闇
「君の、本当の父親は……」
一度そこで言葉を言い淀んだ。唇を噛み、両の手に力が込められる。
――なぜ、そんなに辛そうな顔をするのだろう?
ひなは、麟の僅かに滲む後悔の色を見た。
「君の父親は――阿修羅と呼ばれる、戦神だ」
喉の奥から絞り出すように、呟く。
「……阿修、羅?」
「ひな……。雪那のいう罪とは、一つではないのだろうと思う」
麟の言葉に、ひなは止まりかけた思考を働かせる。
自分の父親は、阿修羅という戦神で、雪那は母親で……。罪が、一つではない?
夢で、自分の胸を貫くはずだった短剣の意味は……?
生まれつき持っていた、この危険な力の意味は……?
自分の知る情報の点と点に、じわり……と線が浮き上がり、繋がり始めていく。
「……っ」
ひなは顔を歪ませ、口元に手を当てる。
「お母さんの、罪って……」
声が震え、はらりと頬に涙が滑り落ちた。
「……本当に、罪なの?」
胸に突き上げてくる感情は、声を詰まらせる。
愛情深い母が最期まで罪だといって疑わなかった行動のすべては、ひなにとっては苦しいものでしかなかった。
――それが、愛でなく、なぜ罪になるのだろう?
零れる涙もそのままに、目を閉じて顔を伏せるひなの肩に、麟は手をかけた。
「……ひな」
「……っ」
「私は、これを知ることで、君まで去って行ってしまうかもしれない。それが怖いんだ……」
麟は背を丸めて泣き崩れるひなに、覆いかぶさるようにして抱きしめる。
二人はしばらくの間その場で言葉を交わすことなく、胸の痛みに触れていた。
***
ゆるゆると風が吹きつけてくる。
ひなはぼんやりとした頭で、手すりに手をかけて奈落の底を見つめていた。
あの後、「一人になりたい」といって麟の傍を離れ、一人誰もいない広場の片隅に建っている。
何を考えるわけではなく、ただ目の前の景色を眺めていた。
「……ひなさん?」
ふと、背後から声がかけられ、ひなは緩慢な動きで振り返った。するとそこには、風呂敷の包みを持ったマオの姿がある。
「どうされたんです? 麒麟様と一緒ではなかったんですか?」
マオは心配そうな顔を浮かべて近づいて来る。
ひなは彼女が誰なのかを、すぐに思い出せずにいた。だが、彼女の目を見た瞬間に目を見張った。
「え……と。ちょっと、一人でいたくて……」
「まぁ……」
少しずつ近づいて来る彼女の、無言の圧力。
彼女昔と変わらない圧倒される強い眼差しに、ひなは無意識に緊張してしまう。
「ここでの暮らしはいかがです?」
「あ……え、と。凄く、過ごしやすくて、快適です」
たどたどしく告げるひなの言葉に、マオのこめかみが一瞬ぴくりと反応する。
「――でしょうね」
「え?」
マオが口の中でぼそりと吐いたその言葉に、ひなは首を傾げる。しかしマオは口元に笑みを浮かべた。
「それは良かったですわ。あなたみたいな、実体のある人間が来るなんて今まで一度もなかったので、もしかしたら暮らしにくいんではないかと心配してましたの」
棘のある物言いに、ひなは言葉が出てこない。
マオが隣に並ぶと、途端に居心地の悪さを覚えて、ひなは手すりから手を放した。
「あの、私、もう戻りま……」
「あなた、本当に雪那さんにそっくりですのね」
この場から離れようとすると、被せるように母の話を出され、ひなは思わず足を止めた。麟たちが知っているのだから、彼女が知らないはずがない。だが、突然その名前が出てくることに驚いてしまった。
「お母さんを、知ってるんですか……?」
「えぇ。よく存じてますわ。だって、麒麟様の元花嫁候補でしたもの。それに……」
何かを言いかけて、マオは目を細め、ひなを見る。
怪訝な顔を浮かべるひなに、小さく笑った。
「……雪那さんが麒麟様の元を去った理由、ご存じ?」
その言葉に、ひなの心臓が跳ねる。
「マオさんは……知ってるんですか?」
「えぇ。だって彼女、私の目の前で落ちてしまったんですもの」
「落ち、た?」
探るようにひなが聞き返すと、マオは表情を曇らせて悲しそうに瞼を伏せ、ひなから僅かに視線をそらした。
「えぇ。私がお傍にいたのに、何のお役にも立てなくて……」
声を震わせながら口元に手を当て、ちらりと横目でひなを見る。そして無言で手を持ち上げると、後ろの奈落を指さした。
「雪那さん、落ちてしまったんですの……丁度、そこから」
「!」
語尾の言葉の低さに、ぞくっと寒さを覚える。ひなはぎこちなく、指を指された背後の奈落を振り返った。
「あの日はとても人が多い日でしたわ。一緒に街を見て回っていたんですけど、少しそばを離れた隙に……」
着物の袖で涙を拭う素振りを見せるマオの唇がわずかに動いた。
「人が多い日はあまり奈落の傍に近寄らない方が賢明ですわ。もし万が一……ねぇ?」
「……ご、ご忠告、ありがとうございます」
ひなはこの場を離れようとして、マオに背を向ける。
「あら、お待ちになって?」
突然、手首を掴まれたひなは露骨に体を強張らせ、掴まれた手を強く自分の方へ引き寄せる。
ビクともしないマオの掴む手の強さに、ひなは彼女を見た。その瞬間、ひなは息を呑む。
彼女の表情は穏やかなのに、目だけが冷ややかだった。
「そんな怖がらないでくださいな。私もさすがに二度も同じ場面に遭遇したくありませんもの。……それより、少し私と街を散策しません?」
「い、いえ……」
ひなが後ずさりをすると、マオの手に更に力が込められた。
「あぁ、駄目ですわ。そちらには近づかないでください」
手首に痛みが走り、ひなは思わず顔を顰めた。
「……マオ?」
その時、ひなを気にして近づいてきた麟が声をかけてくる。その途端、マオはひなから手を放した。
手を放されたひなは、そそくさと着物の袖に自分の腕を隠し顔をそらす。
「麒麟様」
「こんなところで、どうしたんだ?」
「いえ。ひなさんが奈落の傍にいらっしゃったので、昔を思い出してしまって……。いてもたってもいられず声をおかけしたんですわ」
マオはそう告げると、何事もなかったかのように頭を下げた。
麟からは見えない角度で、ひなの傍を通り過ぎるマオの口元の端が引きあがっている。
「ひな……大丈夫か?」
「……う、うん」
ひなは力なく笑うが、再び視線が下がる。
「もう戻ろう。顔色があまり良くない」
「はい……」
麟と共にひなは歩き出したが、もう一度背後を振り返った。その瞬間、生暖かい風が吹き、ひなの頬を撫でていった。




