転落
身を切るような鋭さか空気中に走る。
大きな地鳴りと共に、洞窟の入り口にある一枚岩に火花が散り、音を立てて崩れ、阿修羅の封印されていた洞窟は、以前よりも大きな口を開けた。
それを水瓶で確認した帝釈天は、険しい表情を浮かべ、冷や汗が頬を伝い落ちる。
「いよいよ、か……」
微かに震える声が、静かな部屋に響いた。
***
幽世では、街の明かりが消え、これまで感じたことのない重苦しさに、街人たちは落ち着きを失った。
麟は執務室を出て、庭先から淀みかけた空を見上げる。
「……始まるのか」
この張り詰めた空気。一瞬でも判断を間違えれば……。
「麟!」
そこへヤタが駆け寄ってくる。彼はいつになく焦っていた。
「ひながいない! それに、マオの姿も見えないんだ!」
「!」
嫌な予感が的中し、麟の肌が泡立つ。
ひなが勝手な行動を取ることは考えにくい。ましてや、何も言わずにいなくなるなど……。
「……マオと一緒か」
「あいつら……また街へ?」
「いや。そんな許可をした覚えはない」
麟の話を聞き、ヤタは苛立ったように視線をそらすと、大きく舌打ちをする。
「くそ……。この非常時に何してんだよ」
「八咫烏。すぐに二人を捜してくれ。嫌な予感がするんだ」
「了解」
ヤタはすぐに翼を広げ、庭園から空へと舞い上がった。
「マオさん! 放して……!」
「駄目よ! もう時間がない!」
ヤタの捜索が始まった頃、マオはひなの手を強引に掴み、街へとやってきていた。
マオは阿修羅の異変を感知し、ひなを連れ出していた。
「時間がないって、何のことですか?」
何が起きたのかわからないまま、引き摺られるように引っ張られながら、マオの背中を見る。
マオの手に、汗が滲んでいる。
余裕がない彼女の様子に、ひなは不安の色を濃くする。
「マオさん!」
名を呼ぶと、彼女は一瞬こちらを振り返る。その顔を見た瞬間、ひなは足元から血の気が引くような恐怖を覚えた。
――笑ってる……。
それも、歓喜に滲んだ、張り付いたような笑みだ。
ひなはマオの手を振り払おうと必死になった。だが、マオの細い腕のどこにそんな力があるのか、まるでビクともしない。
「放し、て……っ!」
指先からも血の気が引いて、冷たくなっている。
油断すれば、このまま足に力が入らなくなり立てなくなりそうな予感がしていた。
二人は奈落の傍までくると、ようやくマオはひなの手を放した。
互いに乱れる呼吸を肩で吐きながら向かい合う。
「……もう遅いのよ」
「お、遅い……?」
マオのひなの見る目は尋常じゃない。瞳に暗い影が落ち、鋭い。
じりじりと近づいて来るマオに、ひなは同じように後ずさりをしていく。
「あなたのせいで、麒麟様が危険に晒される……」
「え?」
その一言に、ひなの胸が不安に鳴った。
逃げ出せる場所はあるが、彼女の圧に動き出せずじわじわと後方へ追いやられる。
やがて、ひなの背に手すりが当たり、完全に追い込まれたひなは、反射的に後ろを振り返った。
背後には、底の知れない洞穴が、大きく口を開けている。
「マ、マオさん……」
ひなが息を呑むと、マオは薄っすらと口の端を引き上げた。そして距離を詰めたマオはひなの肩を乱暴に掴み、彼女の耳元に口を寄せる。
「……私、あなたが大っ嫌い」
「……っ!」
息が止まりそうな冷たい囁き。
最初から、分かっていた。気のせいかもしれないと思っていたこともあった。先日の町散策は、少し、楽しかったのに……。
仲良くなれそうだと思ってしまった自分の愚かさに、悲しくなる。
傷ついたひなの顔を見て、マオは目を細めた。
「最期に、いいことを教えてあげるわ」
「え……」
その瞬間、マオの笑みが勝ち誇ったように歪む。
「あなたの母親、雪那は事故で地獄に落ちたんじゃない――私が、落としたのよ」
語尾だけを小さな声で囁くように呟くマオに、ひなの瞳が愕然と見開かれる。同時に、マオは掴んでいたひなの肩を後ろへと思い切り突き放した。
体を支えるものがなくなったひなの体は空中に投げ出される。自分を見下ろして冷たい笑みをこぼすマオの姿が、脳裏に焼き付く。
――落ちる。
ひなは、いやに冷静に考えていた。
――母と、同じように……落ちてしまうんだ。
ゆっくりと時間が流れているような体感。刹那、ひなは離れていくマオの手をがっしりと握りしめた。
「な……っ!?」
まさか掴まれると思っていなかったマオも、ひなに引き摺られるように奈落へ放り出され、声を上げる間もなく、二人は奈落の闇の中に落ちていった。




