まだ知らない雪那の真実
「……ひな殿、大丈夫ですか?」
「あ、はい……」
不知火はひなを支え起こすと、入念に周りの気配を探る。
ひなは、そんな彼の肩の傷に気が付き、袖を引いた。
「あの、ケガしてます」
「え? あぁ、このくらい問題ありません。それより、今は閻魔様の元へ参りましょう」
「閻、魔……?」
その名前を聞いて、ひなの鼓動が跳ねた。視線が泳ぎ、不安の色が濃くなった。
「もしかして私……死んじゃった、んですか?」
戸惑いながらそう問いかけると、不知火は虚を突かれたように目を瞬く。だが、すぐに小さく噴き出し、微笑んだ。
「いえ。死んでいませんよ」
「でも、閻魔って……」
「ここは地獄ですから、番人である閻魔様はいらっしゃいますよ」
にっこりと微笑む不知火に、ひなは不安そうに彼を見上げた。
「ひとまず、移動しましょう。ここにいては、また阿修羅に気取られます」
そういうと、不知火はひなを閻魔の元へ連れていく。
幽世とは違い、どこにいても地獄ならではの空気の重たさと、人々の叫びや怒号が絶えず方々から聞こえ、どうにも落ち着かない。
焼け野原になったあとの更地のように、赤茶けた地面がどこまでも広がる無機質な世界が、落ち着きを欠き、前を行く不知火だけを必死に追いかける。ほどなく、目の前に現れたのは無限に広がる壁と立派な御殿だった。鳥居のような大門をくぐり、中に入れば鬼たちが当たり前のようにあちらこちらで動いている姿がある。
ひなはふいに目の前を通り過ぎる鬼に驚き、無意識に不知火の着物の袖を握った。
「あ、ご、ごめんなさい。つい……」
ひなは手を放し、反射的に謝る。
ヤタによく似た不知火の存在が、今のひなには唯一安心できる場所だった。
「いえ。お気になさらず。閻魔様はこちらです」
執務室に案内されたひなの目の前には、山ほどある大きな体躯の閻魔と、同じだけ積みあがった紙の束が現れた。
少し仰け反らなければならないほど見上げる閻魔の姿に、ひなは言葉を失う。
閻魔は持っていたペンを卓上に戻し、ひなを見下ろす。
「あなたがひな殿か」
「……は、はい」
「私は地獄の番人、閻魔。君の噂はかねがね聞いている」
体形に見合った低い声に圧倒される。
「ふむ。こうしてみると、君は確かに雪那殿によく似ているな」
「え?」
思いがけず母の名が出たことに、ひなは驚いた。その閻魔の顔には、何とも言えない哀愁が感じられる。
「お母さんを知ってるんですか?」
「あぁ。彼女もまた、幽世から落ちてきたからね」
「……」
ひなは言葉を呑んだ。
――私が、落としたのよ。
奈落に突き落とされる直前に聞いたマオの言葉が蘇る。ひなはぎゅっと口を引き結び、悲壮な表情を浮かべ、手を握った。
「……ここまで、大変だったな」
肩を落とし、黙り込んでいたひなに労いの言葉をかけると、胸が詰まった。
閻魔は、もっと怖い印象があった。だが、実際に会ってみればとても思慮深く、優しい。
ひなは言葉にならず、小さく頭を下げた。
「ひな殿。本来なら、あなたをすぐ客間へと案内したいのだが、今はあまり悠長にしていられなくてな……」
閻魔は執務室から鬼たちを一時的に退室させるような動きを見せると、それまで部屋の中にいた鬼たちは、そそくさと部屋を出ていった。
今、この執務室にいるのは、三人だけだ。
「あなたにも関わる話だ。申し訳ないが、このまま話を続けても良いだろうか?」
自分にも関わる話という閻魔の言葉に、ひなはごくりと喉を鳴らした。
「……はい」
力なくも、確かな返事を返したひなを見て小さく頷くと、閻魔は不知火に視線を向ける。
「不知火。ご苦労だった」
「痛み入ります」
「ひな殿と共に落ちてきた、もう一人はどうした?」
「阿修羅に連れ去られました」
閻魔は、何かに気付いたように一度視線をそらした。
「……なるほど」
「その人物なのですが……」
