接触
屋敷に戻ってきたひなは、部屋に戻る前にマオに対し頭を下げた。
「マオさん、今日はありがとうございました」
まさか礼をいわれると思っていなかったマオは、突然のことに面食らってしまう。
行く前よりも素直な反応をするひなに対し、マオは釈然としない気持ちで視線を逸らす。
「別に。大したことありませんわ。では、私はまだ仕事が残ってますので、これで失礼しますわ」
冷たい口調でそういうと、マオは離れて行ってしまった。
そんな彼女の背中を見送りながら、ひなはふっと力が抜ける。
「……ちょっと疲れたかも」
緊張しっぱなしだった体に怠さがある。
ひなは小さくため息を吐き、廊下を歩いて部屋へと向かった。
――マオさんのことは、少し誤解していたかもしれない。
廊下を進みながら、マオのことを思い返していた。
――今までは、私のネガティブな考え方に引っ張られていたのかも。
ひなは、なんとなくそんな気持ちになり、小さく微笑んだ。
「……あれ?」
部屋の前には、ヤタと狒猿の二人がいることに気付く。二人とも、険しい表情をしていた。
「ヤタさんと、狒猿さん……?」
「ひな……」
近づいてくるひなに、ヤタは驚いた顔と同時にあからさまな安堵の表情を見せる。
「何もないようでよかった」
狒猿の言葉に、ひなは首を傾げる。
「どうか、したの?」
二人の様子にそう訊ね返すと、ヤタは険しい表情のまま口を開く。
「……阿修羅の動向が活発化しているらしい。把蛇から報告を受けているが、お前、また夢で阿修羅に接触されてるだろ?」
その言葉を聞くと、先ほどまでの気持ちが、一瞬で冷える。
「うん……」
「だよな」
ヤタはそういうと、ひなの肩に手を置く。
「ひな。今後また夢で、奴が接触してこようとしたら、振りほどけるか?」
「……」
その言葉に、ひなはすぐ返事ができなかった。
頭では理解していても、すぐに答えられない自分に戸惑ってしまう。
黙ってしまったひなに、ヤタは一度視線を伏せ、ため息を吐く。
「ひな……。お前の気持ちがわからないわけじゃねぇ。けど、今のままだと危険を回避できなくなる」
「……」
その言葉に、ひなは言葉が出ない。だが、自分の弱い心が皆を逆に危険に晒しているのだと気が付く。
――誰も巻き込みたくないなんていいながら、私……。
ひなは胸の前で拳を握る。
「お前は……もう一人じゃねぇだろ?」
ヤタの落ち着いた言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「……うん」
ひなの頷きに、ヤタは励ますように肩に置いていた手で、軽く叩く。
「俺たちは何があっても絶対にあんたを守る。だから、あんたも強くなれ」
「はい」
狒猿の言葉に、ひなは小さく笑みを浮かべ頷いた。
***
一人、庭園に佇むひながいた。
舞い散る桜の花の数が以前よりも少なくなっている。もうじき、この幽世でも春が終わり、夏になろうとしていた。
――現世では一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。
ぼんやりとそう考えていると、背後に人の気配を感じて振り返った。
「……麟さん?」
振り返った先には麟が立っていた。
最近は中庭を挟んでしか会えなかった麟との久し振りの距離感に、駄目だと分かっていながら抑えきれない気持ちが勝り、ひなは彼の傍に駆け寄った。
「ひな……」
麟もまた、駆け寄るひなに吸い寄せられるように近づき、互いにどちらからともなく抱きしめ合う。
久し振りの抱擁に、ひなの胸は嬉しさに埋め尽くされる。
「麟さんに会いたかった」
