間一髪
地獄では、阿修羅の封印が解けてからというもの、頻繁に群発地震が起きるようになっていた。地獄にいる人々も鬼たちも、不穏な空気に晒され続け、暴動があちらこちらで勃発し、まさに地獄絵図をそのまま描いていた。
地獄全体の管理に追われながら、阿修羅へ細心の注意を払わなければならない閻魔も不知火も、神経がすり減りそうだった。
「閻魔様、以前地獄谷で起きた暴動ですが……」
執務室には、ひっきりなしに大量の書類が運び込まれる中、不知火が閻魔に報告をしている時だった。
閻魔と不知火、二人揃って顔を上げる。
「またか」
「!」
閻魔が呟く間に、不知火は阿修羅の洞窟からの気配に気づく。
「閻魔様!」
「……」
不知火が険しい表情で振り返ると、閻魔は深く頷き返す。
手にしていた報告書類をその場に置き、不知火はすぐさま謁見の間を飛び出した。
心臓が跳ねる。緊張から、体が強張るのを感じていた。
不知火は屋敷を飛び出し、上空に目を向けた。
奈落から落下する二つの影を確認するなり、不知火は背中の翼を勢いよく広げ、全速力でそちらに向かって飛ぶ。
――急がなければ。
息を呑み、焦りを感じていた。
――奴に渡すわけにはいかない。
不知火は真っすぐ、落ちてくる影を見つめる。
二つの内、一つは麒麟の気配が強く、もう一つは地獄には似つかわしくない、弱弱しくも清い気配がある。
それが――ひなだ。
『不知火。ひなを阿修羅に渡すな』
少し前、阿修羅の動向について幽世に行った際、ヤタは不知火にそう伝えていた。
『もしこの先、お前がひなと接触することがあったら、何よりも先に、ひなの身の安全を確保してくれ』
あの時の兄の余裕のない表情からは、ただならぬ気迫を感じた。
彼女が阿修羅に渡れば、過去の再来……それ以上のものになる。
――何が何でも、ひなは阿修羅に引き渡すわけにはいかない。
不知火は翼をはためかせ、ひなの元へ急ぐ中、右方向からも凄まじい速さで伸びる黒い影がくる。
「阿修羅……!」
阿修羅の気配を纏うその影もまた、ひなを狙っている。
「くそっ! 間に合えっ!!」
不知火は冷や汗を流し、歯を食いしばる。
気絶しているひなとマオの顔が、はっきり確認できる距離にまで迫ると、不知火は腕を伸ばした。
「ひな殿!」
だが、不知火の手が届きそうになるよりも一瞬早く、阿修羅の影がひなの手を捕らえた。それを目にした不知火は、腰に携えた刀を素早く抜き去り、下から掬い上げるような一閃を描く。
ひなと、断ち切られた影が一瞬怯む僅かな隙を突いて、不知火はひなを掠め取る。すると、すぐに影も反撃に出た。
「!」
まるで長い尾のような影が、不知火を叩き落そうと素早く、唸りを上げて襲い掛かる。
不知火は抱きしめているひなを庇うよう、僅かに体を翻したが攻撃を避け切れない。
「うっ……!」
肩口の衣が裂け、鮮血が走り、不知火は瞬間的に顔を顰める。
ギリギリ掠めただけとはいえ、不知火の体は勢いを失い地面に向かって落下してしまう。
「……くそっ!」
ひなを両手で庇い、地面に叩きつけられそうになる直前に力強く羽ばたいて浮力を生む。寸でのところで衝撃を避けて地面に着地した。
巨体を大きくくねらせる影を、不知火は睨み上げる。
「……っ」
その時、小さく身を捩り、不知火の腕の中で意識を取り戻したひなは、霞む視界の中、顔を覗き込んでくる不知火を見上げた。
「ヤタ……さん?」
上手く焦点の合わないひなは、不知火の着物の一部を力なく掴んだ。
「ひな殿!」
そう声をかけられて何度か瞬きをする内に、ひなの視界がはっきりしてくる。
目の前にいるのはヤタにとてもよく似た、別の男性だとわかると、驚いたように目を見開いた。
「だ、誰……」
ひなはそう言いかけた時、不知火が肩を抱く手に力を込め、刀を構える。同時に、背後から覆いかぶさるようなおぞましい気配に、そちらを振り返った。
「……っ!?」
目の前の光景に息が詰まる。
阿修羅の影は大きくうねり、一つの巨大な塊になると、落ちてきたマオを引き込んだ。そして、頭部とみられる部分を二人に向け、ギョロリとした一つ目をみせる。
『……ひなは必ず、俺のものにする』
そういうと、影は不気味に微笑むように目を細め、引き込んだマオに賛美の声をかけた。
『お前は素晴らしい俺の駒だ』
影はそういうと、高笑いしながらマオを連れ去り、二人の前から消えた。
「……ま、まさか」
自分の耳を疑うような情報に、不知火は眉間に深い皺を刻み、冷や汗が流れる。
「まさか、麒麟殿の側近が……?」
ただ愕然とし、ひなを抱く手に力が籠った、




