収穫祭〜her best festival〜 後編
あの日は常に傍にあった。
誰よりも早く事態を理解して誰よりも事実を受け入れられなかった。
未来の事は考えられず逃げた先の過去にはどうにもならない後悔が待っていた。それでも残された唯一の軌跡をなぞっていると懐かしい思い出は都合の良い解釈も出来ぬまま身体と精神を蝕んだ。
大切なものは失ってから初めてその価値がわかるとはよく言ったもので、確かにそれは理想と呼ぶに相応しかった。
、、、
意識が薄れていく過程を逆再生したかのようにアァリはゆっくりと目を覚ました。仰向けになっている体はすぐには動かないのでその間に現状を確認する。
場所は自室のベッドの上だった。昨日は書斎で力尽きたのでレムゥドが運んでくれたのだろう。外を見るとすでに日は高く、寝坊などどうでもよくなる時間帯のようだった。
アァリは徐々に動けるようになった体をベッドの上で転がしてうつ伏せにすると、腕を立てて四つん這いになり、そのまま梯子に足を掛けるように後ろ向きでベッドから降りた。
目覚めてから数分ほどで倦怠感もすっかり無くなっていた。疲労も痛みも昨日から引きずっているものは無い。暴行による痣はまだ少し残っていたが、そもそも内出血をするはずがないこの体にできたこれは何なのだろうか。
習慣でリビングに向かおうとした足がドアの前で止まった。
(そういえば、ケンカしちゃったんだよな……)
彼が苛立ちを燻らせているのに気付いていながらアァリも躍起になって応じてしまった。思いの丈をぶつけてすっきりしたなどという自己満足な感想はなく、声を張り上げている時から始まっていた後悔がただただ不快だった。
争いが苦手な者は争いの納め方を知らない。その二人が起こしたケンカがだらだらと長引くことを懸念したアァリは、正面から謝って早期解決を目指すことにした。
彼も同じ事を思っているといいな、と淡く願いながらアァリはドアを開ける。
リビングに彼の姿はなかった。
姿どころか気配さえも感じない。この館は普段からとても静かだが、今は時が止まったかのようだった。
(出かけてる、のかな……)
仲直りに地震の対策と、彼と話さなくてはいけない事は沢山ある。彼の行き先を考えていると、ふとテーブルの上に何かが置いてある事に気づいた。
それは不恰好なサンドイッチだった。
三角形のオーソドックスなサンドイッチを目指したのであろうそれは、手で千切ったのか輪郭がぼやけている。二種類あって、一つは中には黄身がかちかちの目玉焼きが挟まっていた。タマゴサンドを作っているのに混ぜも茹でもしなかったらしい。BLTサンドの方も厚みも具のはみ出具合もバラバラな個性的な仕上がりだった。
アァリは笑いながら『もうっ』と呟いた。
サンドイッチは以前にアァリが作って食べさせている。手作りなどせずにあの時のものを再現すればそれで済んだのに。
サンドイッチの隣には小さな袋が置かれていて、その袋を文鎮代わりに手紙が添えられていた。アァリは訝しげに袋をよけて手紙に目を通した。
『親愛なるアァリへ
覚えていないかもしれないからここに記しておく。
君は昨日、私と話している途中で倒れるように眠りに落ちた。私は君をベッドへ運んだ後、しばらく君の寝顔を眺めていた。君が眠っている姿を見ていたら君が目覚める前を思い出したからだ。
私は君が目覚めるのを。君に会えるのをずっと待っていた。だから君を傷つけた人間を憎いと思ったし、そんな人間を信じようとしている君を疑ってしまった。
私の理想と君の理想が乖離しつつあるのではないかと疑って、そこで初めて君にも理想がある事に気づいた。君は自分のわがままを言わずに私のわがままを聞いてくれたのに、私は君のわがままに気づきもしなかった。私達は互いに遠慮のない関係だと思っていたのにこれでは公平ではない。
こういう手紙で理屈の話をしてすまない。ちゃんと本心も正直に伝えておく。
君の理想を私も見てみたい。私の中に人への未練が残っていたのはこの時のためなのだと思う。
荒地のエネルギーは大地を司る魔法使いとして私が対処する。しかし一刻も早い解決を望むのならば君にも協力してほしい。詳細な手順は手紙の裏に記しておく。
本音を言えばこれ以上君に無茶はしてほしくない。だけど今日だけは君の体に関しては何も言わない。今日は人事を尽くさねば必ず後悔する一日なのだろう?
ではまた会おう。
サンドイッチ食べてね。
君の魔法使いより』
『レムゥド——!』
アァリは夢中でサンドイッチを頬張った。こんな見てくれなのに味はアァリの作ったものとまったく同じだった。
、、、
時刻はおよそ昼前。アァリは館から出発した。
肩にかけてあるのは物置になっていた部屋から引っ張り出してきた古いカバンで、レムゥドから託された小さな袋と手紙がしまってある。
手紙の裏面には主にレムゥドが他の準備のために出かけていることが書かれており、アァリへの指示は『袋を持って荒地に向かう』という一文のみだった。
袋の中身に関しての記述はなく、開けても覗いてもいけないとも書いていなかったがアァリは荒地に着くまでカバンから出さないことにした。
(見なくてもわかる。中はたぶん、魔法だ)
悲劇があったあの日、レムゥドがアメリアに魔法を託したように今度はアァリに魔法を託した。このシチュエーションが意図的なものかはわからないが、アァリはあの時とは異なる結果に辿り着かなければならない。
荒地は森の外れにあり、大地のエネルギーを探りながら進めば迷ったりはしないものの歩くと数時間はかかる。
時間が惜しいアァリは早速地面に手を着いて大地のエネルギーを探って——眉をひそめた。
森の中に動物ではない気配がある。それも一つではない。詳細はわからないが正体には確信があった。
『……こんな所にまで』
アァリは震える体を無理矢理動かして気配の方へと向かった。荒地とは方向が違うがレムゥドの事を思うと無視などできなかった。
森の中の人影を見つけたアァリは小さくため息をついた。
案の定、気配の正体は村のまとめ役一派だった。
森に人がいるという光景に違和感を覚えつつアァリは木の陰から様子を窺った。
(あれ、何だろう?)
