好意と嫌悪
「ひな?」
麟が仕事に向かってすぐ、ひなはお腹を押さえて顔を俯かせる。ヤタが傍に寄り顔を覗き込むと、ひなの顔は真っ青になっていた。
「お、おい、大丈夫か?」
「……っ」
ヤタが肩に手を置くが、ひなは小さく頷き返すのが精いっぱいだった。
今回は拒絶されるだけでなく、明らかな敵意を向けられたことへの精神的ダメージとストレスが大きい。何もしていないのに、なぜあんなに睨まれなければならないのか……。
「獅那、ひなを休ませる。床の用意をしてくれ」
ひなは小さな体を震わせ、きつく目を閉じたまま倒れそうになるのをヤタは慌てて支えた。そのヤタのぬくもりが届かない。頭の芯が痺れて声も聞こえにくくなっている。
完全に油断していた。
ここでは誰もが自分に対して友好的だと安易に信じ切ってしまっていた。自分を受け入れてくれる人しかいないのだと……。
緩んでいた糸が再びピンと張られただけじゃなく、もはや千切れそうになっている。
ひなは心を安易に明け渡してしまったことを、遠のく意識の先で少し後悔をしていた。
***
その頃、離れでは大勢のあやかし達が慌ただしく目の前の仕事に追われていた。
誰もかれもが余裕のない様子で屋敷の中を走り回り、執務室への部屋の出入りも忙しない。
広大な中庭にはたくさんの魂たちが一所に集められ、ざわめく声が響いている。
大きく開け放たれた室内では、長い文机に唐衣を纏ったあやかし達が並び、現世からやってくる魂たちの業と徳の数を順に数えていた。
「麒麟様、報告書です」
そういって手にした盆の上に山盛りに乗った巻物が次々に届けられる。少し席を外しただけで麟の執務室は所狭しと巻物の束が積み上げられ、なかなか片付かない。
麟は届けられた巻物を一つ一つ手に確認すると、必要事項を筆で書きこんではそれを丸め、定期的に取りにやってくるあやかし達に盆ごと持たせていく。
「キリがないな……」
足の踏み場もないほど積みあがっていく巻物に、麟は珍しく弱音を吐く。しかし、これは麟にしかできない仕事だ。
いつもであれば、マオと共にヤタも片付けや取りまとめ、脱走者の確保や現世で路頭に迷った魂を導きに行ったりと忙しなく動き回ってくれるのだが、今日はいない。
ヤタが抜けた部分を補うため、マオもまた忙しく働いてくれている。
「麒麟様。十名ほど魂が現世に戻ってしまったそうです。現在警備が数名、確保しに向かいました」
マオは麟に淹れたてのお茶を差し出しながら報告すると、麟は深いため息を吐きながらお茶を受け取る。
「今日はいつになく多いな」
「説明はさせて頂いているんですが、やはり業の深さが形としてはっきり目に見えると、恐怖と嫌悪で脱走を図る。今に始まったことではありませんわ」
業が深ければ深いほど、この世界で与えられる容姿は崩れ去る。その醜さこそが自分の犯した罪であり、その姿をもって向き合うことで改心させるという目的なのだが……。
「……ところで、麒麟様」
マオは涼やかな顔をしつつ、どうしても気になってやまないことを口にする。
「麒麟様のお屋敷にいたあの少女は、どこの子ですか?」
「ひなのことか?」
その言葉に、マオはぴくっと小さく眉を動かす。
「麒麟様。差し出がましいことではあるのですが、あの子は早急に元の世界に戻すべきだと思います」
冷ややかに言ってのけるマオに、麟は彼女を見る。
「八咫烏にもそういわれたよ」
「それはそうですわ。生身の人間がいるだけで、どんな危険性が……」
「それでも彼女を現世に戻すことはできない」
麟はマオの言葉を遮るようにそういうと、マオの表情が僅かに歪む。胸の前で持っていた盆を握る手にも力が籠る。
「なぜです?」
マオは麟に一歩詰め寄り、話の続きを催促する。その問いかけに麟が目を細めると、すぐにマオは「申し訳ありません」と頭を下げる。
「……あの子は、人ならざる異能を持っている子だ。それが今話せる精一杯の理由だよ」
「……」
マオは納得こそしてはいないようだったが、それ以上何も言わず黙り込んでその場を後にした。麟はそんなマオの背中を何も言わず真顔で見送り、眉根を寄せる。
ひなの処遇について否定的なものが多いのは否めない。彼女については、遅かれ早かれ帝釈天や閻魔にも知れるところにある。ならば、事前に知らせておくべきだろう。
「少なくとも、帝釈天はもう気付いているだろうがな……」
麟は筆を手に持つと、手短に二人に宛てて手紙を書いた。




