恋人は私.壱
「八咫烏。鬼反屋に着物を取りに行ってもらえないか?」
「……っ」
この日は仕事が比較的落ち着いており、それぞれが時間を持て余すほどの余裕があった。
麟も手元にあるこれまで処理しきれずにいた書類もひと段落ついたのか、手にしていた筆を置いて思い出したように顔を上げ ヤタにそう声をかけてきた。
麟のすぐそばで書類の整理をしていたヤタは、鬼反屋と言う名前を聞いて思わずギクッとした顔を浮かべてしまう。
「どうした?」
「い、いや? 別に?」
「私の羽織とお前の分の着物を新調して頼んであるんだ。それを取りに行ってもらいたいんだが……」
「あ~……そう言う事か」
「?」
「あ~……うん。そうか、うん。分かった」
珍しく、何とも歯切れの悪い物言いをするヤタに、麟は不思議そうな顔を浮かべて首を傾げる。
そう言えば鬼反屋に行くよう話をすると、彼はいつもそんな感じだったのを思い出した。
「八咫烏……」
「うん?」
「何かあるのか? 鬼反屋に……」
「い、いや?」
「……」
鬼反屋と言えば、麟が長年着物に関して信頼を寄せる老舗着物店であり、その評価はこの幽世の中でも高い。
品質も良いし着心地は素晴らしく良く、戦闘の矢面に立つヤタから見ても破けにくくて使い易く、他を置いてこの店以外での着物は着用出来ないと思っている。だが問題はそこではなく、そこの店主にあるのだ。
相手はこちら側のからすればお得意様で、信頼関係を崩すわけにはいかないため当然無碍な事は出来ない。何より、麟に行けと言われれば行かないとは言えないわけで……。
これ以外のことならすぐに出向くのに対し、なかなか行動に移さず渋っているヤタに麟は何か事情があることだけは察知した。
「ひなの着物もそろそろ新調したいんだが……好みもあるだろうから一緒に連れて行ってやってくれないか?」
「ひなも? ひなはあんたと一緒に行った方が喜ぶんじゃないか?」
「そうしてやりたいのは山々だが今日中に片付けないとならない仕事が残っているし、ひなはここのところずっと屋敷に籠りっぱなしだから、気晴らしを兼ねて連れて行ってやってほしいんだ」
「あぁ……分かった」
歯切れこそまだ悪いにしても、先ほどよりはすんなり返事を返すヤタに対し一体どんな事情があるのかと、麟はただただ首をひねるばかりだった。
ヤタは手に持っていた巻物を棚の上にポンと置くと、「じゃあ行って来る」と言って麟の執務室を後にした。その足でひなのいる部屋までやってくると、障子を開けたまま部屋の中で何かを繕っているひながいる。
「ひな」
「あ、ヤタさん」
ひなに声をかけると、余程集中していたのだろう。一瞬ビクッと肩を震わせて驚いたように顔を上げた。
「何やってんだ?」
「あ、これ? えっとね、お守りの袋作ってたの」
お守りの袋と言って見せてくれたのは、小さな空色の袋だった。
裁縫ならシナに任せれば良いものをどうしても自分でやりたいのだろう。形は不慣れなだけあってなかなかに不格好ではある。
ヤタはそれを見た瞬間、意地悪くニヤッと笑う。
「下手くそ」
「だ、だってお裁縫得意じゃないんだもん!」
「まぁ、でも自分でやりたい理由があるんだよな」
「う……うん」
冗談でそう言っているのは分かっているひなはムッとした顔でヤタを見上げていたが、ケラケラ笑いながら頭をポンポンするヤタの言葉に、僅かに顔を染めながらぎこちなく頷いた。
「これはね、麟さんにあげるお守りなの。ずっと仕事で忙しくしてるし私はお手伝いすることが出来ないから、体を壊さないようにって思って」
「……そうか」
「あ、ヤタさんのも作ったよ!」
「ん?」
ひなは傍らに置いてあった灰色と黒のグラデーションの布で出来たお守りを受け取る。
こちらもやはり不格好ではあるが、お守りの口を閉じる紐も自分で苦戦しながら結んだのだろう痕跡が見て取れた。
まさか自分にもあるとは思っていなかっただけに、何とも言えない気持ちになった。
「ヤタさんも毎日凄く頑張ってるでしょ。私に出来るのこのくらいしかないし、気持ちは込めてあるから」
「……ありがとな」
ヤタは笑いながらひなの頭を撫でると、彼女は嬉しそうに笑いかけて来た。
ひなが来る前は雪那がしてくれたように、退屈な毎日を別の角度から心に温かさを教えてくれる彼女の存在は、いつの間にか麟やヤタだけではなくこの屋敷全体にも必要な存在になっていた。
「ところで、今日は何の用で来てくれたの?」
「あ~、そうだ。麟に鬼反屋に行くように言われたんだ。お前の着物も新調したいから、連れて行ってやってくれってさ」
「着物? もう十分沢山あるよ?」
「麟がそうしたいんだろ」
「……そんなにたくさん気にしなくてもいいのに」
「あと、ここんところ屋敷にいっぱなしだから気分転換に連れ出すようにって話だ」
そう言われるとひなは遠慮などせず、目を輝かせてヤタを見上げた。
「ほんと?! 行く!!」
その素直さは幼い子供のまま、愛くるしく思う。
ひなは「準備するからちょっと待ってて!」と部屋の奥に引っ込んで行き、ヤタは手の中にあったお守りに視線を落としてふっと笑うとそれをそっと懐の中にしまい込んだ。