大人達自体は軽装だがその後ろにはバケツや小柄なドラム缶など様々な大きさの金属製の容器があった。容器に統一感がない為、用途の予想がつかない。
アァリの疑問を置き去りにしたまま大人達はその金属製の容器の中身を周囲に撒き散らし始めた。
中身は透明な液体。だがそれは水ではなく、薄らと悪寒が走るような色をしていた。
彼らの目的はまとめ役の側で棒立ちしている男を見て解けた。男の手にはランタン。それも昼間だというのに光を灯している。
気付いた時にはもうアァリは飛び出していた。
「何をするつもりですか⁉︎」
それがわかったから飛び出したというのに、アァリは大声で尋ねた。深刻な表情のアァリを見たまとめ役は現れるのを待っていたと言わんばかりに邪悪な笑みを見せて、律儀に答えた。
「燃やすんだよ。そもそもこの森がすべての元凶だ」
元凶はお前だ、とアァリは心の中で吐き捨てた。
撒かれていた液体は油。何の油かは知らないが彼らはこの森に火を放とうとしている。
「自然をなんだと思ってるんですか⁉︎ ここはボクらだけじゃなく動物だってたくさんいるのにそれを全部焼き殺すつもりですか⁉︎」
「こんな不気味な森を他と一緒にするな! 他とは空気がまるで違う。お前はなんで平気なんだ? やはりお前も化け物だからか? 初めて入ったが別の世界にでも迷いこんだようだ」
気分が悪い、とまとめ役は忌々しそうに唾を吐いた。
アァリはしかめ面で睨んだ。この神聖な森を侮辱した挙句、また化け物と言った。もうこの男と話していても意味がない。レムゥドが化け物に見えるのなら一生その化け物に怯えていればいい。
「他の人もみんなこの人と同じ考えなんですか? 森に火をつけても何も思わないんですか?」
良心に訴えるアァリの問いに対して大人達は動じない。
しかしそれは全員ではなかった。揺るぎない正義感で動いているのはまとめ役とその限られた取り巻きだけで、自らの行為に困惑している者も確かにいた。
村での立場上逆らえない者。放火はやり過ぎだと思う者。そもそもアァリをさほど危険視していない者。
アァリの話を聞いてくれる可能性があるのは本来この場にいるべきではない人だけだ。その中からアァリが選んだのは、
「ミリアさんが間違ってると本当に思うんですか?」
ミリアの父だった。
視線を合わせて距離を詰める。反射的に彼は身を後ろに引いた。
「昨日もあの場所にいたのにおじさんは何もしなかったですよね。あれはどうしてですか?」
ミリアの父は気まずそうにしたままで、口を開こうとしない。殴られた立場のアァリが言うと皮肉のように聞こえてしまうのだろう。
まとめ役とミリアの板挟みになっているこの人が一番辛い立場にいるはずだった。だからこそ彼の真意がアァリは聞きたい。
「今日も嫌々来たんですよね。本当はあの人の言うことになんか従いたくない。そうなんですよね?」
礼儀も何もなくアァリはまとめ役を指差した。アァリの挑発にまとめ役が舌打ちを返したが、それに反応したのはミリアの父だった。
「……勝手なことを言うな。俺はあいつと長い付き合いなんだ。不満なんか無い」
「嘘つかないでください」
「ついていない」
「ついてますよ。自分に」
ミリアの父は虚を突かれたように動じた。
「ボクはミリアさんと友達です。でもミリアさんには逆らえません。おじさんと似た立場ですけどボクはミリアさんのことは好きですし一緒にいると楽しいです。おじさんはどうですか?」
彼は何も答えられず、まとめ役からは見えない位置で顔を渋くした。
「質問を変えます。あの人とミリアさん、どっちといる方が楽しいですか?」
「そんなの……」
「さっきから何をごちゃごちゃと喋っているんだ!」
考えるまでもない質問に横槍が入る。親子共々よく人の邪魔をする。
「そんなガキなど無視しろ! お前の娘だってそいつにつけ込まれただけだ!」
「気にしないでください。ミリアさんとは本当に友達です。ミリアさんの手伝いだってミリアさんに頼まれたからやってるんです」
ミリアの父の顔が苦痛に歪んでいった。また板挟みか、という苦渋の叫びをアァリは聞いた気がした。
そして結論を出した彼の顔から表情がすっと消えた。
「悪く思わないでくれ」
ミリアの父はアァリを視界から外し、油の入ったバケツに手を伸ばした。
(そっか……ダメなんですね……)
ミリアの事を引き合いに出しても彼はあの男の言いなりになることを選んだ。
ならもう容赦などしない。こちらは始めから親切心で動いているわけではないのだから。
アァリは背後からミリアの父が持つバケツを引ったくった。予想以上の重さに振り回されかけたが足を大きく開いて堪えた。
周りが反射的にアァリを抑えつけようとする前に、アァリはバケツを掲げて、油を頭から被った。
服がベタつき髪が体に張り付く。鼻から侵入した独特の刺激臭が脳を揺らした。
アァリは緩やかに腕を広げて油まみれの体を見せつけた。指先から油の水滴が落ちていく。
「さあ、これで火をつけたら森だけじゃなくボクも燃えます。どうですか? 子どもを焼き殺す覚悟はありますか?」
「なにを馬鹿なことを……」
