異変
目が覚めたひなは、何とも言えない気持ちに包まれていた。
切なくて寂しい。それは以前からも感じていたものではあるが、それに加えて今回はどこか温かい気持ちにもなっている。
瞬きを繰り返している内に視界がハッキリしてきて、自分を覗き込むシナの顔に気が付く。
「シナちゃん……?」
あまりに狼狽えるシナに、ひなは不思議そうな顔を浮かべながらゆっくりと上体を起こすと、目尻に堪っていた涙が零れ落ちる。その涙を拭おうとしてふと自分の手元に気が付いた。
「……これって」
ひなの掌に収まっていたのは精巧なガラス細工のような桜の花びらだった。夢の中で最期に雪那が遺した桜の花びらは、目覚めたひなの手の中にしっかりと握り締められていた。それは、もしかすると屋敷の外から吹き込んだ桜なのかもしれないが、ひなには間違いなく、母のくれたものであると確信に近い思いでいっぱいになる。
ひなは目を閉じて胸の前でそれをそっと握り締める。
「……この花弁は私の二つ目のお守り。私、一人じゃなかったんだね」
そう口にするとじんわりと胸の中が温かさに満ちて行く。今までずっと空席だった場所にあるべきものがきちんと埋まって行く、そんな気持ちだった。
雪那の想いはしっかりと受け取った。全て余すことなく。だからこそ、ひなには雪那の分も強くならなければと感じる。守ってもらうばかりでなく、自分自身も守れるように強くなろうと心に誓う。
「シナちゃん、お願いがあるんだけど……」
「?」
「これを入れられる小さい袋が欲しいの。首から下げられるのがいいんだけど、何かあるかな?」
掌にあった花びらと腕につけていた髪ゴムを差し出してそう言うと、シナはポンと手を打ち、その場から一度退席する。ほどなくして小さな箱を手に戻ってきたシナが見せてくれたのは、高級そうな金糸が織り込まれた白生地で作ってあるお守りサイズの小さな袋だった。
「凄く綺麗な袋……」
ひながそう呟くと、シナはうんうんと満面の笑みを浮かべて大きく頷いてくる。
袋の中に花びらとヘアゴムを入れ、持ってきた小箱の中から一本の赤く細長い組み紐と桜の金刺繍があしらわれたメノウのトンボ玉を通し取り出した。
組み紐にトンボ玉を通し、お守りの口にも紐を通すと叶結びでしっかりと閉じた。
「ありがとう。大事にするね」
ひなはそれを首にかけてしっかりと身に着ける。
ここには沢山の人の想いが詰まっていると思うと心強く思えた。
「!?」
その時、突然ズシンと腹の奥に響くような重々しい衝動を感じる。
ひなは咄嗟に顔を上げて周りを見回すが別段変わった様子は見られない。傍にいるシナも不思議そうな顔を浮かべてこちらを見ているところを見ると、今の衝撃はひなにしか伝わっていないものなのかもしれない。同時に、それはあまり良い物ではないと感じた。
「シナちゃん。私、麟さんのところに行って来る!」
ひなはそう言うと立ち上がりシナが止める間もなく部屋から駆け出した。
*****
「一体何が起きてるんだ……」
マオと共に執務室に戻ってきていた麟は次々と運び込まれて来る多くの書類の多さに、怪訝な顔を浮かべる。せっせと運び入れて来るあやかし達の表情もどこか切羽詰まった様子だった。当然、近くの職務机に座っているマオも抱えきれないほどの書類の山にただただ困惑している。
「少し前から急激に増えて来たんです。この勢いはひなさんが現世に戻った時と同等かそれ以上です。この勢いのままでは、人間たちが現世からいなくなってしまう可能性も否定できません」
「……八咫烏を呼んでくれ」
マオは眉間に皺をよせ、手に負えないとばかりに悲鳴を上げた。
この状況はあまりにおかし過ぎる。現世で何が起きているのか状況を探らなければならないと、麟は別部署で指示を出していたヤタを呼びつける。
「八咫烏。現世の状況を見てきてくれないか?」
「分かった。ついさっき閻魔と帝釈天からも連絡が来ていたんだ」
そう言ってヤタは麟に受け取った手紙を手渡した。
折り畳まれた鳥の形をした式神は麟が触れるとまるで生きているかのように震え始め、ヒラッと開く。すると中から緊張した面持ちの閻魔がホログラムのように浮び当たる。
