不安定
それからしばらく、目の前の賑やかな風景を眺めていたひなだったが、今までずっと気を張っていたためか、体が重たくなり麟の体に寄りかかる。
「ひな?」
麟が声をかけると、彼女はうとうととし始めていることに気が付いた。
「……無理もないな」
麟はひなの体を抱き寄せる。
「ひな、もう屋敷へ戻ろう」
「……うん」
ひなは目を擦り、寝ぼけたように呟く。
幽世へ来て、ここで食事を済ませるまでの時間感覚はそんなに経ってはいないように思ったが、激しい運動をした後のような疲れがひなの体に圧し掛かっていた。
「……凄く、疲れちゃった」
力なく笑うひなに、麟は微笑む。
眠気に抗えないひなを抱き上げると、すぐさま屋敷への道を急ぐ。
ひなは麟と共に一ノ宮の扉に入ると、前後左右の間隔が分からなくなり思わず目を閉じた。
中がどうなっているのか、怖くて目を開けられなかったが、とても賑やかな空間だった。四方八方から大勢の人が何か話しているかのような、しかし全てを聞き取ることはできない、ひなにとってはうるさい空間だった。堪らず、ひなは耳も塞いでしまう。
「……ひな、着いたよ」
麟にそう声を掛けられ、ゆっくり目を開くと屋敷の目の前に立っている。一ノ宮の扉に入って、感覚としてはほんの一、二分くらいだろうか。
それまで圧し掛かっていた重さが、不思議と軽くなったような気がした。
「急に体が軽くなった気がする」
「ここは、ひなが過ごしやすいよう結界を張ってあるからね。しばらくはここの屋敷で過ごすといい」
「ありがとう、麟さん……あ、でも」
麟はひなを地面に下ろしながらそういうと、ひなは申し訳なさそうな表情を浮かべて麟を見つめる。
「色々してくれるの嬉しいけど、それで麟さんが大変になっちゃうのは、何か嫌だなっていうか……」
その言葉を聞いた瞬間、麟の瞳が激しく動揺したように揺れる。
その言葉は……以前も耳にした。
相手を気遣うひなの言葉の温度が、麟の中でかつて聞いた言葉と強い結びつきを感じさせる。
「……なぜ」
そういいかけて、麟は言葉を詰まらせる。
胸を掴まれたような感情に包まれ、麟は切なく目を細めると何も言わずにひなを抱きしめた。
「麟さん?」
突然抱きしめられたひなは、目を瞬いて麟を見る。
麟は腕の中にいるひなの小ささに、我に返るとそっと腕を解いて僅かに視線を逸らす。
「……私が、そのことで大変になることはないよ」
「ほんとに?」
「もちろんだ」
その言葉にひなは心底嬉しそうに頷き返すと、麟に思い切り抱きつき返す。
「麟さんありがと!」
「さぁ、部屋へ戻ろう。八咫烏ももう戻ってきているはずだ」
そういって立ち上がり、先に歩き出した麟の後姿を見たひなは、無意識に麟の空いている手を見つめる。
「……」
ひなは自分の手を見つめ、もう一度麟の手を見た。
ここはお屋敷で外とは違い、手を繋いでいる理由は特にない。それでも彼の大きく温かな手に触れていたいと思ってしまった。
突然繋ぎに行ったら嫌がられるだろうか?
