魂の返還
***
帝釈天は水鏡の縁に爪を立てる。
――もう、これ以上は無理だ。
体が震え、汗が止まらない。
「……」
そんな帝釈天に寄り添い、彼と共に水鏡から行方を見守っていた紗詩は、苦しそうに瞳を伏せ、ゆっくりと瞳を開いた。そして、帝釈天の手に、自分の手を重ねる。
「紗詩……」
驚いて振り返ると、彼女は切なげな表情を浮かべたまま、開きかけた口を一度閉じて言葉を呑み込む。
静かに頬を滑る涙に、帝釈天は感づいた。
「旦那様……。もう、彼を終わらせてあげて」
紗詩は両手で顔を覆い隠し、細い身を震わせながらその場に泣き崩れた。
そんな彼女の言葉に、帝釈天は苦い表情を浮かべ、もう一度水鏡を見つめる。
最終局面。
ヤタを庇い、手を広げるひな。そのひなに、力のことなど眼中になく、怒りに染まった阿修羅が斬りかかろうとしている。
帝釈天は、固く瞳を閉じた。
――昔は、こんな奴じゃなかった……。
震える拳を握りしめ、目を開く。
「……わかった」
喉の奥から絞り出すような、言葉。
苦い思いだけが残る。
「魂の返還を、行う」
帝釈天は水面を撫で、気絶をしたままの麟を映し出す。そして静かに手をかざす。
「お前に託していた我が魂の核、今こそ還してもらおう」
***
地面を蹴る音が響く。
怒りに満ちた阿修羅の、凍てつく眼光は真っすぐにひなを見据えていた。
――ほんの、一瞬だけ……。
ひなは振り上げられた阿修羅の刀の刃先を見つめたまま、ぎゅっと口を引き結んだ。
「――っ!」
自分を庇うひなの姿に目を見開いたヤタは、彼女の体に咄嗟に手を伸ばす。
ひな、と叫ばれたような気がした。
ひなは目を閉じて僅かに天を仰ぐ。
その瞬間、二人の背後から突風に煽られた。
「!」
振り下ろされた刀はひなの肩を掠め、着物を裂いた。しかし、強い風に体躯がぶれ、切っ先も大きくそれた。
「なに……っ!」
立っていられない程の突風に、阿修羅も自分の顔の前に腕を掲げ、その場に踏ん張ることしかできない。
「くっ……!」
ヤタはひなの着物の帯に手をかけ、力任せに腕の中に引き込む。そして二人ともその場にしゃがみ込むことで強風に耐える。
ヤタに抱きすくめられていたひなは、彼の肩口から背後を薄目を開けて垣間見る。
「……っ」
視線の先には、太い光の柱が真っすぐ空へ伸びていた。そしてその光の元には、麟の姿がある。
「麟さん!」
ひながそう叫ぶが、言葉となる前に風に搔き消される。そのひなの動きに感づいたヤタもまた背後を振り返り、目を見張った。
「まさか……!」
麟の体から黄金色に輝く球体が現れる。それは光の柱に凄まじい速さで吸い上げられていった。光も風も次第に落ち着き始め、静かな時間が戻ってくる。そして、麟の閉じていた瞳がゆっくりと開かれた。
「くそっ……!」
強い光に当てられた阿修羅は目を覆ったまま顔を顰める。霞む視界に頭を何度も振りながら、再び刀を振り上げようとした――刹那。
空を裂いて雷を帯びた大太刀が一振り、稲妻の速さで阿修羅の足元に深々と突き刺さった。
「!」
その瞬間、阿修羅は自分の中で、何かが断ち切られた感覚が襲う。
「た、帝釈、天……」
完全体に戻った、帝釈天の放つ一閃。
これまで何度も彼との戦いに敗れてきた阿修羅は刀を取り落とし、膝から頽れる。
「……は、ははは」
膝を着いたまま、静かに笑い出した阿修羅を、ひなとヤタは険しい表情で見つめる。
「……ひな」
ひとしきり笑った後、顔を上げた阿修羅はひなを呼ぶ。
先ほどまでとは違う表情と、その呼び方にひなの胸が小さく反応する。
ひなの体が、僅かに前へ出る。
「ひな!」
ヤタに腕を掴まれて引き留られたが、ひなは真っすぐ阿修羅を見つめたまま手を伸ばした。
「……力をよこせ」
ぴくっと手が震えて止まる。
――あぁ、やはり、この人は……。
ひなは伸ばしかけた手を軽く握りしめ、その場に立ち上がった。
「あなたに力は返さない。でも、あなたは自分の力で……終わるの」
言葉尻を一瞬詰まらせながら、静かにひながそういうと、阿修羅はひなを睨み上げた。
「この、出来損ないめ……」
「……」
その言葉に、ひなは僅かに目を細めた。
ひなは阿修羅の近くに近づくと、下唇を噛みしめ、微かに震える手を彼の額に伸ばした。その瞬間、阿修羅の中で何かが激しく逆流する。抑えきれないそれは濁流のように彼の内面を掻き乱し、確実に阿修羅の生気を奪い去っていく。
怒りに満ちた阿修羅の目が、徐々に暗く沈んでいった。そして、次の瞬間阿修羅は脱力し、何も語らないまま後ろ向きに倒れ込んだ。
「……」
何が起きたのかわからない。
一連の流れを見届けたヤタは、ただ茫然と見ているしかできなかった。
ひなは倒れた阿修羅の傍にしゃがみ込み、ぽつりと呟く。
「あなただって、ほんとは……」
阿修羅の体は、足元からサラサラと砂が崩れるように消えていく。
ひなはそんな彼の頭が最後になるまで見下ろしたまま、瞼と顔を伏せる。
「でも」
阿修羅の姿は、頭の一部だけを残していた。
「あなたじゃなければ……私は、生まれてこなかった……」
全てが消え去り、ひなの呟きと一粒の涙が地面を濡らした。
静寂が戻る。
小さく体を丸めるひなの後姿は、まるで小さかった頃のひなを思い出させる。
「……」
静かに彼女の姿を見つめていたヤタの傍を、麟がゆっくりとした歩みで通り過ぎる。その姿を見たヤタは息を呑んだ。
「……ひな」
麟が声をかけると、ひなは軽く涙を拭いゆっくりと振り返る。
「麟さん……」
目の前に立っている麟は、真っ白い刀を握りしめていた。
凪いだ瞳は、神獣の時の麟を彷彿させる。だが、今はそれ以上に静かな、しかし強い光を宿している。
――こんな目の麟さんは、知らない……。
ひなはあまりの神々しさに言葉も出ない。
「彼を、無に還そう」
麟はそういうと、阿修羅がいた場所に目を向ける。器は無くなったが、まだそこに、長く彼を縛り続けた「業」が、黒い靄として揺れている。
「……」
麟は鞘から刀を抜き去り、たった一振り、靄を斬り捨てる。
黒い炎のように揺らめいていた業は、光の刀に断ち切られ跡形もなく消え去った。同時に、刀もまた光に包まれ静かに散っていった。