「ミリアさんのためならこれくらいします。これがボクの覚悟です」
「ミリアのため……。何故ミリアが本当に正しいと思えるんだ?」
アァリは油の滴る口角を上げて微笑んだ。
「違うんです。結局は自分が好きな人が報われればいいと思っているだけ。言ってしまえば偏ったエゴなんです。誰が正しいか、なんて考えてない。あの人達が望んだ世界にボクもいたいから味方でいる。媚びてるだけなんですよ。あなたも自分の好きなようにしたらどうですか? 周りに流されてるだけじゃ自分を無くしちゃいますよ」
「……以前もそんな事を言っていたな」
以前というものに覚えはなかったがアァリは黙って彼の話に耳を傾けた。
「俺は別に流されてなんかいない。自分で決めてあいつのやり方に従ってきたんだ……! ミリアだって俺が間違っていると判断したから、」
「じゃあ燃やしますか?」
アァリは冷酷に提案した。
「あなたは自分で選んでなんかない。あの人が怖いから従って、怖いからミリアさんを否定してるだけ。楽な方に逃げてるだけなんですよ」
「……違う」
「違いませんよ。あなたは矛盾だらけですもん」
「違う!」
「嘘をついていないって言うなら向こうの方に嘘つきは出られない泉があるので飛び込んでみて下さい。本当にあるんですから」
閉口してしまったミリアの父の代わりに周りがどよめく。何事かと視線を向けるとまとめ役がひどく落ち着いた顔でこちらへ向かってきていた。その手には火が灯ったランタンがあった。
まとめ役はミリアの父の側まで来ると、ランタンを押し付けて一言だけ放った。
「やれ」
言葉を失ったのはミリアの父だけではなかった。周りの大人達もアァリが油を被った時点で勝負は着いたと思っていた。
暴力までは怒りに任せれば行えたが人を焼くのまではとても踏み切れない。なんとも身勝手な基準だがアァリもそれをわかっていて利用している。
しかしこの男は違う。この状況になっても自分の意志を貫こうとしている。褒められた事ではない。この男はただ他人の意思をねじ伏せ、理不尽に自分のわがままを押し通そうとしているだけだ。
ミリアの父はしきりに目をしばたかせていた。無理もない。ここまで眼前に迫られては、考える猶予を与えらていないのと同じだ。
どこまで悪辣なのかとアァリはまとめ役を睨んだ。しかし本当に視線を向けなければいけないのは奴ではないとすぐに切り替えた。
「おじさん! ボクはあなたが誰に従うのかを訊いてるんじゃないんです! あなたはあなたのしたいようにすればいいんです!」
「黙れ! こいつは俺の言う通りに村を守っていればいいんだ! 自分のしたいようにだと? 大人にそんな考えは邪魔なんだ! 家族や仲間、他人の事を第一に考えなければ務まらん!」
まとめ役の言葉で、揺れていた彼の目が定まったのをアァリは見逃さなかった。
ここまで言ってもこの傲慢な男の呪縛を振り切れないのか。咄嗟に再度説得しようとしたが、アァリより先に彼の口が動いた。
「わるい、俺にはできない」
聞き間違えたかと疑ったが、ミリアの父は押し付けられたランタンをしっかりと押し戻していた。
「なんだと⁉︎」
傲慢なプライドが縮められたバネの如く一気にまとめ役を激昂させた。しかしもう怒号で圧倒したところでミリアの父の選択は覆らない。みっともないだけだ。
「昔からお前に従ってきた。でも納得していたわけじゃない。結果を出すお前に従うのが一番賢いと思っていたから従っていたんだ。だが今回はもうさすがについていけない」
「俺の言うことが信じられないと言いたいのか?」
「いや、そんなことはない」
ミリアの父は顔に深い皺を作って苦笑した。
「お前言ったじゃないか、家族を第一に考えろと。その通りだよ。あんな跳ねっ返りだが俺の娘なんだ。賛成できないにしても邪魔なんかせずに見守るべきだったんだ俺は」
「そんなのはお前が何もしない事を正当化しているだけだ。だから自分の娘にも舐められるんだ」
「それでいいんだ。もう俺達の時代じゃない。子ども達を見守るのも親の役目じゃないのか?」
「それは……」
「今回はもうやめないか。みんなもそう思ってるぞ」
周囲を見渡すまとめ役につられてアァリも大人達を見渡した。全員がいたたまれない眼を三人に向けており、油を撒く者はもうおらず、油をかけられた森を見て後悔しているような節すらあった。
「……ああそうだな」
そのたった一言だけで森での騒動は鎮火した。
、、、
「すまなかった」
大人達が撤収の準備をしている中でミリアの父はアァリに謝罪した。
「あいつに目をつけられたくなくて今までミリアのやっている事を疎ましく思っていたんだ。すまない」
「別にボクに謝らなくても。それにしてもおじさんはいざとなったらあいつ——あの人にもはっきり言えるんですね。びっくりしました」
「不満は溜まっていたからかな。あいつはなんでも自分で仕切りたがるんだ。息子にも過保護すぎる」
「それはなんとなく想像がつきます」
「でも言いたい事を言うのもなかなか良いものだな。今度ミリアにも言ってみるか」
「それはやめといた方がいいと思います」