そう思うと怖気づきそうになる。だが、ぎゅっと自分の手を握りしめるとひなは小走りに駆け寄りその手を握りしめた。
突然手を握られて驚いたようにひなを見下ろした麟だったが、やんわりと微笑むとその手を握り返した。
「八咫烏、戻ったよ」
部屋へ戻ってくると、ヤタは部屋で獅那と膝を突き合わせて話をしていた。
声をかけると二人同時に振り返り、獅那は両手を膝の前に揃えて頭を下げる。
「お帰りなさいませ、麒麟様」
「麟、獅那にその子の世話を頼んだらしいな?」
「あぁ。彼女が適任だろうと思ってな」
麟がそういいながら彼らの傍に腰を下ろすと、ひなも同じように麟の隣に腰を下ろした。そのひなをヤタはちらりと一瞥すると、ひなは不思議そうに首を傾げる。
「頼まれたものを買ってきたが、よく分からなくて。獅那にも聞いてた所だったんだ」
すでに紐解かれていた風呂敷の中には、子供用の着物が二枚入っている。それを麟の前に差し出しながらヤタは話を続けた。
「二人で出掛けてたのか?」
「あぁ、街に降りてひなに食事を摂らせていた」
それを聞いたヤタは目を大きく見開く。
「食事って、じゃあ……」
「ひなはここに残ることを選んだよ」
ヤタは長い溜息を吐いた。本人がそう決めて自分で選んだのであれば、これ以上言うことはできない。何より、麟自身の判断もある。反論はするが逆らえるはずはない。
「……そういうことなら、仕方ねぇな」
ヤタがそう呟いたその時、廊下から足音が聞こえひなは何気なく後ろを振り返った。
「失礼いたします、麒麟様。少々宜しいでしょうか?」
廊下から現れたのは、しゃんとした背筋に、頭には猫の耳が生えた少々性格のきつそうに見える奇麗な女性だった。その声に「あぁ」と短く呟いた麟が立ち上がる。
「ひな、すまないが私はこれから仕事に戻らなければならない」
「え? お仕事……?」
仕事、と聞くと途端にひなは表情を変えた。
今よりも幼い頃、父親は仕事に行くといって家を出たっきり音信不通になったまま帰って来なくなったという経験があるだけに、もしかするとこのまま麟もいなくなってしまうのでは……と反射的に麟の着物の袖を掴んだ。
「ひな?」
麟が驚いて彼女を振り返ると、ひなは不安そうな顔を浮かべて麟を見る。
「麟さん……ちゃんと帰ってくる?」
「もちろんだよ」
麟はにっこりと微笑み彼女の頭を撫でる。その横でヤタも立ち上がろうとする姿を見て、ひなは更に困惑の色を濃くした。
「ヤタさんも?」
「そりゃそうだろ」
「……ヤタさんもいないの?」
いくら絶対に戻ると言われても、不安な気持ちが拭えない。
特に気にかけてくれる二人が同時に離れることがひなには不安で仕方がない。
先ほどまでの元気はどこへやら、しょぼんとして肩を落とすひなに、麟はヤタを振り返った。
「八咫烏。今日はひなの傍にいてやってくれないか」
「え? いや、しかし……」
「私の方はマオもいるから何とでもなる」
ヤタと麟が話をしている間、ひなはふと視線を感じてそちらに顔を向ける。するとマオと呼ばれた女性と目が合った。
「!」
ひなはその目を見た途端、ゾッとする。
彼女の、身も凍るような明らかな敵意の籠った鋭い眼差し……。
(何であのお姉さんはひなのこと睨むの……?)
ひなは激しく動揺しながらちらりとすぐそばにいるヤタと麟に視線を向ける。ほんの一瞬、ヤタとは視線が合ったように思ったが、二人は気付かずに話を続けていた。
マオの視線が怖すぎて、逃れるように視線を外したひなの顔は青ざめている。
ここには誰も自分を拒絶するものはいない。麟もそういっていたし、自分もそうだと思っていたが、どうやら彼女は違うようだ。
恐る恐る麟とヤタの様子を窺い見れば、マオが二人にとって信頼できる人物なのは理解できた。だから安易に「マオが自分を睨んでいる」などとは言えず、ひなは口を閉ざしてしまう。
「……分かったよ。今日だけだからな」
「すまない、頼んだよ」
そう呟いたヤタの言葉にひなが振り返ると、麟は困ったように笑いながら彼女の頭を撫でてくる。
「ひな。そういうことだから、今日は八咫烏が君の傍にいる。安心してほしい」
「……う、うん」
「じゃあ、行ってくるよ」
「あ……はい」
ひなは気後れしながら返事を返した。そして麟の手が離れマオの元へ向かうと、先ほどまでの鋭い眼差しをこちらに向けていたマオの表情が一変し、きりっとした表情で麟を見上げ口を開いた。
「実は、現世からの御霊の数が急遽予定よりもかなり多くなってまして……」
「何かあったのか?」
「詳しくはまだ分からないのですが、おそらく突発的な事故か何かだと……」
ひそひそと状況説明をしている声が微かに聞こえてくる。麟は近況報告を受けながらマオと共に離れへと出かけて行った。
「……」
ひなはそんな二人の後姿を見送りながら、不安に包まれる。
更にここへ来てから初めて受けた冷遇が現世でのトラウマを刺激してキリキリとお腹が痛み出し、ぎゅっと服の裾を握りしめた。