「私もだよ、ひな」
その言葉が、これまでの緊張感も全てを流していく。
「……最近、ずっと怖いことばかり続いているから、凄く不安だった」
手紙にも綴っていた気持ちが、自然と口に出る。
紙を隔てて語るより、確かな温もりが欲しい。ヤタたちの想いや言葉も温かく励まされるが、麟の温かさが恋しくて仕方がなかった。
「阿修羅の動きが活発化してるって、聞いた。私、いつも夢で阿修羅に惑わされて、それで皆を危ない目に遭わせちゃってる……」
「……」
ひなの、麟を抱きしめる手に力が入る。
「皆を巻き込みたくない。だって、これは私の問題だと思うから……」
その言葉に、麟の手にも力がこもった。
力強い抱擁に、ひなは少しばかり息が詰まりそうになる。
耳の傍に寄せられた麟の唇が静かに動く。
「……なら、差し出せばいい」
「え……?」
その言葉にゾクッとした寒さを覚える。
耳を疑うようなその言葉。麟の、優しく温かないつもの声音でもう一度囁かれる。
「君が、阿修羅の元へ行けば、誰も危険な目に遭わず、全てが丸く収まるだろう?」
「!?」
ひなは強い違和感を覚え、麟の体を押し退けようとした。だが、彼の腕は緩むことなくしっかりとひなの体を抱きしめて放さない。
「ひな……私たちのために、阿修羅の元へ行ってくれるか?」
「い、いや……」
「なぜ? 今君がそう言ったじゃないか。これは自分の問題だと」
「やだ……やめてっ!」
ひなは必死になって麟の手から逃れようともがく。だが、やはりビクともしない。
ゆっくりと近づいて来る麟の顔に、ひなは強い恐怖が勝った。
「可愛いひな。皆を傷つけたくないという優しさは、君らしくていい……愛してるよ」
囁かれる愛の言葉と同時に、麟の顔だけが黒く歪み、阿修羅のそれへと変わった。そして、阿修羅の牙が、ひなの喉元にかかる。
「いや……いやああぁあああぁ!」
首筋に走る鋭い痛みに、ひなは全身全霊をかけて拒絶した瞬間、ひなの中に眠る力が爆発した。
目の前の阿修羅を容易に消し去る強い力。
体が解放され、倒れ込むひなの目には阿修羅の不敵な笑みが映る。
――あぁ、もう少しだったのに、残念だ……。
姿は見えずとも、脳裏に響くくぐもった阿修羅の笑い声と言葉を聞きながら、ひなは意識が遠のいた。
***
「っ!!」
瞬間的に目を開く。
激しい呼吸と、痛いほどの動悸。
ひなは全身に汗をかき、激しく寝乱れていた。
「ひな」
ふと至近距離で名を呼ばれ、ひなは短く息を吐きながら反射的にそちらに目を向ける。
視線の先にはヤタがいて、心配そうな目を向けていた。
「……はっ、はっ」
過呼吸のような呼吸を繰り返す。
ここは夢なのか、現実なのか……。
ひなは、錯乱状態に陥っていた。
「大丈夫か?」
「やだっ!!」
ヤタが手を伸ばしてくると、半狂乱になりその手を激しく拒む。そして寝ていた体を急いで起こし、彼の傍を離れようとした。
「ひな!」
「やだ!! やだぁっ!!」
激しく取り乱すひなの姿に驚いたが、自分から逃げ出そうとする彼女を急いで追いかけ、強引に彼女の両腕を掴む。
「ひな! 落ち着け! ここは夢じゃねぇっ!!」
ヤタは、初めて語気を強める。
ひなはその言葉に、乱れた髪も着物もそのままに、目を見開いたまま肩で息を吐きながらようやく動きを止めた。
ひなが落ち着いたのを見計らい、ヤタは掴んでいた手をゆっくりと放すと、ひなはゆるゆると体から力を抜いた。
「悪い……」
体を気にするヤタを、ひなは緩慢な動きで見つめた。
心を抉るような夢に、涙がボロボロと溢れ出る。
「……ごめん、なさい」
ひなは手で顔を覆い隠し、さめざめと泣き崩れた。




