近付いてくる危機
「はっ……!」
汗を流し、夢から覚めたひなは荒い呼吸を繰り返す。
一瞬、夢か現実かわからなくなったが、すぐそばでひなを見守る把蛇の姿が目に入り、徐々に落ち着きを取り戻しはじめた。
「大丈夫ですか?」
そう訊ねられ、ひなは口引き結び何度も小さく頷き返した。その時、無意識に滲み出た涙が頬を伝い落ちると、意図せず次から次へと溢れて止まらなくなってくる。
「ちがっ……そんな、つもりじゃないの……」
ひなは堪えられない涙を覆い隠すように腕で顔を隠す。
「ひな」
突然泣き出したひなを心配し、把蛇は彼女を抱え起こす。
ひなは両手で口を塞ぎ、瞳を伏せた。
覚悟を決めたはずなのに、父親という言葉に安易に惑わされた自分の弱さに、涙が止まらなかった。
「阿修羅は、危険な人で、私を娘だなんてちっとも思ってないはずなのに……父親だといわれたら、何もできなくなる……」
口元を押さえていたひなの手が下り、きつく布団を握りしめた。
微かに震える両こぶしを顔を伏せて見下ろし、静かに涙をこぼし続ける。
「私、あんな人に、何か期待しちゃってるのかな……」
振りほどけなかったんじゃない……振りほどく気がなかった。
父だと囁かれるたびに、心のどこかで縋ってみたくなるような矛盾が生まれてしまう。
ひなは握っていた手を開き、その手を食い入るように見つめた。
「絶対にありえないのに、何かを求めたいと思っちゃってるのかな……」
「ひな、それは……」
把蛇が何かを言おうとした瞬間、ひなは両手で顔を覆った。
「間違えてるって、わかってる。求めたところで何もないし、傷つくだけだって。だけど、曲がりなりにも阿修羅は、私の、お父さん……なんだよ」
思い出すだけで身の毛のよだつ冷たい声。だが、その声が発する言葉は優しさというベールに包まれ、惑わせてくる。
ひなが感じたのは、恐怖と……寂しさだった。
自分の中にある矛盾に、唇を噛んだ。
「……」
真実を言えば、済む話ではない。
把蛇はそれを理解しているからこそ、言葉が出なかった。
そっと彼女の背に手を添えると、ひなは小さく頷き返す。
「……ごめんなさい、把蛇さん。傍にいてくれて、ありがとう」
「……いえ。何もできなくて、申し訳ない」
ひなはゆるゆると首を横に振った。
昔のように誰もいないわけじゃない。誰かが静かに寄り添ってくれている。その存在が、ひなにとってとても大きかった。
その頃、地獄では不知火が血相を変え、閻魔の元に駆け込んでくる。
「閻魔様!」
閻魔の執務室の扉を、不躾にもいきなり開いた不知火に、閻魔同様、下働きしている鬼たちも一斉に、驚いて彼の方を振り向いた。
不知火は鬼たちに目もくれず閻魔の前にくると、荒い呼吸の合間に息を呑んだ。
「阿修羅の、封印が……」
その言葉を聞いた瞬間、閻魔が手を滑らせて判を取り落とし、眉間に深い皺が刻まれる。
――想定しているよりも早い。
閻魔は速まり始める鼓動と冷や汗を流す。
落ち着かせるように努めて呼吸を整えた。
「封印が、解かれたか……?」
無意識に、ごくりと喉を鳴らす。
「はい。今しがた、茨の蔓が全て……落ちました」
不知火は拳を握りしめ、固い表情で閻魔を見る。
閻魔は深いため息を吐きながら、片手で顔を覆い隠す。その場にいた鬼たちも、ただごとではないと血相が変わり、ざわめき始める。
「……残念だが、わしらにできるのは監視のみだ。阿修羅の封印をかけ直せるならそうしたいが、そのためには帝釈天の力が必要だ。だが……」
魂の核を持たない今の帝釈天には、不可能。
閻魔はそれを知っているからこそ、もどかしく歯噛みする。
「閻魔様。我々にできることはないのでしょうか?」
不知火の言葉に、閻魔は瞳を伏せて首を横に振る。
「本当に阿修羅が戻ることになるなら、その時までどうすることもできん……」
阿修羅と因果を持たない者に手出しはできない。そういう閻魔に、不知火もまた顔を歪めた。何もできないことが、歯痒い。
「兄上……」
意図せずそう呟いた不知火は瞳を伏せる。
「不知火。早急にこのことを麒麟たちに知らせてくれ。帝釈天は、この経過はもう視ているはずだからな」
「承知しました」




