侵食
屋敷に戻ってからのひなは元気がないまま部屋に籠ってしまった。さらに言えば、麟自身も元気がない。二人揃って出掛ける時とは全く違う様子に、獅那だけでなくヤタも何が起きたのかと勘ぐってしまう。
「麟、何があったんだ? 二人揃って元気ねぇけど」
「……雪那の話をしてきた」
麟は執務室の椅子に腰を下ろし、テーブルに肘を突いて手を組んで顔を伏せる。そして深い溜息を吐き、麟はおもむろに口を開いた。
「阿修羅の事は、言えなかった」
その言葉に、ヤタは眉間に皺をよせる。
「それ、言う必要あったのか?」
「ひなは、自分の持つ力の原因がどこにあるのかを知りたがっていたんだ。雪那から受け継いだのではないなら、父親からだと考えるのが自然だろう?」
「……」
ヤタもさすがに言葉に詰まってしまう。
自身のルーツを知りたいと思うのは至極普通。ましてや、ひなは常人にはない力を持ってしまったのだから、原因が何かを知りたいと思うのもまた普通の事だ。
「けど、いつかは言わなきゃならない時が来るだろ。このまま知らぬ存ぜぬではいれないからな」
「そうだな……」
麟はすっと息を吸い込み、何かを考えるように机の上を見つめた。そしてその時の覚悟を決めたかのように顔を上げ、ヤタを見上げる。
「それはいずれ、話す事にするよ。とにかく、今はやらなければならない事が沢山ある。式神達の配置についても、少し話を詰めようか」
「あぁ、そうだな」
麟は気を取り直し、ヤタと二人仕事を片付けながら今後の屋敷の警備について色々と話を始めた。
その頃、ひなは着物を脱ぎ化粧を落として早々に布団に横になっていた。布団の中で何度となく寝返りを打ち、先ほど自分の身に起きた出来事を思い返していた。
雪那は、幽世の元住人で麟の元花嫁候補だった。そして事故により、奈落に堕ちてしまった人……。
ひなは、何気なく自分の腕に視線が止まる。痣にはなっていないものの、マオに付けられた赤い跡が残っている事に、ゾッとしてしまう。
あの敵意は、あの悪意は明らかに自分に向けられていた。誰にも分からないように秘められた、彼女の黒い感情。身の危険を感じる程に強かった。
手首を摩り、ひなはぎゅっと目を閉じた。
そんな事を考えている内に、ひなは深い眠りに引きずり込まれて行った。
*****
暗がりに、一人の女性の姿が見えた。
重たい空気に包まれていたその空間に、ひなはまた誰かの魂が自分の中に入り込んだのかと思っていたが、そうではないようだった。
この環境は、前に自分が閉じ込められていた空間によく似ているのに、真ん中に立っている着物を着た女性はこちらに背を向けたままで凛とした強さを持っていた。この闇に押し潰されることもなく、真っすぐに背筋を正して立っている女性の頭には大きく真っ白い耳が生え、腰からはふわふわの尻尾がある。そして耳と同様に白く長い髪は緩く三つ編みに編み込まれ、肩から垂れ下がっていた。
彼女の強さはその佇まいだけで分かるほど、隙も何も感じられない。
だが、ひなには彼女が何かを我慢し、必死に耐えているような様子にも感じられた。女性は自分の手首をきつく握りしめ、小刻みに震えているからだ。
僅かに下がっている表情は真っすぐに闇を見つめているのも分かる。何か強い信念を持っているかのような、そんな雰囲気だった。
『……雪那』
ふと聞き慣れた声が聞こえ、夢の中にいるひなは思わず背後を振り返る。同時に、女性もこちらを振り返った。そして二人の視線の先に立っているのは、今と変わらない風貌の優しい表情をした麟が立っている。
――麟さ……。
『麟』
ひなが声をかけるのとほぼ同時に振り返った女性、雪那が声を発し、それに驚いてひなは彼女を振り返った。すると、先ほどの雰囲気は何処へ行ったのか。雪那はとても柔和な笑みを浮かべ、こちらに駆け寄ってきた。
その表情を見てひなは驚いてしまう。雪那の顔は、自分とあまりにもそっくりだった。
――お母さん……。
駆け寄る雪那を麟は優しく抱き止め、肩に手を回した。そして、とても愛おしそうに熱の籠った目でお互いを見つめ合う。
――……え……待って、嫌だ。
分かっているはずなのに、そんな仲睦まじい二人の姿を見せつけられたひなは、動揺と共に黒い感情が自然と湧き上がるのを感じた。
麟のそんな姿、見たくない。
自分以外の人に、そんな顔しないで。
心の中の黒い感情が蠢き始める。
麟の事を疑っているわけじゃない。しかし雪那は自分の母親で、二人は元々恋仲で……。
しかし、そうと分かっていてもなぜ二人が仲が良かった頃の映像を見せられなければならないのか……。
綺麗な思い出として、二人の心の中にだけ閉まっておけばいいのに、なぜわざわざこんな……。
目の前の二人はどちらからともなく瞳を伏せ、口づけをしようと顔を近づけていく。
――やめて……っ!!