不知火は閻魔の僅かな表情を見て、不思議に思いながら報告を続ける。
「麒麟殿の側近のマオ殿でした。彼女はおそらく、阿修羅側の人間だったようです」
閻魔は深いため息を吐き、顔の前に手を組む。
「やはりそうか……」
息を吐きながら呟いたその言葉に、ひなたちは不思議そうな顔を浮かべる。
「そのマオ殿だが……麒麟の側近として着いた頃が実は曖昧でな。不審な点が多く、帝釈天が訝しんでいた」
その話を聞いた不知火とひなは、どちらからともなく顔を見合わせた。
「それは、いつから……」
「始めから、だな。水鏡を通してもわからなかったぐらいだ。よほどうまく入り込んだんだろう」
閻魔は組んでいた手を外し、着物の袂に腕を入れて組み直し、椅子に深く腰を掛け直す。
「虎視眈々と機会を窺っていたのは否めまい」
ちらり、と閻魔はひなに視線を投げかける。その視線に気づいたひなが彼を見つめ返す。
「麒麟があなたを現世から連れてきたのは、偶然かと思ったが……君は雪那殿の血を引き、阿修羅の力を継いでいるそうだね?」
ひなの表情が沈み、胸がぎゅっと痛くなる。
「はい……」
そこを詰められると、ひなは力なく返事をするしかない。どうしても、阿修羅の血を引いているというだけで、罪悪感を覚えた。
「夢で、阿修羅は私を迎えに来ると言っていました」
「力の奪還目的だな」
「……はい」
表情を曇らせ、俯くひなに、不知火は彼女を見つめる。
ヤタが阿修羅に渡すなと釘を刺した理由がようやく呑み込めた。閻魔もまた、長いため息が漏れた。
「これまで何も起きなかったのは、雪那殿が払ってきた犠牲が大きかったのだろうな」
「お母さんの、犠牲って……」
ひなが申し訳なさそうに訊ね返すと、閻魔は一瞬視線をそらした。
――どこまで話すべきか……。
逡巡したが、ゆっくりと視線をひなに戻した。
「こうなった以上、話さないのもおかしな話だな」
そういうと、閻魔は言葉を選ぶように沈黙する。
「……彼女は」
そう言いかけて、ひなの顔を見た閻魔は言葉に言い淀んだ。
「彼女は……阿修羅から力を削ぐために、自ら身を捧げたのだよ」
「!」
ひなは喉の奥が絞まるような感覚を覚える。
自らを捧げるということは、つまり……。
「お母さんは、そのために全部、捨てたの……?」
「……」
これ以上ない安泰の道。約束された未来。その全てを捨てて、その一瞬に捧げた雪那の覚悟は想像を絶する。
ひなは、母の覚悟と揺るがない愛を知ったような気がした。
幸せな時間を投げ捨てても守りたいと思うほど、強い麟への愛情に胸が抉られる。
ひなは下唇を噛み、視線を下げる。
「こうして、かつての血が再び同じ場所に戻ってくるとは、一体何の因果なのだろうな……」
閻魔は瞳を閉じる。
「とにかく、今はひな殿。あなたを最優先に保護しよう。……正直、あなたの存在は危うく、そして尊い」
閻魔の言葉に、ひなは小さく頷き返すことしかできなかった。
「不知火。彼女を客間に」
「はい」
閻魔に促され、二人は執務室を後にした。
廊下の床板を見つめながら、ひなは不知火の後ろをついて歩く。
赤と黒、じんわりと暑さを感じさせる地獄には似つかわしくないほど、閻魔の屋敷は穏やかで、静かだった。
「……あの」
「はい」
ふと声をかけると、不知火は足を止めてひなを振り返る。
ひなは不知火を見つめながら、申し訳なさそうな顔を浮かべるが、それを言葉にせず呑み込んだ。
「……ヤタさんに、そっくりなんですね」
不知火はその言葉に、目尻を緩め微笑んだ。
「はい。八咫烏は私の双子の兄ですから」
「あ……そうだったんですね」
元気がない。取り留めない話をして、本心を語ることを躊躇うひなに、不知火は小さく咳払いをする。
「兄からの命、というのもありますが……ここでは私がひな殿を守るので、ご安心下さい」
「……ありがとう、ございます」
ひなはぎゅっと手を握りしめ、小さく礼を述べた。




