってくる。
『ど、ど、どう、しよ……』
何とか呟いた言葉は震え、正しい言葉として口から出たかどうか自分でもわからなかった。ただ、目だけは事故現場と倒れている少女を見つめている。すると、それまでひなとは逆方向を向いていた少女の首が、ぎこちない動きで動き出したかと思うと、勢いよくひなを振り返った。
頭から血にまみれ、見開かれたままの目はまるでまだ生きているのかと勘違いを起させるようにギョロリとひなを見つめてくる。そして次の瞬間、閉じていた口がぱっくりと開いた。
――貴方ダケ生キテルナンテ、許セナイ!
脳裏にこびりつくような、不快な声。
ひなの恐怖が限界点に達し、耳を塞いで涙をこぼしながらその場にしゃがみ込む。
『……い、いやあぁああああ‼』
つんざくような悲鳴。その瞬間、自分の体の中に眠る、得も言われぬ力が弾け、大きな爆発を引き起こした。




