似て非なる世界
麟と共に屋敷の玄関へ向かったひなは、引き戸を開けた瞬間思わず足を止めた。
引き戸の向こう、玄関の三和土から先に地面がない。
「麟さん……地面がないよ?」
地面がない、というよりも、濃い霧で先が見えないといった方が正しかった。
先の見えない不安から、ひなは無意識に繋いでいる麟の手をぎゅっと握りしめた。麟はそのひなの手をやんわりと握り返し、彼女を見下ろす。
「ひな。ここから先は私の傍を離れてはいけないよ」
「どうして?」
「ここから先は様々な世界に通じている。もしはぐれてしまったら、まだこの世界の住人として日の浅い君は、世界の理を曲げる異物扱いされて、どこへ飛ばされてしまうか分からない。そうなったら、私でも助けてあげられなくなってしまう」
この世界に認めてもらえるまでは麟の傍を離れてはならないというその言葉に、ひなは表情を硬くする。まるで、この幽世自体が意識を持った生き物のようないい方に、背筋に悪寒が走った。
ひなは繋いでいる手の上から空いている方の手を重ねて麟の手を握りしめる。見れば、彼女の顔は緊張と真剣な眼差しで見上げる顔に、麟は小さく笑みを浮かべた。
「分かった。絶対麟さんの傍から離れない」
「……いい子だ」
麟は一歩濃霧の空間に足を踏み入れる。すると風が吹いたように足元から霧が晴れ、みるみる内に視界が開けていく。
「うわぁ……」
突如広がった視界にひなは思わず声を上げた。
麟の住む屋敷の目の前には大きな鳥居と朱色の手すりが付いた大きな階段が見える。中央手すりには小さな赤い提灯が等間隔に下げられ、階段の両脇には同色の灯篭がやはり等間隔に並んでいる。
「……あれ? ここって」
ひなはふと気が付く。細かい違いはあるものの、目の前の景色に見覚えがあった。
麟の屋敷は山の頂上にある。そして目の前の石でできた巨大な鳥居。その鳥居の先に見える絶景や急勾配のきつい階段。山の麓の街並みに、すぐそばにある海。遠くの山々にかかる雲海……。
誰が見ても間違いなく「絶景」だと言わしめるこの光景は、ひながよく知る場所だった。
「高神、神社……?」
思わず零したその言葉に、麟は目を細めて彼女を見る。
ひなが一心不乱に別世界へ行くことを望み、幾度となく参拝したあの神社と同じ光景が、今目の前に広がっている。
「幽世に来たんじゃないの……?」
あまりにも変わらない風景に不安になったひなが麟を見上げると、彼はにっこりと微笑みかけた。
「行きながら説明しようか」
するとそこへ一匹の生き物が近づいて来る。そして二人の前にやってくると、すとんと座り小さく頭を下げた。見れば、それは奇妙な小猿だった。くりくりとした丸くて黒い瞳をした変わった子猿の手元には、柄のついた提灯が下げられている。
ひなはその子猿を見た瞬間、思ったままの言葉が口を突いて出た。
「可愛い」
子猿はぴくりと大きな耳を動かした。その言葉がよほど気に入らなかったのか、人懐っこそうな瞳を鋭く光らせてひなを睨みつけてくる。
「可愛い⁉ わっちはその言葉がいっちゃん嫌いなんだ! どうせならカッコイイと言ってくれ!」
「え⁉ 喋った!」
突然のことに、今度はひなが目を丸くする。
二人のやり取りを見ていた麟は困ったように笑った。
「彼は道先案内人だ。少々口が悪くて小難しい奴だが、許してやってくれ」
「麒麟様。わっちは今、そこなお嬢さんに侮辱されたようなもんだぜ? 可愛いなんて言葉、わっちには世界一似合わねぇ。訂正してくんな!」
赤い顔を更に赤くして頬を膨らまし、腕を組んで横を向いてしまった子猿にひなは麟を見上げる。
「麟さん、このお猿さん、名前はないの?」
「彼はマシラという名前だよ」
マシラと呼ばれた子猿は「ふんっ!」と鼻息荒くしたまま一向にこちらを向こうともしない。
このままでは先に進めないと、麟は身を屈めひなの耳元にこそっと耳打ちをする。
『彼に対しては言葉遣いを少し気を付けてやってくれるかい? 一度へそを曲げるとなかなか頑固で、後が大変なんだ。でも難しいことじゃない。彼が喜ぶように少し大げさに褒めてあげればいい』
そういうとひなは頷き返し、マシラの方へ振り返った。
「えっと……マシラさん? ごめんなさい。今度から気を付けます。道先案内人をずっとしてるなんて、凄くカッコイイですね」
その瞬間、マシラの耳がぴくりと動く。赤らんだ顔が更に赤みを増し、興奮したようにこちらを振り返った。