アァリは即座に否定、というより引き留めた。まとめ役の場合は反撃される事になれていなかった為、気持ちよく締めることができたが、ミリアの場合はそうはいかないだろう。眉一つ動かさずにカウンターを決める彼女の姿が容易に想像できる。
「君はこれからどうするんだ? 手伝えることがあるなら手伝おう。今更で遅いかもしれないがミリアの力になりたいんだ」
「いえ、ボクの方は大丈夫です」
ありがたい申し出だったがアァリは断った。荒地に関しての問題はミリアとは関係のない魔法使いの管轄だ。
「その代わりロミルさんを手伝ってあげてください。たぶん今すごい頑張っていると思うので」
「わかった。……我々はここから立ち去るが土くれの魔法使いの問題が解決したわけじゃない。少し穏便になった、それぐらいだ」
「ええ、わかってます」
今の一件でミリアの父が味方となったが得られた成果はそれくらいで、大局にはそれほど変化はない。まとめ役も過剰な排他行為が諌められただけであって、心変わりをしたわけではないのだ。
「それにしてもすまない事をしたな」
「だからいいですって」
アァリは小さく手を振って謝罪を拒むポーズを見せた。年齢の差が二回り以上はある大人に真摯に謝られてもどう対応していいのかわからない。今も苦笑に近い愛想笑いをしているが、ミリアの父の態度が変わらず、顔のメッキがいい加減限界だった。
ふと見ると、彼の視線の角度が今までよりも下がっていた。どうやら油まみれになったアァリの服を気にしているらしい。
「これは自分で被ったんですから自己責任ですよ」
「いやでも君はどう見ても小さい女の子にしか見えないからどうも罪悪感がな……」
「それこそ気にしないでください。ボクは普通の人とは違うんですから。昨日あれだけボコボコにされたのにピンピンしてるでしょ?」
アァリがまったく出血をしていない腕を見せつけると視界の端で何人かの大人が肩をすくめた。しまった、とアァリは顔を引き攣らせた。聞こえてしまったらしい。
「違うって何が違うんだ?」
「え?」
何食わぬ顔でされた質問にアァリは不意を突かれた。
「君はどこからどう見ても人間じゃないか。肌とか髪の色なんて人それぞれだし体が頑丈なのも不思議な事じゃない。世の中には魔物と戦っている人間だっているんだぞ?」
アァリはミリアの父の顔をじっと見つめた。
彼はアァリが土人形だと知らない為にこんな事を言っている。だからこんな話はアァリにとっては的外れもいい所なのに、何故かいつまでも頭の中から消えようとはしなかった。
、、、
「頼む! 収穫祭をやりたいんだ協力してくれ!」
誰かが訪ねてきた気配を感じてドアを開けるや否や、家の前に立っていたロミルが懇願してきた。
協力を頼まれたアレンはドアノブを握ったまま苦笑いを浮かべた。
「ロミル、昨日からそうやっていろんな奴に頼んでるんだろ? 悪いけど諦めた方がいいぜ」
「絶対に諦めない。俺は収穫祭をやってみせる」
「……お前なんか変わったな」
アレンはぽつりと呟いた。真っ直ぐに見つめてくるロミルの目の下には薄らと隈ができている。もしかすると夜の間も村中の家を回っていたのか。
「そこまでするか普通……」
「え?」
「いやなんでもない。だいたい俺らだけで勝手に収穫祭をやるってあの人らが許さないだろ。それに今は村にいないって聞いたぞ?」
「許可なんていらない」
ロミルは即答した。
「むしろあの人達に反抗するんだよ。俺達がやりたいからやるんだ」
ふーん、とアレンは一度、明後日の方向に視線を振った。
「ミリアに頼まれてんのか?」
「今回はミリアは関係ない。あとで声は掛けるけど」
そうかそうか、とアレンはにやりと笑みを浮かべてロミルの肩を叩いた。
「よし乗った! お前がそんな青臭いこと言うなら付き合うしかねえだろ!」
「ありがとう!」
でも、と満面の笑みでお礼を述べたロミルはそのまま怪訝に眉をひそめた。
「なんでみんな同じこと言うんだろ? 俺そんな変なこと言ってる?」
「ギャップってやつだな。こっちが胸焼けするくらい強烈だったわ」
ますます訝しむロミルだったがアレンは「まあまあ」とうやむやにし、彼の背中を押して外に出た。そのまま馴れ馴れしく肩を組んでみたがロミルはあまり表情を変えない。この辺りもいつもと違う。
「で、どうすんだこれから?」
「それなりの人数が集まってきたから一旦打ち合わせをしようと思ってる。集めるの手伝って」
あいよ、とアレンはロミルの背中をぽんと叩いた。
(それにしてもあのロミルがねぇ……)
アレンは同い年の成長を感慨深そうに呟いた。
アレンの知っているロミルはあんなガキみたいな理由を人に話すタイプではない。それもあんな堂々と話すなんてまずありえない。
ロミルの変化に驚いたのは本当だが、正直ロミルの話に乗ったのは大人に反抗するという点に心が騒いだだけだ。
それはやっぱりガキの証になるのだろうが嫌な気はまったくしなかった。結局、ガキの味方は大人ではなく同じガキなのだ。
ロミルが協力してくれる有志を集めたのは毎年収穫祭の会場となる広場だった。集まった顔ぶれを見てロミルは「あれ?」と首を傾げた。