ひなは耐えられず、その場に頭を抱えてしゃがみこむ。
顔を俯け固く目を閉じるものの、込み上げて来る涙がボロボロと零れる。
見たくない……もうやめて……。
『……あぁ……可哀想になぁ……』
突然誰とも分からない男の声が聞こえ、ひなは閉じていた目をパッと開いた。そして背後を振り返ると、真っ黒い体をした男がいつの間にか立っていた。
ボサボサの長い髪はそのままに、黒ずんだ瞳に白い眼光をギラつかせ、こちらを嘲笑い、見下すかのように見下ろしている。
ニヤニヤと笑う大きな口からは、牙に似た歯が覗いていた。
危険な人物だと瞬時に判断したひなは、逃げようとしたがすぐに手首を掴まれ、男の懐に引き寄せられてしまう。
片腕を掴み上げられ背後から抱きすくめられたひなは、逃げようともがくが身動きが取れない。
腰に回された手が着物を着ているひなをガッチリと拘束し、ゾッとする思いと共に吐き気すら覚える。
『……お前、ひなだろう?』
――っ!
恐怖のあまり声を上げられないひなの名を言い当てられ、驚いて思わず男を振り返る。すると男は顔を近づけ、蛇のような長い舌でぺろりとひなの頬を舐め上げる。
『……あぁ、そうだ。間違いない』
恍惚とした顔を浮かべる男に、ひなは眉間に深いしわを刻み動きが固まる。
身の毛のよだつ恐怖とは、こういうものだとひなは初めて実感する。今までも怖い思いはいくらでもしてきたが、この恐怖は異質だ。
『お前にも雪那と同じ道を辿らせてやろう。あいつが壊れる姿を見ると、堪らなく楽しいからなぁ。そしたらどうなると思う? 崩壊だ。全てが無に還るぞ』
ククク、と声を殺しながら心底楽しそうに笑う男の姿に、ひなは気味の悪さしか感じられない。すると、男の人差し指がトン、とひなの胸の中心を突いて来る。
『お前のここにある力、解放してやろうか。俺と同じ力、持ってンだろ? なぁ?』
――嫌っ!!
ひなは声を発する事さえ出来ない状態の中、ようやく詰まっていた物を吐き出すように心の底から一言そう叫んだ瞬間、体を拘束していた男が闇に消え去り、ひなはバランスを崩してその場に倒れ込んだ。
――待ってろよ。ひな。必ずお前を迎えにいくからな……。
*****
「!!」
ひなはパッと目を見開き、激しい呼吸を繰り返す。
冷汗が体を伝い落ち、鼓動が激しく胸を打ち鳴らしてめまいさえ感じた。
視線だけを巡らせ、ここが自分の部屋と認識できて落ち着くまで、かなりの時間がかかった。
何度も呼吸を繰り返すうちに、ようやく落ち着きを取り戻したひながゆっくりと体を起こして辺りを見回した。
いつの間に眠ってしまっていたんだろうか。
震える手を持ち上げて、ひなは驚きに目を見開く。
マオに付けられた赤い手跡に被さるように、一回り大きな手跡がくっきりと残っている。
あれは確かに夢だったはずなのに……。
「……あれは、誰?」
蘇る恐怖に体中が打ち震えだし、ひなは自分の身体を抱きしめた。




