不屈の精神
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水鏡で戦闘の行方を見ていた帝釈天は、水瓶の縁を強く掴んだ。
「……っぐ!」
脂汗を流しながら顔を顰め、顔を伏せてしゃがみ込む。
「だ、旦那様!?」
傍で見ていた紗詩が顔色を変え、慌てて駆け寄ってくる。
肩で荒い息を吐き、真っ青な顔で口元を押さえている帝釈天の指の隙間から、夥しい量の血が溢れ出て、白い床の上に血溜まりができた。
「水蓮! 旦那様をすぐにベッドへ!」
狼狽える紗詩に、帝釈天は彼女の肩を掴む。
「……駄目だ。俺を、この場から、動かすな」
低い声でそう呟き、ふらつきながらも水鏡の前に立つ。そんな彼に対し、紗詩は泣きそうな顔を浮かべて帝釈天に詰め寄った。
「でも! このままでは!」
悲壮な面持ちの紗詩を見つめながら、帝釈天は荒い息を吐く。
「紗詩……。元より、俺の命は、この場にはない」
「……っ!」
その言葉で、紗詩は何も言えなくなる。
「この、戦いの行く末を……俺は、見届けなければ、ならない……」
内臓を抉るような痛みに声を詰まらせ、息も絶え絶えに水鏡を覗き込んだ。
***
地獄は、異様な静けさに包まれていた。
遠くで瓦礫が崩れる音が、異様に大きく聞こえてくる。
荒れ果てた荒野に、唯一立っている人影。それは、阿修羅だけだった。
「……ひな」
顔を俯けたまま、背筋が寒くなるほど低い声で名を呼ばれ、地面に伏せていたひなの肩が微かに動く。
「こちらへ来い……」
「……」
ふらつく阿修羅が、僅かに顔を上げる。同時に、ひなもまたゆっくり体を起こし、乱れた髪もそのままに、緩慢な動きで振り返った。
「……嫌」
力のない声だが、短く、阿修羅を拒絶する。
その反応に、阿修羅の顔が怒りの形相へと変わった。
「何だと?」
「……私は、あなたを認めない」
ひなは阿修羅を睨み、ハッキリとした口調で拒む。
彼のこめかみに、青筋が立った。
「きさま……」
視線だけで殺せそうな目をひなに向けるが、ひなはそんな阿修羅を前に怯むことなく、真っ向から睨みつける。
「あなたが私を認めないように、私もあなたを認めない」
「ほう? では、お前は俺の力を返す気はない、と?」
獣のように唸る阿修羅に、ひなは視線を外すこともなく、震える手を硬く握りしめた。
「たとえ死んでも、絶対に返さない」
言い切ったひなに、阿修羅は刀の束を握った。
「……どうして」
ひなは、張り詰めていた想いが溢れ、静かに涙を流す。
「どうして、私の未来を奪うの? 私はあなたじゃないし、あなたは私じゃない」
「!」
怯まず、見据えてくるひなの眼差しに、阿修羅はぴくりと眉を動かす。
――どこかで見た顔だ。
そう思った瞬間、ひなの姿に雪那の面影が微かに重なり、僅かに目を見開く。
「きさま……あの時の駒の……!」
「人は駒じゃない。誰も、誰かの駒になるなんて、間違ってる」
ひなは眉根を寄せて怒りを露わにした。
怖くないわけではない。自分の命も消される可能性は高い。それでも、言わずにはいられなかった。
「あなたがいなければ……」
ひなはそう呟いて、言葉を呑む。
止めどない涙は溢れて、震える声を上げた。
「誰も、苦しむことはなかった」
「何……?」
「お母さんも、麟さんもヤタさんも……私だって、もっと、幸せに暮らせてた!」
ひなはきつく瞼を伏せて叫ぶ。
静かな空間に、彼女の声だけが響き渡る。その声に、ヤタの指が静かに反応を示した。
阿修羅の額に、青筋が更に浮かび上がる。
清い魂に真っ当な言葉。そして何より、汚されてなお凛とした芯を持ち、立ち向かうことを恐れない強さ……。それが、神経を逆撫でて行く。
「お前は俺の駒だ!」
「駒じゃない! 私は私。もう誰にも、良いように使わせたりしない」
人の顔色ばかりを見てきた自分。
人に合わせてばかりいた自分。
昔は、誰かに利用されることが、唯一自分が「生きている」と感じていた。しかし、それは間違っていた。
「私はもう、悪意ある力の前に屈したりしない。絶対に!」
「きさまぁああぁぁぁっ!
阿修羅は掴んでいた刀を硬く握り、地面を蹴ってひなに斬りかかった。
一瞬の内に、ひなの前に覆いかぶさる阿修羅の影。その彼の目は血走り、大きく見開かれている。
ひなはきつく瞳を閉じて、しかし逃げ出すこともせず阿修羅の太刀を待った。
その時、被さっていた影がなくなった。代わりに、水滴が落ちる音と荒い息遣いが聞えてくる。
「……え?」
「……舐めたこと……してんじゃ、ねぇ……」
息も絶え絶えなその声に、ひなが目を見開く。
「ヤ、ヤタさん……!」
ヤタはやや前屈みになり、肩で荒々しい呼吸を繰り返しながら、立っているのもやっとな状態だった。
阿修羅は地面に崩れ、脇腹に深々とヤタの刀が突き刺さって動きが取れない。
「ヤタさん、どうして……!」
「……」
返事を返す余裕すらない。
ひなは彼の着物を掴み、震える声で訴える。
「もういいよ、もうやめて。もう、庇わなくていいから」
「……」
それでも黙ったまま動かないヤタに、ひなは止まりかけていた涙が再び頬を濡らし始める。
「……ぐぅっ!」
低く呻き、阿修羅は自分で刀を引き抜き、深手を負いながらも執念で立ち上がる。その姿を見たひなは、硬く拳を握りしめ、ひなは前を睨むように見据えた。
――もう、ただ守ってもらうだけの私は、嫌!
ひなは足を踏み出すと、ヤタの前に回り込み両手を広げた。




