ここにいる
「じゃあ、ひな。この屋敷内と幽世の世界について少し案内しようか」
麟はそう言いながら立ち上がる。
そんな彼の動作につられるように、ひなは驚いたように視線を上げた。
「?」
その表情に麟は不思議そうな顔を浮かべる。
「……誰かが、ひなのために時間作ってくれるの初めてだから、びっくりしちゃって」
「……」
これは……よっぽどではないか。
同じように感じていたヤタは麟と顔を見合わせる。
「そうか……。じゃあ、これからは少しずつ一緒にいる時間を増やしていこう」
「……うん!」
その言葉がひなの心を大きく動かした。
突然花が咲いたかのように表情が明るくなり、ひなは満面の笑みを浮かべて頷き返した。
「八咫烏。お前は鬼反屋に行って、ひなの着物をいくつか見繕って来てくれないか?」
その瞬間、ヤタは怪訝な表情を浮かべ「鬼反屋か……」と小さくごちたのをひなは聞き逃さなかった。
その店に何があるのだろうと不思議に思いヤタを見ていると、彼は深いため息を吐きながらゆっくりと重い腰を上げる。
「……行ってくる」
渋々そういうと、背中の黒い翼をはためかせ縁側から飛び立つ。その彼の姿を無意識に追いかけて縁側に出たひなは目を輝かせる。
「わぁ……凄い」
ヤタの姿を見送り、ひなは感嘆の声を上げた。
「ひな、おいで」
縁側の手すりから身を乗り出すひなに麟は声をかける。
呼ばれて振り返った彼女の目の前には麟の大きな手が差し伸べられていた。
ここへ来る前には躊躇うことなく取ったその手を、こうして改めて差し出されると少し戸惑ってしまう。ひなのこの極端な遠慮と自己肯定感の低さは、どうにもやるせない。ならば……と、麟は差し出した手とは逆の手も差し出し、彼女の体を抱き上げた。
「!」
「遠慮はしなくていい」
そう言って笑うと、ひなは小さく頷き返した。
麟に抱きかかえられたまま広い屋敷の中をぐるりと見て回る。広い庭園には桜の木が何本もあり、池には立派な錦鯉が泳いでいる。現世はまだ秋になろうとしている頃だっただけに、季節感に違和感を抱かずにはいられない。
「麟さん、ここはずっと春なの?」
広い庭を眺められる廊下で、ひなはそう訊ねる。
「四季はある。ただ、ここはひなのいた世界とは違って、時間の流れがとてもゆっくりなんだ」
「そんなに違うの?」
「そうだね。例えば現世で一年が過ぎる時、この世界ではまだ一日しか経っていないことになる」
「そうなんだ。じゃあひなは、ここにいたらおばあちゃんになかなかならないんだ」
子供らしい素直な反応に、麟は柔らかな笑みを浮かべる。
「……怖くはないかい?」
麟はひなを廊下に下ろしながらおもむろに訊ねると、ひなは真っすぐに麟を見上げ首を傾げる。
「怖い?」
「そう。ここは死後の世界だ。現世で死んだ魂が集まる世界……」
その時、白い紙の面をつけた女性が、廊下の奥から歩いてくる。彼女が手にしている小さな器には、瑞々しい桃が乗っていた。
麟はその器を受け取り、ひなを振り返る。
「ひな。私は君の望み通りここへ連れてきた。つまり、君は生きたままで死者の世界に来たということになる」
「うん……」
「生きた人間がこの世界にくることはない。もし、君がそのままこの屋敷を出れば……消えてなくなるだろう」
躊躇いがちにいう麟の言葉に、ひなはぞくっと背筋に寒気を覚える。
「それを防ぐ方法は一つ。この世界の食べ物を食べればいい」
そういいながら麟は器を差し出すと、ひなは疑うことなくその桃に手を伸ばしかけた。だが、麟は一度それをやんわりと制する。
「これは君のために切らせた桃だが、食べる前にもう一度聞いてもいいかい? 君は、本当に現世に戻らなくていいんだね?」
ひなはその問いかけに、一度言葉を呑んだ。だがすぐに麟を見上げ静かに頷く。
「ひなは、あっちの世界には帰りたくない。だって……あっちの世界にはひなのことを嫌う人はいても、好きになってくれる人はいないもん」
「本当に?」
麟の更なる確認に、まるで現世に帰るよう促されているような気持になる。
ひなは無意識に服の裾を掴んでいた。
「……ひなは、ここにいちゃ駄目なの?」
麟の顔色を窺うように上目遣いで見つめると、麟は笑みを浮かべたままゆっくりと首を横に振った。
「ひなが望むなら、ここにいるといい」
いてもいいといって貰えたひなもまた笑みを浮かべる。
麟は手にしていた桃をひなに手渡すと、彼女は廊下の縁に腰を下ろし躊躇うことなくそれを口に含む。
たっぷりとした桃の甘い果汁がひなの喉を潤し、忘れていた空腹感を満たしていく。
その時、背後で少々慌ただしく行き交う足音が聞こえてきた。
ひながそちらに気付いて振り返ると、屋敷と離れを繋ぐ渡殿の向こうで、人とは違う成りをした人物が何人も走っている姿が見える。
「あの妖怪さん、お仕事してるの?」
廊下を往来する者たちがあやかしだということに驚きもせず、ひなは訊ねた。
「彼らは私の仕事を助けてくれているんだ」
「麟さんてどんなお仕事してるの?」
「そうだな……。外から来た客人をもてなす仕事、といえばいいだろうか」
「お店屋さん?」
「店か……。まぁ、あながち間違いではないかな」
麟は笑いながらひなの頭を撫でる。
「君はあの渡殿から先には入っちゃいけないよ」
「うん、分かった」
「君はこの屋敷に私と共に暮らすことになる。居住区内であれば、どこの部屋でも好きに出入りしてもらって構わない」
このあまりに広い屋敷の中のどこに行ってもいいといわれ、嬉しいと思う反面ひなは悩んでしまった。
「凄く広いから迷子になっちゃうかも……」
「そうか。なら、一人傍仕えをつけよう」
「傍仕え?」
「君の身の回りの世話をする女性のことだよ」
麟は着物の合わせから一枚の人型の紙を取り出すと、ふっとその紙に息を吹きかける。すると紙は意志を持ったかのように小さく揺れ、麟の手元から離れてひなの傍に舞い降りた。その紙が床につくか否か、突然むくむくと大きくなり、ひなの目の前で紺色の着物を纏う優しそうな雰囲気の奇麗な女性へと変化する。
ひなはその様子に言葉もなく茫然と見入っていると、女性の閉じていた瞳がゆっくりと開かれ、麟を前にたおやかに頭を下げた。
「この方がひなさん、ですね?」
女性は多くを語らず、ひなを振り返りながらそういうと麟は静かに頷いた。
「あぁ。彼女の身の回りの世話をしてほしい」
「承知いたしました」
まるで魔法だ。
人型をしたただの紙が、麟によって普通の人に化けた。これを魔法と呼ばずになんといえばよいのだろう。
そんなことを考えながら二人のやり取りを見ていたひなに、女性は微笑みかけた。
「ひなさん。私は獅那と申します。これからよろしくお願いしますね」
「あ、はい。えっと……よろしくお願いします」
気後れしながらひなが頭を下げると、獅那は優しく頭を撫でてきた。
「ではひな。次は屋敷を出て、外の世界の話をしよう」
「うん!」
ひなはもう臆することなく、差し出された麟の手をしっかりと握り返す。
獅那は出かける二人を静かに見送り、頭を下げていた。