「……お? おお? 今何てった? カッコイイ? カッコイイって言ったな?」
鼻息荒く、鋭かった目つきが再び丸みを帯び歓喜を露わにする。
「よく分かってんじゃねぇか! そうよ、わっちはカッコイイんだ! よっし、そんじゃ行こうぜ!」
一瞬で手のひらを返したマシラのあまりの単純さに、ひなは目を瞬いて茫然としてしまったが、すぐにおかしくなって笑ってしまう。
「おう! 何やってんだ! 早くしねぇと置いてくぞ!」
鼻歌交じりに息巻くマシラを追って、麟はひなと共に階段を降り始めた。
ひなは麟と共に階段を下りながら、跳ねるように先を行くマシラや覆いかぶさるように生え揃う木々を見る。香る草木の匂いも、踏みしめる地面の感触も、全てが同じだ。
周りを見回すひなに、麟は前を見たまま口を開く。
「……ここは、君がよく知る場所に似ているかもしれないが、違う場所だ」
「こんなに同じなのに?」
「現世と幽世は常に隣り合わせにある。だから似ているんだよ」
「……そうなんだ」
ここまで似ていると、自分が今どこにいるのか分からなくなりそうだった。しかし、確かな物として麟やマシラの存在があることで、自分は幽世にいるのだと確証が持てる。
山の中腹あたりに来ると、道が左右に広がる場所に出る。マシラはそこで足を止めてこちらを振り返り待っていた。麟もそこで足を止めてひなを見る。
「ひな、説明をしておこう。この世界は様々な場所に繋がっていると伝えたね?」
「うん」
「ここはその扉の一部がある。右は二ノ宮といい、極楽へ通じる道。そして左は三ノ宮といい、現世に繋がっている道だ」
ひなが道の奥を覗くように体を傾けると、二ノ宮の鳥居は金色をしており、鳥居の上にある額束には白で「極楽」と彫られている。変わり、三ノ宮の鳥居は色のない木でできており、やはり額束には黒で「現世」と彫られていた。
「ここ、通ったらひなのいる世界に戻っちゃうんだ……」
その言葉に、麟は目を細めて見守る中、ひなは現世に繋がる扉をしばし見つめた後、麟の方へ向き直る。
「麟さん。ほかの場所も見てみたい」
現世の扉に完全に背を向けて、ひなは麟を見上げ笑顔でそういった。
彼女自身がつけた現世への決別は確かなものと目に見えた。
麟はそんなひなの様子に僅かに目を見開いたが、柔らかく微笑み頭を撫でる。
「では、次の場所へ移ろうか」
「うん」
互いに繋いだ手をもう一度繋ぎ直す。そんな二人の様子を見たマシラが、再び前を向いて山道を下り始めた。
ひなは山を下りながら、現世で通った山道と同じ感触を足裏に覚えていた。少し懐かしくもあり、苦い記憶でもある。
「わっ……!」
周りを見回していたひなは、足を取られた。
咄嗟に腕を引かれ、気付いた時には麟の胸に支えられていた。
「大丈夫か?」
落ち着いたその声に、早鐘のようだった鼓動が少しだけ落ち着く。
「う、うん。ごめんなさい」
こんな急な山道で転んだら、どこまで滑落するか分からない。
再び地面に足をつけて立とうとすると、麟はそのままひなを抱き上げる。それに驚いてひなは目を瞬いた。
「道が長くて疲れただろう?」
「つ、疲れてないよ」
麟はくすくすと笑い、顔が赤らむひなを抱えたまま階段を下り始めた。
山道をだいぶ下ったところでマシラが再び足を止めこちらを振り返った。見れば、マシラの右隣には先に見た二つの鳥居より大きな石の鳥居が見える。額束には「采配」と色がなく彫られていた。そして上の鳥居と違うのは、その鳥居には下から登ってくる光が列に並んで次々に入っていっている。
「麟さん、ここは?」
「ここは一ノ宮。彼らは現世で亡くなった者たちの魂で、死後はここを通り私の屋敷にくるんだ」
「じゃあ、ここはあのお屋敷への近道ってこと?」
「そうだね」
ひなの解釈に、麟は頷き返した。
「麟さんのお屋敷にこの人たちは行って何をするの?」
「屋敷では彼らの業と徳を量り、彼らにここで生きるための仮の姿と仕事を与える。新たな姿与えられた彼らはあやかしとなり、あの街で生前と同じように暮らしながら最終審判の時を待つんだ」
麟が指さす先には、まるで昔の城下町のような街並みが広がっていた。街には赤い提灯が幾つも下げられている。風に乗って美味しそうな食べ物の匂いがここまで漂ってきていた。
「麒麟様、街まで降りますかい?」
「そうだな、少し降りてみようか。ひなに見せたいものもある」
ひなは不思議そうに麟を見ると、「行ってからのお楽しみだよ」と微笑みかけてきた。




