あやつり人形
その後、獅那と共に部屋に戻ったひなは小さくため息を吐いた。
これからのことを考えると、気が重くなってくる。だが、それでも覚悟をしなければならない。そう意識した瞬間、ひなは突然強いめまいを感じ、前にいる獅那に寄りかかってしまう。
「ごめん、なさい……何か、急に……めまいが……」
「ひなさん!?」
青ざめた顔で顔を伏せ、瞳を閉じるひなに獅那は体を支えながら声をかけた。
先ほどまでなにもなかったひなの突然の体調の変化に、獅那は違和感を覚える。
「大丈夫ですか?」
「……」
ひなは答えられず、その場に座り込んでしまう。
獅那は体を支えながら共にしゃがみ込み、ひなの顔を覗き込む。
「……!」
獅那は冷たい気配を感じ、弾かれるように視線を周りに巡らせる。
「阿修羅……」
ひなの夢に侵食しようとしている。
それに気付いた獅那は着物の合わせに入れていた一枚の紙を取り出した。
『地獄は、幽世にいるより阿修羅の影響を受けやすい。気休めにしかならないかもしれないが、もしひなに異変があった時は、これを使ってみてくれ』
ここへ来る前に、麟に持たされた護符だった。
その護符をひなの額に貼り付け、目を閉じてうなされるひなの手を握りしめる。
「ひなさん。負けては駄目ですよ」
***
暗い。
足元から這い上がってくるような、重たく、身の毛のよだつ気配にひなは身を拘束されている。
――阿修羅がきた。
ひなはすぐに気づく。
いつも背面から出てくるはずの阿修羅が、足元から着物を掴んで這い上ってくる感覚に背筋が凍り着く。
――もしここで阿修羅に力を奪われたら……。
だが、それをわかっていても身動きが取れないことに、ひなは焦りの色をみせていた。
――どうしよう。いつもと違う。もっと……力が強い。
自分に、その力を振り切れるほどの力はない。そう思った瞬間、暗い世界に一本の稲妻が走るように、蛇行する光が走った。同時に、ふわりと香る桜の香りと、身を包む柔らかな感触に、ひなは顔を上げた。
――大丈夫……。
姿は見えずとも、そこに雪那の加護が見えた。
雪那は、今もまだ自分の傍にいる。
それが分かると、それまで足元にまとわりついていた黒い気配が苦しげにうねりながら退いていく。
『……忌々しい』
遠くから響く、おぞましいほど低い恨みの籠った声がひなの耳に届く。その瞬間、後頭部に強い衝撃が襲い、ひなは一瞬息を詰まらせ目を閉じた。
***
ひなは、ゆっくりと目を開く。
「ひなさん!」
とても短い間の出来事だった。
獅那が目覚めたひなを見てホッとするのもつかの間、ひなはゆっくりとその場に立ち上がる。
「……ひな、さん?」
様子がおかしいことに気付いた獅那が、探るように声をかけた。するとひなは、顔の前にあった護符を何も言わず、乱雑に掴むと畳に投げ捨てる。
「!?」
そのひなの行動と無表情な顔、光のない虚ろな瞳。吐く息は細く、息が止まっているように見える。そんな姿に、彼女が阿修羅の影響を強く受けていると察知する。
部屋を出てどこかへ行こうとするひなの体を押さえ、獅那は声を上げる。
「ひなさん! どこへ行くというんです!?」
「……」
止める獅那に目もくれず、ひなは彼女の手を振り払いながら、一歩一歩、着実に屋敷の外へ向かって歩みを進めていく。
獅那も必死に止めているが、まるで歯が立たない。
「ひなさん!」
獅那の引き留めは何の足掛かりにもならず、ひなはそのまま屋敷の外へ出た。そしてやっと足を止めたことに、獅那は視線を上げる。
「!」
思わず目を見張った。
屋敷の入り口から三メートルほど距離を取った位置に立っていたのは……マオだ。
彼女の姿を確認した瞬間、獅那は冷たい汗が頬を伝った。
「マオ、さん……」
「あら。誰かと思ったら獅那じゃない。ここで会うのは初めてね」
よく知るいつものマオ。涼しい顔で、しかし冷ややかな笑みを口元に湛えている。
「その子、わざわざ連れ出してきてくれたんですの?」
「何を……そんなわけ……」
すると、マオの表情が一変する。
獅那は一度も見たことがない冷たい表情。すとんと瞼が落ち、目を眇めて笑う彼女の姿は異様だった。
マオはゆっくりと着物の袂から短剣を取り出し、鞘を抜き去り、鋭い刃先を光らせた。
「その子がいる限り、あの人の安全は守られない」
抑揚のない呟くような言葉が、乾いた空気と共に獅那の耳に届く。
――危険だ。
獅那が咄嗟に身構えるのと同時に、マオは地面を強く蹴ってひなに斬りかかってきた。