集まった者の中にはロミルの呼びかけを断った者もいた。事情を聞くと、アレンが再び声をかけてくれたらしく、彼の話で考えが変わったとのことだった。
へー、と意外な協力者にロミルは感嘆の声を上げた。アレンは天邪鬼な性格で何を考えているかわからない印象が強かったのだが、大人達への反抗というものによほど胸を打たれたのだろうか。
「じゃあ時間もないから役割を決めよう。やりたい仕事があったら遠慮なく言ってほしい」
ロミルが打ち合わせを仕切り始めると周囲が「おぉーっ」と野次馬のようにどよめいた。
「ロミルが本当に仕切ってるよ」「ミリアみたい」「な! 俺の言った通りだろ! あいつ変わったんだよ!」
好き勝手に喋り出した面々にロミルはため息をついた。ミリアのようだと言われるのは嬉しいが、ミリアが仕切ってる時はこんな収拾のつかない会合にはならない。
「みんな! 本当に時間がないから! ちょっと!」
ロミルは精一杯声を張り上げるが、どうしても周囲の騒々しさに負けてしまう。
とにかく時間がなかった。収穫祭を今日開催するにはすぐにでも準備に取り掛からなければいけない。
それに、参加者がたかが十数人だけではロミルを信じてくれたアァリに申し訳がない。もっと参加者を募らなくてはいけなかった。
一刻も早く打ち合わせを再開させるべくロミルがまた声を張ろうとすると、急に皆が静まり返った。
皆の視線はロミルの背後に集中していた。ロミルはその反応から背後の人物に当たりをつけた。
「来ると思ってた、ダジ」
振り向くと、やはりナイフのような鋭い目を更に鋭く怒らせたダジだった。ゆっくりとロミルへと近づくその顔はひたすらに虫の居所が悪そうで、ロミル達が集まって何をしようとしているのかはすでに知っているようだった。
「何の用だよテメェ……?」
先に動いたのは野次馬の中から飛び出したアレンだった。他人からの指図を嫌うアレンは、まとめ役ぶって同年代にも上からものを言うダジとは犬猿の仲だ。
「何の用だ? お前らが勝手なことをしないように釘刺しに来たんだよ。収穫祭は村全体の行事だ。父さんの許可なしにやるとか何考えてんだ」
「村全体じゃねぇよ。収穫祭みてーなもんはやりたい奴が集まって勝手にやるもんだろうが。今回は俺達しかやりてえって奴がいなかったから俺達だけでやる。それなのになんでお前の親父が出張ってくんだよ?」
「当たり前だろ!」
ダジが間髪入れずに吠えた。
「この村を仕切ってるのは誰だ⁉︎ お前らみたいな誰かの指示がなければ何もできない奴らは父さんの言う通りにしてりゃいいんだよ!」
ダジの暴言にロミルは顔を顰めた。ダジの揶揄はこの場にいるのがほとんどミリア派という事を踏まえてのものだろう。実際、機嫌を損ねたのは周りの仲間達も同様だった。
しかし最も大仰な反応をしたのはミリア派でもなんでもないアレンだった。
「誰が指示待ち人間だって⁉︎」
アレンは一気に距離を詰めるとダジの胸ぐらを掴んだ。直接手が出た事で周囲に緊張が走る。
「せっかく楽しいことになりそうだったの邪魔しやがって! やっぱお前は一回シメといた方がいいみたいだな!」
「上等だこの野郎!」
「やめろ二人とも!」
一触即発寸前の二人の間にロミルは割って入った。
「ダジ、収穫祭に参加してとは言わない。ただ邪魔はしないでくれ。頼む」
「ロミル! こいつに下手に出んな!」
「アレンも落ち着いて! こうして揉めてる時間も惜しいんだ!」
落ち着く様子のないアレンを仲間の青年達に任せて、ロミルは改めてダジと向き合った。
「見逃せって言ってるんじゃないんだ。俺らが収穫祭をやることをバカにしてもいい、ただそれを今日じゃなくて明日以降にしてほしい」
「……これはあのガキが関わってんのか?」
アレンとは違い、ダジは落ち着いた口調だった。しかし機嫌の悪さは相変わらずで油断はできない。
「そうだ。アァリの頼みでもある」
「そうか」
にたぁ、とダジの口の端が歪み、その隙間から嘲笑う声が少しずつ漏れ出した。
「今度はあのガキの言いなりかよ! あんなチビで女のガキの⁉︎ プライドねぇのか⁉︎」
ダジが浴びせたのは偏見からの挑発だった。
「あいつまたアァリちゃんの事悪く言ってんのか!」と噛み付いたのは羽交い締めにされたアレンだ。まとめ役達に快く思われていないという理由からアレンはアァリに好意的だが、ミリアの判断で二人が直接会話をしたことはない。
ロミルは自分でも不思議な気分だった。挑発されても一切気持ちがざわつかない。的外れな発想に行き着いてしまっている彼が哀れに感じるほど冷静だった。
「アァリは俺の友達だ。プライドだとかそんなものは関係ない。そっちこそいつまで人を見下してるんだ」
「ああっ⁉︎ ロミルの分際で——」
「俺だけの話じゃない。他の人と話す時もいつもそうじゃないか。だからみんなが離れていってミリアの方に集まるんだ」
まったく自覚していなかったわけではないのだろう。ダジはそのまま噛み砕いてしまいそうなほど思い切り歯を食いしばった。なにか反撃を考えているようだが、いい方法が思い浮かばないのかなかなか彼から言葉が出てこない。
ダジは追い詰められている。その場にいた全員がそう確信した中、その本人だけがにやりと笑った。
