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桜の夢路 〜守れなかった願いが導く異界譚〜  作者: 陰東 紅祢
第三章

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魂の返還

 帝釈天は、水瓶の縁に爪を立てる。

 もう、これ以上は無理だ。ひなが倒れれば全てが終わる。そして感情に飲まれた今の阿修羅には、どの言葉も届かない。


 帝釈天に寄り添い、彼と共に水瓶から行方を見ていた紗詩は、苦悶に顔を歪ませる帝釈天の手に自分の手をそっと重ねた。


「紗詩……」


 振り返ると彼女は切なげに顔を歪め、涙を流しながら口を開く。


「旦那様……。もう、彼を終わらせてあげて」

「……」


 これ以上は見ていられないとばかりに、紗詩は瞼を伏せる。そんな彼女の言葉に、帝釈天は苦しみに顔を顰めながらもう一度水瓶を見つめた。

 

 最終局面。

 ヤタを庇い、手を広げるひな。そんなひなに、力の事などもはや眼中にない阿修羅が斬りかかろうとしている姿が見える。


 昔は、こんな奴じゃなかった……。


 そう思いながら帝釈天もまた瞼を伏せ、重ねられた彼女の手に自分の手を重ねる。


「……分かった」


 苦い思いだけが残る。

 最期は友として……そして監視者として、阿修羅に引導を渡す。その為には、預けた魂の核を手元に戻さなければ……。


「魂の返還を実行する」



           ****   



 阿修羅は刀を大きく振り翳し、その切っ先はひなの身体を大きく肩から斜めに切り降ろす太刀筋。

 自分を庇うひなの姿に目を見開いたヤタは、彼女の身体に手を伸ばす。


 それらの一連の流れはゆっくり感じられた。


 「ひな!」とヤタが叫ぶのが早いか、二人の背後から突然強い風に煽られる。

 竜巻にも似た強い風に、阿修羅の切っ先は大きくそれた。立っていられない程の突風に、流石の阿修羅も自分の顔の前に腕をかかげ、その場に踏ん張るしかない。


「くっ……!!」


 ヤタの腕の中に引き込まれたひなは、二人ともその場にしゃがみ込む事で強風に耐える。その中で、ひなは薄目を開けて背後を振り返った。

 視線の先には、太い光の柱が真っ直ぐに空へ伸びている。そしてその光の元にいるのは、麟の姿だった。


「麟さん!」


 ひながそう叫ぶが、風にかき消される。しかし、ひなの動きに気付いたヤタもまた背後を振り返り、目を見張った。


「魂の核を、返すのか!」


 二人が見守る中、麟の身体から黄金色に輝く球体が現れ、それは光の柱に凄まじい速さで吸い上げられて行った。と、同時に光も風も落ち着き、静かな時間が戻ってくる。そして、麟の閉じていた瞳がゆっくりと開かれた。


「くそっ!! 一体何が……っ」


 強い光に当てられた阿修羅は目を覆い、顔を顰める。霞む視界に頭を何度も振りながら、手にした刀を振り上げようとした――刹那。

 巨大な稲妻が彼の振り上げた刀に落雷し、空を裂いて雷を帯びた大太刀が一振り、阿修羅の足元に突き刺さった。


 空間が裂けるのではない。時間が瞬間的に断ち切られた感覚が強い。


 麟に預けていた魂の核を返還し、完全体に戻った帝釈天が使える一閃。

 これまで何度も帝釈天との戦いに敗れてきた阿修羅は知っている。――帝釈天の力には抗えない、と。

 身動きが取れなくなった阿修羅は、ただ目を見開き小さく戦慄きながらその場で固まってしまう。


「……何故、だ」


 阿修羅の言葉は、今この場にいない帝釈天に向けられる。しかし、答えはない。


「……」


 ひなはヤタの傍から離れて立ち上がると、阿修羅の近くまで静かに歩み寄る。そんな彼女をギョロリと睨み下ろしてくる阿修羅に、ひなは睨み上げた。


「あなたに力は返さない。でも、あなたはあなたの力で……消えるの」


 静かにひながそう言うと、阿修羅に手を伸ばし額に当てる。その瞬間、阿修羅の中で何かが激しく逆流する。抑えきれない何かは濁流のように内面を掻き乱し、確実に阿修羅の生気を奪い去っていく。

 阿修羅はふっと力を無くし、何も語らないまま白目を剥いて後ろ向きに静かに倒れ込む。


 何が起きたのか分からない。

 一連の流れを見届けたヤタは、ただ呆然と見つめている。


 ひなは倒れた阿修羅の傍にしゃがみ込み、ポツリと呟いた。


「あなたがいなければ、誰も傷付く事はなかった。あなただって……」


 ひなはそれ以降の言葉を飲み込んだ。阿修羅の身体は足元からサラサラと砂が崩れるように消えていく。

 ひなはそんな彼の頭が最後まで残る様子を見下ろしたまま、僅かに瞼と顔を伏せる。


「だけど……」


 阿修羅の姿は、頭の一部のみになる。


「あなたじゃなければ、私は生まれて来なかった……」


 全てが消え去り、ひなの呟きと一粒の涙が地面を濡らした。


 全てが終わり、静寂が戻る。

 小さく身体を丸めるひなの後ろ姿はまるで、小さかった頃のひなを思い出させた。


 静かに彼女の姿を見つめていたヤタの傍を、麟がゆっくりとした歩みで通り過ぎる。その彼の姿に、ヤタは驚いた顔で見た。


「ひな……」


 麟が声をかけると、ひなは軽く涙を拭いゆっくりと振り返る。目の前には、麟が刀を手に立っていた。

 いつも見ていた姿とは違う彼の姿に目を瞬く。


「……麟さん」


 麟の姿を見たひなは、静かに立ち上がる。

 凪いだ瞳は、神獣の時の麟を彷彿させる。だが、今はそれ以上に静かな、しかし強い光を持っているように見えた。


「彼を無に還そう」


 麟は静かにそう言うと、阿修羅がいた場所に目を向ける。器は無くなったが、まだそこには長く彼を縛り続けた「業」が、黒い靄として揺れている。


「……これで、終わりだ」


 麟は刀を抜き、たった一振り、靄を斬り捨てた。

 靄は掻き消され、麟の手にあった刀は光に包まれ、静かに散って行った。

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