『麒麟。帝釈天にも同じ式神を飛ばしたのだが、どうやら阿修羅の動きが活発になっているようだ。地獄では原因不明の地震が頻発している。それから、地獄にいる者たちの中でも特に悪目立ちする者の数も急激に増えて来た。こちらでも詳しい原因を探ってみるが、こちらがこの状況になっていると言う事は幽世はもっと明確に異変が現れていると思う。現世にも何か原因が起きている可能性もあるだろう。出来れば現世も調査をすることを願う』
『麒麟。悪いが状況が芳しくない方向に向かっている。現世は今や地獄絵図のようになりつつある。天変地異だけじゃない、奇病まで発生している始末だ。原因はおそらく阿修羅にあるのだろうが……。長年、怨念の壺としての役割をしている奴の目的は、もう私だけじゃなくなっているのかもしれない。このままでは全ての人間たちが滅亡することも否めないだろうな。とにかく現世の状況、詳しく調べてきて欲しい』
帝釈天の手紙にも同じような事が書かれていた。
どこもかしこも、おかしい状況に陥ってるが、麟に今できるのは現世で起きている状況を調査することだ。
「緊急事態だな……。ヤタ、すぐに現世に向かってくれ」
「承知」
「!」
「……麟?」
ピクッと反応を示した麟に、ヤタは怪訝な顔を浮かべるがすぐに廊下側が慌ただしくなったことに背後を振り返るのと、同時にひなが障子を開いた。
「麟さん! 私も、ヤタさんと一緒に現世に行きたい!」
「ひな!? 何を言って……」
驚く二人をよそに、ひなはぎゅっと両手を握り締めて二人をじっと挑むような目で見据える。
「私、ちゃんと今起きている事知っておきたい。私は私のことを知らなくちゃいけないと思うし、阿修羅の力の事が分かれば私の中に流れている力だって、何か解決するものが見つかるような気がするの」
「しかし……」
自分をもっとちゃんと知りたいと言うひなに、麟はすぐに承諾することはできなかった。
愕然として言葉も出ない二人を前に、ひなはハッキリとした口調で言葉を発する。
「私は守られているだけは嫌。私だって皆を守りたい」
その言葉に、小さく声を上げたのはマオだった。
乾いたような短い笑いともため息とも取れるその声に、麟達はそちらに目を向ける。
「何を言っているの……そんなのあなたの我侭でしょう? あなたに何が出来るのよ」
「マオさん……」
「この忙しい時に、あなたの我侭に付き合わされている麒麟様や八咫烏の事を何も分かっていないじゃない。これ以上仕事の邪魔をするなら、私も黙っていないわ」
「おい、マオ!」
マオの瞳孔がきゅっと狭まり、威嚇めいた眼差しを向ける。
忙しさに気が立っているのは分かるが、マオがそんな風に敵意を向けるような事は今まで一度も見たことが無い。
ヤタが慌ててマオを止めようとしたが、ひなは以前のように怯むこともないまま彼女をまっすぐに見つめた。
「マオさんがいうように、これは私の我儘かもしれないし邪魔をしているのかもしれない。でも、私は無関係じゃなく当事者だもの。大人しく部屋に閉じこもっていて解決できるならそれでもいい。だけどこれまで知るところじゃなかった事を知った私自身が、何もしないで皆にだけ大変な思いをさせるのは違うと思う。何より、それじゃ私が納得出来ない」
ひなはぎゅっと胸元に隠してあるお守りを握り締め、視線を下げた。
胸の中はとても複雑だ。複雑すぎてじっとしていられない。
「それに……知らなかったとはいえ、今回の事は私の身内の……」
「ひな!」
そう言いかけて、ヤタは大慌てで彼女の言葉を遮りマオとの間に入り込んだ。
ひなと向かい合うように立ったヤタは小声で忠告する。
『バカ! それはここで言うべきことじゃない』
「ヤタさん……」
ヤタの忠告にひなはハッとなる。
阿修羅の存在を知っているのはここでは麟とヤタ、そしてひなの三人だけだ。露骨に名前を出さなかったとしても周りに疑問を持たせてしまう事には変わりない。
軽率だったと気付いたひなは瞬間的に口を噤んで小さく「ごめんなさい」と呟く。
「あ~、え、ええっとー? まぁ何だ? ひなもここまで言ってる事だし、調査ぐらいなら同行しても問題ないだろ。なあ? 麟」
不自然だろうなと思いながらもこの微妙な雰囲気を変えるためにそう麟に声をかけると、彼は眉間に皺を寄せたままそれこそ納得がいっていないような表情を浮かべている。
ひなを危険に晒したくはない。もしも何かがあって彼女を失うことがあったらと言う思いの方が強いのだろう。