「お前——なんでそんなミリアの肩を持つんだ?」
白々しく尋ねたダジに「おい!」とアレンが待ったをかけるがダジは気にも留めない。
「いつもいつもあいつの指示には素直に従ってよ。俺から見ても理不尽だと思う指示でもお前、嬉しそうに承諾するよな。ロミル、お前ミリアのことが好きなんだろ?」
息を呑んで二人を見つめていた周りの中で誰かが「最低……」と吐き捨てた。
ロミルがミリアに好意を抱いていることは周知の事実だが、ロミル本人はそれが周りにバレているとは露程も知らない。ロミルがどれだけ純粋にミリアを想っているのかを知っている者達の間では、ロミルの前では気づいてない風に装うのが暗黙の了解となっている。
なのに追い詰められたダジは脈絡もなく、ただロミルの揚げ足を取るためだけにロミルのデリケートな部分を踏み荒らした。人望が無いと突きつけられた直後にこれではもうどうしようもない。
皆が同情の眼差しをロミルへと向けた。
しかし当人の表情は平静そのものだった。
「ああそうだよ」
何の躊躇もせずに肯定したロミルにその場の全員が呆気にとられた。耳を疑う観客に応えたわけではないのだろうが、ロミルはもう一度しっかりと肯定した。
「俺はミリアが好きだ。ダジの言う通り俺はミリアに嫌われたくなくて言われることすべてを受け入れてた。そうすればミリアにもっと近づけると思ってたんだ」
僅かにロミルは俯いた。顔に暗い影がかかる。
「でもミリアを尊重することを優先して、俺はミリアのことを何も知ろうとしてなかった。だから何も気づけなくて、ミリアはいつものかっこいいミリアのままだと思ってた」
ロミルの脳裏に大人達に囲まれてぼろぼろになった少女の姿が浮かんだ。
まさかあんな事になるとは思っていなかった。ミリアに気をつけろと言われていたのに。
油断していなければ起こらなかったか。いや、ロミルが変わろうとしない限りいつか同じ事が起こっていた。そしてその犠牲になるのはアァリだけではなかったかもしれない。
「だから波風立てないように過ごすのはやめようと思ったんだ。大事なことに気づけなくなるなら、俺は嫌われる事よりそっちの方が怖い」
ロミルが話し終えると周囲は静まりかえっていた。
その静寂の中でヤケクソのような笑い声が響いた。
「それで俺に意見を言えるようになったってか! ミリアみてぇに俺と刃向かってれば頼もしくも見えるよなぁおい!」
「ダジ、もう一度言うよ邪魔だけはしないでほしい」
「このまま帰れるかよ!」
ダジの目が吊り上がった。もはやプライドだけで立ち上がっている彼は退くことができない。
ダジはロミル越しに広場に集まった村人に語りかけた。味方を増やそうとしたのかもしれなかったが、その内容は憂さ晴らしにしか聞こえなかった。
「お前ら何してんのかわかってんのか⁉︎ 土くれの魔法使いを受け入れたら村が滅茶苦茶になるんだぞ⁉︎ どいつもこいつもあの女の言う事をほいほい信じやがって! あんな女のどこがいいんだ!」
「わかろうとしない限りわかんないよ」
ロミルは静かに事実を告げた。告げてから、相手が彼じゃなければここまで冷静に誰かを傷つけたりはしなかっただろうなと後悔した。
「だからいつまで経ってもミリアのようにはなれないんだ、ダジ」
その言葉が引き金だった。
ダジの左手がロミルの胸ぐらを掴み、見開かれた目の奥で右手が握られていた。
ロミルは動かなかった。ダジに掴まれていたからでも恐怖で体が竦んだからでもなく、彼女達の事を考えていたら避ける気にならなかった。
「そこまでだ」
外野から飛んできた大人の声にダジの手が止まった。弾かれるように二人で声の方へと視線を動かす。
「ミリアの……おじさん?」
仲裁に入ったのはミリアの父だった。まとめ役と共に村を留守にしていたはずの彼がいるということは、まとめ役も村に戻ってきているのだろう。
「邪魔すんなよ!」
自分の父に逆らえないミリアの父をダジは歯牙にも掛けない。威勢よく吠え、再度拳を振りかぶった。
「やめろと言っただろ」
ミリアの父は力づくでロミルを掴んでいたダジの手を振り解いた。僅かな抵抗も出来ない力の差にダジは唖然としていた。
「話は途中からしか聞いていないから詳しくは知らない。だがロミルを殴ろうとしたのならお前の負けだ。わかっていたんだろ? 認めろ」
図星だったのかミリアの父に諭されたダジはがっくりと項垂れた。「……誰があんな奴に憧れてなんか」という呟きは近くにいたロミルとミリアの父にしか聞こえてなかったが、二人とも聞こえていないふりをした。
一人去っていくダジを引き留める者は誰もいなかった。完全に姿が見えなくなった瞬間、わぁっ! と周囲が歓声を上げた。
「やったな! あんなダジ初めて見たぜ!」「普段優しそうな奴が怒るとやっぱ怖いんだな!」「辛辣だったよな! まっアレをバラされちゃ頭に来てもしょうがないか!」
え? と最後の発言にロミルは目を丸くした。
「まさか、みんな俺がマリアを好きな事……⁉︎」
「「「「ミリアだよ」」」」
総ツッコミが入った後、「なんで今更間違え……最低」と誰かが呟いた。
