不安定
ここは、誰一人冷たい眼差しで睨む者もいなければ排他しようとして来る者もいない。
ひなはそれが当たり前にあることなのだと思うと、今までずっと緊張してばかりいた反動なのか、身体が重たくなって意識が遠くなる。
「……」
「ひな?」
麟はふいに肩に寄りかかって来たひなを見下ろすと、彼女がウトウトとし始めている事に気付いた。
ひなの手に握られている僅かに中身の残ったコップを手に取り、舟をこぎ始めているひなの身体をそっと抱き寄せる。
「ひな、もう屋敷に戻ろうか?」
「……うん」
ひなは目を擦り、寝ぼけたように頷く。
ひなが幽世に来て、ここで食事を済ませるまでの時間の感覚はそんなには経っていないように思えたが、激しい運動をした後のような感覚が体中に圧し掛かっていた。
「……何か、凄く疲れちゃった」
へらっと力なく笑うひなに、麟は微笑む。
眠気に抗えないひなを抱き上げると、コップを近くの店に渡し屋敷への道を急ぐ。
本来、魂が入る一ノ宮から麟の屋敷に戻ると、それまで重たくのしかかっていた重さが、不思議と軽くなったような気がして、ひなは眠気ら残るものの再び元気を取り戻した。その様子を見て、麟はひなを地面に降ろす。
「急に体が軽くなった気がする」
「ここはひなが過ごしやすいように結界を張ってあるからね。しばらくはここの屋敷で過ごすと良い」
「うん! ありがとう麟さん! ……あ、でも」
「?」
全て自分の為に動いてくれる麟に、ひなは素直に嬉しく思った。だが、心の中には嬉しさと同時に申し訳なさも込み上げてくる。
ひなは困ったような笑みを浮かべた。
「色々してくれるの嬉しいけど、それで麟さんが大変になっちゃうのは、嫌だなって思って」
その言葉を聞いた瞬間、麟の瞳が激しく動揺したように揺れ、目を見開く。
その言葉は、以前も耳にした。
相手を気遣うひなの言葉の温度が麟の中で強くリンクする。
「……なぜ」
そう言いかけて麟は言葉を詰まらせる。そして同時にぎゅっと胸を掴まれたような感情に包まれ、麟は切なく目を細めると、何も言わずにひなを抱きしめた。
「麟さん?」
突然抱きしめられた事に驚いたひなは、目を瞬いて麟を見る。麟は腕の中にいるひなの小ささに少し冷静さを取り戻し、そっと腕を解いて小さくほほ笑む。
「私がそのことで大変になることはないよ」
「……ほんとに?」
「もちろんだ」
その言葉に、ひなは顔を赤らめながらも心底嬉しそうに大きく頷き返し、麟に思い切り抱きつき返す。
「麟さんありがと!」
「さあ、部屋へ戻ろう。八咫烏ももう戻って来ているはずだ」
そう言って立ち上がり、先に歩き出した麟の後姿を見たひなは無意識に麟の空いている手を見つめる。
「……」
ひなは自分の手を見つめ、もう一度麟の手を見つめる。
ここはお屋敷で外とは違い、手を繋いでいる理由は特にないのだが大きく暖かな手に触れていたいと思ってしまう。
突然繋ぎに行ったら嫌がられるだろうか?
