式神
ゆっくりと半身を起こし、自分の腕を摩る。
夢を見ていたはずなのに、夢じゃない。手首に残る残痕も、生温い息遣いも、粘着質な空気も、全てひなの体が覚えている。
「嫌。あんなの、お父さんじゃ……」
そう呟いた瞬間、ひなは息を詰めて目を大きく見開く。
――父……?
ひなは無意識に夢の男を父親だと認識していた。
ぞわり、と寒気が走る。そして衝動的に部屋の隅に置かれていた鏡の前に近づき、そこに映る自分の右目を見た。
時折揺らぐ、仄暗い赤……。
「なん、で……」
震える手で、自分の顔に触れる。崩れるようにその場に座り込み、顔を引っ搔くように、髪を掴みながら手を握り込む。
この目が、全てだ。
生きてきた人生の中に生まれた歪の意味が、ようやく理解できた。
ひなは顔を伏せたまま身を震わせていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。その眼光は鋭さを秘めていた。
ひなは寝乱れていた着物を正し、そっと部屋を抜け出す。
気を紛らわせようと中庭に出て、池をまたぐ小さな橋の上で足を止める。
池では錦鯉が、ひなの気配に気づき近づいてくると、水面でぱくぱくと口を動かしていた。
「……ごめんね。あなたたちのご飯、持ってないんだ」
「あるよ、ご飯。いる?」
知らない声がかかり、ひなが顔を上げるといつの間にか隣に、見たことがない少女が一人立っていた。十歳くらいに見える小柄な少女は、手にしていた袋を差し出してくる。
「ひなと一緒に餌を上げようと思って持って来たんだ」
少女はそういいながらにっこりと笑いかけてくる。
「え……どうして、私の名前……」
ひなが困惑していると、少女は首を傾げて微笑んだ。
「初めまして。私、糾卯っていいます。よろしくね、ひな」
糾卯は人懐っこい笑みを浮かべて、手を差し伸べてきた。
ひなは気後れしながら、手を差し出して彼女の手を握り返すと、離れからヤタがやってくるのが見えた。その彼の姿を見た瞬間、それまで愛くるしく笑っていた糾卯の眼光が一気に冷たさを帯びる。
「おい、糾卯。また勝手にうろうろしやがって……」
「うるさいな。八咫烏が遅いんだろ。私は早くひなに会いたかったんだ。変な気配もしてたしさ」
話し方までぶっきらぼうになる彼女に、ひなはきょとんとして目を瞬く。
ヤタは真顔でひなの前に立つと、着物の袖から僅かに覗く痣に気付き、無言でその手を取ると、ひなは驚いて一瞬手を引きそうになる。
「これ、どうした?」
「え……えっと……」
いつになく低い声に、ひなは言い淀んでしまう。
「こいつがいうように、少し前にお前の周りに変な気配があった。何もなかった……ってわけじゃなさそうだな?」
彼はわかっている。そう思うと、少し体から力が抜け、ひなはぎこちなく頷き返す。
「変な、夢を見たの……。その夢で――阿修羅に、手を掴まれて……」
阿修羅という名前が出た瞬間、ヤタの眉がぴくりと反応する。
彼は冷静さを保つように小さく息を吐いた。
「……で、目が覚めたらこうなってた?」
「う、うん……」
不安そうに頷き返す。それを見たヤタは、一度ひなから視線をそらし険しい表情を浮かべて小さく舌打ちをした。
どこか苛立っているその素振りに、ひなは心配そうに彼を見上げる
「あの、ヤタさん……機嫌悪い?」
「あ……いや。お前にじゃねぇから」
そう言いながら、ヤタは表情を変えることなく視線を他へやる。
何かに警戒しているような雰囲気に、ひなの表情も硬くなり、二人の間に重たい沈黙が流れた。
「おい八咫烏。いつまで女の子の手握ってんだ。早く放せ変態」
「は?」
手を握ったままの二人の間に立った糾卯の言葉に、心外だといわんばかりの表情を浮かべたヤタが彼女を睨み下ろす。
ひなは、目の前で口論を始める二人を交互に見ながら困惑する。だが、しばらく二人の様子を見ていると、先ほどまでの不穏な気持ちが解け、だんだんおかしくなってきた。
「ふ、ふはっ……!」
ひなが小さく噴き出す声を聞き、ヤタと糾卯は喧嘩を止め彼女を振り返る。
「も、もう、やめて……二人とも……」
お腹を抱えて苦しそうに笑うひなに、二人はどちらからともなくため息を吐いた。
「少しは元気になりましたか? ひなさん」
「あ……獅那ちゃん」
久し振りに涙が出るほど笑ったような気がする。
ひなは柔和に微笑みながら近づいて来る獅那を見て、目尻に滲んだ涙を拭った。
「麒麟様の計らいで、かつてこの屋敷に仕えていた式神を解放されたんですよ」
「式神?」
「はい。私と糾卯、それからもう二人いるんですが、今は麒麟様の元でお手伝いをしております」
「四人も……どうして?」
突然のことに、ひなは目を丸くした。
「まぁ、念のためだ。お前の周りで不穏なことが立て続けに起きているから、麟が気にしてこいつらを配備した」
ヤタは真実を呑み込み、当たり障りのない言葉を選んでそう告げる。
その言葉が、ひなには重たい事実を突きつけられているようで、気持ちが僅かに沈む。
「そう、なんだ……」
獅那はひなの手首の様子を見て、彼女の周りを気にするが、特に目立ったものはない。そう理解するとようやく肩の力が少しだけ抜いた。
「ひな、鯉に餌をあげよう?」
「え? う、うん」
糾卯はひなの手を握り、ヤタと獅那から距離を取った池の方へと向かう。
そんな二人を見やり、ヤタは獅那を振り返った。
「……夢で、阿修羅がひなに接触をしてきたらしい」
「やはり……」
声を落とし、ひなたちに背を向けて話すヤタの言葉に、獅那は険しい顔を浮かべる。
「今後のためにも、このことは麟に報告をしておく。ひなの就寝時の配備は、また追って支持する」
「了解」
「……麟も気付いている。だが、夢を介されている現段階じゃ、俺たちは手の出しようがない」
「悔しいけど……しばらくは見守りになるわね」
二人は背後で無邪気に餌をやるひなに目を向けた。