「い、いつから⁉︎」
「んー、わかんねぇけどお前がミリアを好きになった頃からじゃね?」
何故か代表してアレンが答えると周りもうんうんと頷いた。
「だって俺らの前で隠しても本人の前では隠さねぇんだもんロミル」
「! じゃあまさかミリアも知って……⁉︎」
「いや、それはないと思う」
若者の会話に入ってきたのはミリアの父だった。立場の関係かなんとなく居心地が悪そうだ。
「あいつから恋愛の話なんか一度も聞いた事がない」
「あぁ、それならよかった」
ほっと胸を撫で下ろしたロミルに、それでいいのか? と全員が首を傾げた。意中の彼女が恋愛に関心が無いのは致命的な問題だという事にロミルはまだ気づいていない。
「ところで、おじさんはどこへ行ってたんですか?」
尋ねられたミリアの父はばつが悪そうに言葉を濁した。
「それはちょっと言えないな。でも用が済んだことは済んだから戻ってきたんだ。ロミルを手伝うようにあの子に頼まれてな」
「あの子……」
ロミルの予想を肯定するようにミリアの父は頷いた。
「ロミル、収穫祭の準備は俺達で進めておく。ミリアを呼んできてくれ」
「俺達?」
ミリアの父が顎でしゃくって視線を促すと、そこには村を留守にしていた大人達が立っていた。
相好を崩したロミルは短く返事をした。
、、、
荒地に向かってアァリは懸命に走っていた。
森への放火を未然に防いだのはいいものの、無視できない時間のロスをしてしまった。必要な寄り道だったとはいえ予定外のトラブルはアァリを遠慮なく焦らせる。
『べたべたするしにおいもすごいしなんか頭痛いし』
ぶつくさ文句を言いながらアァリはその場の勢いで実行した策を悔やんだ。今後の行動に支障が出るなど少し考えればわかることだというのに。
被った油はだいぶ揮発しているが不快感はまだまだ残っている。加えて、不快感とは違うがもやもやとした疑問も残っていた。
(土人形と人の違いってなんだろう?)
ミリアの父との会話で生まれたしこりがアァリの胸の奥をざわつかせていた。
土人形は土から作られた人形であり人ではない。
この当前だと思っていた概念が間違っているとするなら、土人形とは一体なんなのだろうか。
自身が土人形なので失念していたが、本来人形というものはアァリのように動いたり話したりはしない。だとすれば、
『生物になるのかな?』
そんな訳はないと思いながらアァリは呟いた。馬鹿げた仮説だが、土人形と人を同じとするならばそれだけ広い定義で括るしかない。
その上で土人形と人の違いを考えてみるがめぼしいものは思い浮かばない。しかしただ一つ、『アァリ』と『人』で明確に違うものがあった。
精神。アァリの精神は元は別の世界の人間の魂だ。どうして異世界の土人形の体にアァリの魂が入ったのかは気になってはいたが、流行りのそういうものだと思って深くは考えてはいなかった。
『——あれ?』
ふとレムゥドに初めて会った時に聞いた言葉を思い出し、アァリはその場に立ち止まった。
この世界では『精神』という概念はないと彼は言っていた。だからこそ『精神』や『魂』の存在を語るアァリが別の世界から来たことを信じてくれた。
あの時はレムゥドが信用できる人だとわかっただけで安心してしまったが、改めて考えてみるとレムゥドにとってのイレギュラーは『別の世界の精神が土人形に入った事』ではなく『土人形に精神が入った事』ではないのか。
レムゥドは初めから土人形に精神を入れるつもりはなかった。
庭に埋葬した土人形も精度は低いと言っていたが、未完成ではなくあれで完成形。
ならば、じゃあ、でも——
アァリの中で飛躍していく空論が制御不能のまま一つの結論へ到達しようとしていた。
この世界に『精神』の概念はなく、
土人形は生物のように振る舞い、
そしてそれを創り出したレムゥドは——
空想としか言いようがない結論に辿り着いたアァリは再び走り出した。
レムゥドと人間を繋げる事は自らの使命だと勝手に思っていたが、それは必然なのかもしれなかった。
、、、
周囲の大地のエネルギーを探っていたアァリは神妙な顔で立ち上がった。
いつかアァリの前に再び現れると思っていたがよりにもよって——いや、だからこそ今日か。
出来れば避けたいがゆっくりと、しかし確実にアァリへと向かってきている。アァリの体から発せられる臭気をもう捉えているのだろう。
厄介な事に荒地への最短距離は彼との最短距離でもあり、迂回しても完全に逃れられるわけではない。すでに邂逅は時間の問題で、それでも足を止めるわけにはいかないアァリの前にそれは現れた。
黒い毛に覆われた熊と猪を合わせたような巨体。かつて森を散策していたアァリとレムゥドの前に現れた獣、ベラシュだった。
アァリがその姿を視界に捉えた時にはもうベラシュはアァリを見つめていて、その無垢な瞳に寒気がした。
臭いの元がアァリだとわかって、それからどうするつもりなのか。それがあの瞳からは読み取れない。
(何にしてもボクにできることは——)
アァリはベラシュに背を向けて全力で走り出した。
