日常
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幽世の賑わう街は、これまでと変わらない。
この日、麟と共に買い物に出てきていたひなは、自分を知る人達に出会う度に声をかけられ、以前にも増して空気が温かい。
ひなは、それをありがたくもむず痒く思った。
自分を知ってくれた人たちは「ひな」という人間を正しく見てくれた。
買い物途中、休憩をするつもりで奈落の傍の広場にやってくる。
ほんの少しだけ、躊躇いがちに手すりに手をかけ、この日も奈落上空に集まり出した火灯虫の光を見上げながら、ひなは静かに呟く。
「……私は、私のままでいいんだよね」
目の前の光景は、依然として美しい。
そんなひなの隣に静かに立った麟は、同じように上空を見上げる。そしてひなに視線を戻すと、やんわりと微笑んだ。
「ひな。行こうか」
「うん」
麟の差し出した手を取り、二人は歩き出す。
街に戻り、買い物を楽しむ内に、ひなの手には大きな風呂敷が一つ、握られた。
中には職務中に呑むお茶やお菓子、屋敷で働く皆への差し入れや雑貨品が入っている。
それを手に歩いていると、ふいに後ろから来た人物がひょいとそれを取り上げた。
「ヤタさん」
驚いたひなの声に、ヤタは何も言わず二人の半歩前に立ち歩いている。
彼の左腕は、三角巾で首から下げられたままだ。
「鬼反屋のお婆ちゃん、大丈夫だったの?」
「……逃げてきた」
振り返ることなく一言そういうと、遥か後ろから鬼反屋の店主が、周りも驚いて足を止めるほどヤタに熱いラブコールを叫んでいる。
「……」
ひなは老婆からヤタに視線を戻すと、彼の首筋に鳥肌が立っているのを見つけ、麟と顔を合わせて笑い出した。
ヤタは青ざめた顔で眉間に深い皺を刻み、自分の肩越しに二人を睨むように見る。
「……行くぞ」
「うん! 帰ったらお仕事しなくちゃね」
そう言うと、三人は屋敷への道を急いだ。
「お帰りなさい」
執務室へ戻ってくると、中では獅那と糾卯が書物の整理をしていた。
「ちょっと離れただけで凄いことになっちゃうね……」
買い物に出ていた時間はそこまで長くない。しかし、足の踏み場もないほどの書物に溢れ返っていた。
「そうですね。この仕事に終わりはありませんから」
「でも、今日は比較的少ない方だと思うよ」
糾卯は書物の山を抱えながら、ケロッとした顔でそう答える。
ひなは麟の職務机の近くに置かれた自分の席に座った。
「ひな。これなんですが……」
そう言いながら書類の一つを手にした把蛇が訊ねると、ひなはそれに目を通す。
「うん。これはそのまま麟さんに回していいと思うよ」
「そうですか」
把蛇はそういうと、麟のところへ持っていく。
ひなは、自分が裁かなければならない仕事に再び向き合うと、ふと、あることに気付く。
「あれ? ここに置いてあったやつ……」
「あぁ、あの面倒くせぇやつだろ? それ、少し前に八咫烏が終わらせてたぞ」
狒猿が大量の追加書類を担いで職務室へ顔を出す成り、ひなの言葉に答えると、ひなは驚いたように目を見開く。
「え、そうなの?」
麟の後ろに並んでいる棚の一つで、書類の束を見ているヤタに目を向ける。その視線に気づいたヤタは顔を上げると「何だ?」という顔で見つめ返してきた。
「……」
そう言われれば、いつの間にか厄介な仕事はいつも処理されていたことを思い出す。
――彼は、そういう人だ。
ひなはそう再認識すると、にっこり微笑み返した。
「あ、そうだ。さっき皆に差し入れ買ってきたの。お茶淹れてくるから、皆は少し休憩して?」
ひなはそういうと、一度職務室を後にする。
水場で甘い干菓子とお茶を用意する。湯呑から上がる熱い湯気を見つめながら、ひなは僅かに目を細めた。
かつて、あの人は当たり前のようにここでお茶を用意していたはず……。
そう思うと少し、気持ちが沈みかける。
「……」
ひなは盆にお茶を載せ、再び執務室に戻った。
獅那たちは一所に集まり、皆思い思いに休憩をし始める横で、ひなは麟の傍に歩み寄る。
「はい、麟さん」
麟の職務机に、お茶と懐紙に載せた干菓子を置くと、麟は読んでいた手紙から視線を上げた。
「手紙?」
「あぁ。帝釈天と閻魔からだ。彼らも元気にしているようだよ」
「そっか……良かった」
麟は手紙を畳むと、もう一度ひなを見上げる。
「また、二人にも皆で会いに行こう」
「うん!」
ひなはとても嬉しそうに微笑み、大きく頷き返した。
麟は手紙を横に置くと、書類の束に手を伸ばす。それを見たひなは自分の席に戻ろうとするが、静かに呼び止められる。
「ひな」
足を止めて振り返ると、麟は手にしていた未処理案件の書類を一枚差し出してくる。ひなはそれを受け取り、目を見開いた。
「……これ」
「最近になって、この案件が少し増えてきている」
「……」
ひなは何も言わず書類を手に持ったまま自分の席に戻る。そしてその書類にもう一度視線を落とし、瞳を閉じて静かに息を吐く。
ひなはゆっくり目を開くと、筆を手に取った。




