侵食
屋敷に戻ったひなは、元気がないまま部屋に籠ってしまう。
笑顔で出ていったはずの彼女が、憔悴したように帰ってきたことを、ヤタと獅那が不思議に思った。
「麟。あいつ、なんであんな元気ないんだ?」
「……」
自室へ戻る麟に声をかけると、彼自身も小さく反応し足を止めてしまう。その様子に思わず眉を顰める。
麟はヤタを振り返ることはないまま、肩で大きく息を吐いた。
「……ひなは、自分の力のことを知りたがってたんだ」
「それ、いったのか?」
「彼女が知りたいと思ったことに、黙っていられるわけがないだろう?」
麟は僅かにこちらを振り返りそう答えると、彼は庭先に目を向けた。
「……だが私も、すべてを知っているわけじゃない」
その言葉にヤタは僅かに目を見開き、言葉に詰まった。
遠くを見る麟の視線を見て、ヤタはぎこちなく視線を外した。
「……まぁ、いずれは知らなきゃいけないことだからな」
「そうだな……」
麟は短く呟きながら、ヤタを一瞥し、部屋の障子に手をかける。
「前にいっていた式神たちの配置について、少し話を詰めようか」
「あぁ」
静かに障子を開く音が、音のない世界の中で大きく聞こえた。
その頃、ひなは着ていた着物を脱ぎ、化粧を落として早々に布団に横になっていた。
眠たかったわけではない。ただ、立っていることがしんどかった。
横向きに寝返りを打つと、自分の手首に視線が止まる。痣にはなっていないが、赤い跡になっていることに、あの時感じた背筋を這うような薄ら寒さを思い出す。
――あの目は、危険だった。
ひなはぎゅっと目を閉じる。
きっと、まだ知らなければならないことがたくさんある。マオが自分だけに向ける、黒い感情も、母が背負ったものの大きさも、そして、父親だという阿修羅のことも……。
「……怖い」
知ることが怖くなった。真実を知ったら……。
そんなことを考えている内に、ひなは深い眠りに引きずり込まれていった。
暗がりに、一人の女性の姿が見えた。
重たい空気に包まれていたその空間に、ひなはまた、誰かが自分の中に入り込んだのかと思ったが、そうではないようだった。
女性はこちらに背を向けたまま、姿勢よく立っている。その背中はとても凛としていて、気高くも儚さを感じさせる。何より、雰囲気がとても母に似ている、とひなは思った。
『雪那』
声をかけようとして手を持ち上げた瞬間、背後から聞き慣れた声が聞こえ、ビクッと身を震わせて手が止まる。
――麟さん?
ひなが背後を振り返るのと同時に、女性もこちらを振り返った。その表情はとても穏やかで、緩く弧を描いた瞳は、喜びに揺れている。
その顔を見て、すぐにわかった。
自分は母に似ていることも、その視線が何を意味するのかも。
――お母さん……。
針の先で突かれたような胸の痛みに、上げかけていた手を緩く握り込む。
『麟』
ひなが聞いても思ってしまうほど、麟の名を呼ぶ母の声は愛らしい。
麟の傍に駆け寄る雪那が、目の前を駆けていく姿を視線で追いかけながら、小さな痛みが徐々に強くなっていくのを感じていた。
駆け寄る雪那を、麟は優しく抱き止め、肩に手をまわした。そして、熱の籠った目でお互いを見つめ合う。
――え……待って、嫌だ。
速まる鼓動に合わせて、胸が痛む。耳障りなその鼓動の音だけがひなを支配する。
ひなは自分の胸に手を当て、顔を顰めて顔を伏せた。
吐く息が自然と浅くなり、酷く動揺してしまう。それと共に、黒い感情が胸の奥から湧き上がってくるのを感じる。
――だめ……それだけは、だめ。
暴走しかけている力を自覚し、抑え込もうとひなはその場にしゃがみ込む。だが、頭では分かっているのに、冷静さを保てない。
薄く目を開いて目の前にいる二人を見上げると、どちらからともなく瞳を伏せ、顔を近づけていく姿が見えた。
――やめて……っ!
黒い感情は大きくうねり、意識が引き摺られるような感覚に襲われる。
指先が痺れ、視界がかすみ始める。
『……あぁ、可哀想になぁ』
突然、聞いたこともない男の声が背後から聞こえ、ひなはパッと目を見開いた。そして背後を振り返ると、闇によく似た黒い男がいつの間にか立っていた。
ボサボサの髪の隙間から、赤黒い瞳が嘲笑っている。口の端を引き上げて笑う歪んだ口元からは白い牙が覗いていた。
――誰……?
大きく見開かれた瞳は、ひなを見下ろしている。
この男は、危険だ。
ひなは肌でそれを察知すると、逃げるために立ち上がったが、すぐに手首を掴まれ男の懐に引き寄せられてしまう。
掴まれた腕を後ろに固定されたまま背後から抱きすくめられたひなは、全身が泡立つ。
背中に感じているのは、ぬくもりではない。粘りのある、薄ら寒い気配をまとった得体の知れない何か。
ひなはそこから逃げ出そうともがくが、ビクともしない。
腰に回された手が、がっちりとひなを拘束すると吐き気すら覚える。
――っ!
『……お前、ひなだろう?』
耳元でそう囁かれ、ひなは瞬間的に息を呑む。
青ざめた顔で、無意識にも体が小刻みに震えはじめたひなの顎を掴み、男は蛇のような長い舌でひなの頬を舐め上げる。
『……あぁ、そうだ。間違いない』
恍惚とした顔を浮かべる男に、ひなはどうすることもできない。
歯が鳴るほどに震え上がるひなの顎から手を放した男は、今度はひなの胸の中心を突いて来る。
『お前のここにある力。解放してやろうか? 俺と同じ力、持ってんだろ?』
くぐもった笑い声をあげる男に、ひなは涙に滲む目を固く閉じた。
――嫌っ!
喉の奥に何かが詰まったように、声を出せなかったひなは心の底からそう叫んだ瞬間、体を拘束していた男が闇に溶け、ひなはバランスを崩してその場に倒れ込む。
体を起こす中、男の笑い声が辺り一面に響き渡る。
『待ってろよ……必ず、お前を迎えに行く』
***
「!!」
ひなは目を見開き、浅く、激しい呼吸を繰り返す。
体中汗ばみ、鼓動が胸を打ち鳴らし続けている。
一点を見つめたまま、ここが夢なのか現実なのか、はっきりと認識できるまでかなりの時間がかかった。
「……ゆ、夢?」
乱れた呼吸を繰り返しながら、腕を動かすと激痛が走り、息を詰めた。
震えの治まらない手を持ち上げて、ひなは驚きに目を見開く。
マオにつけられた赤い手跡に被さるように、一回り大きな手跡がくっきりと残っている。
「……っ」
蘇る恐怖に体が打ち震え、ひなは自分の体を抱きしめた。