そう思うと少し怖くもあったが、麟はそんなことで怒るような人じゃないと言う事は十分に分かっている。だから体が動き、パタパタと小走りに駆け寄るとその手を握り締めた。
突然手を握られて驚いたようにひなを見下ろした麟だったが、少しばかり不安そうな色を見せるひなの表情に、やんわりと微笑みその小さな手を握り返した。
「八咫烏。戻ったよ」
部屋へ戻って来ると、部屋でヤタは獅那とひざを突き合わせて対話している姿があった。声をかけると二人同時にこちらを振り返り、獅那は両手を膝の前に添えて頭を下げて来る。
「お帰りなさいませ、麒麟様」
「麟、獅那にその子の世話を頼んだらしいな?」
「あぁ、そうだ。彼女が適任だろうと思ってな」
麟がそう言いながら彼らの傍に腰を下ろすと、ひなも同じように麟の隣に腰を下ろした。そのひなをヤタはチラリと一瞥すると、ひなは不思議そうに首を傾げる。
「頼まれた物を買って来たけど、良く分からなくて。獅那にも聞いていた所だったんだ」
すでに紐解かれていた子供用の着物が包まれた風呂敷を麟の前に差し出しながら、ヤタは話を続ける。
「ところで、二人で出掛けてたのか?」
「あぁ。街に降りて、ひなに食事を摂らせていた」
「食事って……じゃあ……」
「ひなはここに残る事を選んだよ」
ヤタはその言葉を聞き、長いため息を吐いた。
本人がそう決めて自分で選んだのであれば、もうこれ以上言う事はできない。
「そう言う事なら、仕方ねぇな」
ヤタがそう呟いた。その時、廊下から足音が聞こえひなは何気なく後ろを振り返った。
「失礼いたします。麒麟様、少々宜しいでしょうか」
大広間の廊下に一人の女性が現れる。
しゃんとした背筋に、頭には猫の耳が生えた少々性格がキツそうに見える綺麗な女性だった。その声に「あぁ」と短く呟いた麟は立ち上がった。
「ひな。すまないが私はこれから仕事に戻らなければならない」
「え? お仕事……?」
仕事、と聞くと途端にひなは表情を変えた。
幼い頃、父親は「仕事に行く」と行って家を出て行ったと聞いている。それっきり音信不通になったまま帰ってこなかったと言う経験があるだけに、もしかするとこのまま麟もいなくなってしまうのではと反射的に麟の着物の袖を掴んだ。
「ひな?」
「麟さん……ちゃんと帰って来る?」
「もちろんだよ」
着物を掴んだまま不安がるひなに、麟はにっこりと微笑み彼女の頭を撫でる。その横でヤタも立ち上がろうとする姿を見て、ひなは困惑の色を濃くした。
「ヤタさんも?」
「そりゃそうだ。麟の手伝いをしないと」
「ヤタさんもいないの……?」
いくら絶対に戻ると言われても、不安な気持ちが拭えないのは否めない。
特に気にかけてくれている二人が同時に屋敷を離れると言う事は、この広い屋敷の中にいるのは自分と獅那だけだ。もちろん、彼女がいてくれるのも心強いのだが、まだ出会って間もないだけに不安になるのも当然だった。
先ほどまでの元気はどこへやら。しょぼんとして肩を落とすひなに麟はヤタを振り返った。
「八咫烏。今日はひなの傍にいてやってくれないか」
「え? あ、いや、しかし……」
「私の方はマオもいるから何とでもなる」
ヤタと麟が話をしている間、ひなはふと視線を感じてそちらに顔を向ける。すると、マオと呼ばれた女性と目が合った。
「!」
彼女の、身も凍るような、明らかな敵意の籠った鋭い眼差しに背筋がゾッとしてしまう。
(何であのお姉さんは、ひなの事睨むの?)
マオの顔を見ていられず、逃れるように視線を外したひなの顔は青ざめていた。
ここには誰も自分を拒絶する者はいない。麟もそう言っていたし自分もそうだと感じていたが、どうやら彼女は快く思っていないようだった。
チラリと麟やヤタの様子を伺い見れば、マオが二人にとって信頼できる人物なのは理解出来る。だから安易に「マオが自分を睨んでいる」などと言えず、ひなは口を閉ざした。
「……分かったよ。今日だけだからな」
「すまない。頼んだよ」
そう呟いたヤタの言葉にハッとなったひなが麟達を見ると、麟は困ったように笑いひなの頭をそっと撫でてくる。
「ひな。そう言う事だから、今日は八咫烏が君の傍にいる。安心して欲しい」
「う、うん」
「じゃあ、行って来るよ」
「あ……はい」
ひなは気後れしながら返事を返した。そして麟の手が離れマオの元へ向かうと、先ほどまで凍てつくような眼差しをこちらに向けていたマオの表情が一変し、キリっとした表情で麟を見上げ口を開いた。
「実は、現世からの御霊の数が急遽予定よりもかなり多くなってまして……」
「何かあったのか?」
「詳しくは分からないのですが、おそらく突発的な事故が原因かと……」
ひそひそと状況を説明している声が俄かに聞こえて来る。麟は近況報告を受けながらその女性と共に離れの棟へと出掛けて行った。
ひなはそんな二人の後ろ姿を見送りながら、不安に包まれる。更にここへ来てから初めて受けた冷遇が、現世でのトラウマを刺激してキリキリとお腹が痛み出し、ギュッと服の裾を握りしめた。