以前はレムゥドが呆気なく対処したが、今は逃げる事しかできない。確かベラシュはアァリの目的地の荒地に近づきたがらないはずなので、そこまで逃げ切れば安全は保証される。
スピードを落としたくないのと恐怖から後ろを振り向けない。ベラシュがアァリを狙っているなどアァリの自意識過剰からくる思い過ごしならばよかった。しかし背後から聞こえてくる地面を踏み締める音が、思い過ごしではないと丁重に教えてくれる。
真っ直ぐに走っていたアァリは勘で横に飛んだ。真横に流れていく視界の中を黒い塊が吹っ飛んでいく。
猪のように木に衝突してやっと止まったベラシュは平然としており、対してぶつかられた木は乾いた音を鳴らしながら地面に倒れていった。
標的に突進をくらわせ、動かなくなった所を爪と牙で貪る。原始的な狩猟法だがパワーとスピードが桁外れというこれまたシンプルな理由でなす術がない。
アァリは角度をつけてジグザグの軌道を描きながら逃げた。これならば真っ直ぐ逃げるよりは狙いをつけ辛い。それにあれだけのスピードならば、ほとんど真っ直ぐにしか走れないはずだった。
これがゲームなら視点を調整してベラシュの動きを捉えながら逃げられるのに、とどうにもならない愚痴を溢すアァリの後ろでまた衝突音が轟いた。
こうなる事がわかっていたら油とランタンを借りておけばよかった。そもそも油を被らなければこの巨大な獣と遭遇していなかったかもしれないのだが。
あっ、と思いついた。
油ならば服に鬱陶しいほどに染み込んでいる。あとはどうにかして着火すれば火で威嚇する事ができる。
さっきは森への放火を止めたくせに、今度は火起こしに奔走してるのは何の皮肉か。状況が違うと溜飲を下げてアァリは落ちていた枝を拾った。袖を破り枝の先に巻きつける。簡易的な松明の完成だ。
あとは一か八か石同士をぶつけて火花が出るのを期待するしかない。
伸びた草の中に隠れた石をベラシュから逃げながら探すのは易しいものではなく、アァリの小さな手に収まるサイズで数は二つ、と条件が増えるとその難易度も上がった。
(——あった!)
反射的に石に飛びつこうとするが、ジグザグに進む為に重心を移動させた直後だったアァリの体は大した勢いもないままその場に倒れた。
冷や汗が噴き出る。立ち上がらねば。ほとんど膝を地面に叩きつけるようにして体を浮かせる。そして何故かアァリの手はこの期に及んで石へと伸びていた。そんな時間が無いのはわかっているのに体への命令が追いつかない。
——アァリは知る由もないが、火花というものは剥離した鉄片などからなる火の粉であり、石同士をどれだけぶつけても決して起こる事はない。
一瞬だった。
派手な音は鳴らず、押し潰されたかのような圧迫感と混乱を表現した荒れ狂う視界が詰め込まれた一瞬だった。
以前、執拗に鹿の体当たりを食らった事があるがあれとは比べ物にならない。
地面を転がったアァリは這いずって近くの木に寄りかかった。小さい呼吸を繰り返して狂いかけた頭を整える。
土人形特有の薄い痛みは全身から感じる。逆に何も感じない左腕が最も深刻な状態なようだった。もっとも、これから起きる事態の前では些細な問題だが。
座り込んだアァリの目の前ではベラシュが入念にニオイを嗅いでいた。アァリが安全かどうかの最終確認をしている。無論、捕食の為のだ。
絶望感に浸りすぎたのか身の震えはなく、むしろこんな瞬間でなければ拝めない彼の顔を眺める余裕すらあった。
以前遭遇した時に化け物にしか見えないこの獣とレムゥドを重ねてしまったのをアァリは思い出していた。
今はどうやっても似てるとは思えないが、あの頃のアァリは似てると思ってしまった。そしてこの二つは人間からすればまったく同じ存在なのだろう。
本能や先入観といった単純な問題だ。そんな単純な問題をアァリは理屈で解決しようとしていた。しかしこうして怯える側に立って、ようやく自分が無茶をしていたと自覚できた。
できたが、挫けはしなかった。
レムゥドは化け物ではないし、印象などいくらでも変えられる。
アァリはベラシュへ握手を求めるかのように左手を伸ばした。
『食べたいんでしょ。あげるよ』
言葉が通じたのかはわからないがベラシュは一気にアァリの腕に齧り付いた。
左手から生暖かい体温が伝わり、指先が湿った何かに触れる。肩口には牙が食い込んでいた。
密着以上に迫っている大きな頭をアァリは残った右腕で抱き込んだ。
化け物と思ってごめんね。お詫びをしたいけどボクは行かなくちゃならないから全部はあげられない。だからこれだけ。ごめんね。
アァリは思いっきり体を引っ張った。強靭な顎で捕らえられた左腕が肩からぶちぶちと悲鳴を上げる。
『———っ‼︎』
歯を食いしばって全身を捻ると、ゴムのような弾性と粘土を合わせたような腕がぶちぃっ! と千切れた。
アァリは巨体の隙間をすり抜けて逃げ出した。ベラシュは逃げたアァリよりも口の中の腕の方に執着していて、二度と追ってくる事はなかった。
左肩に掛けていたカバンの紐がするりと落ちたのでアァリは足を止めて肩に掛け直した。アァリの視界に無くなった左腕が映ったのはその時が初めてだった。
心に穴が空いたような喪失感が急に湧いてきた。激しい痛みでもあればかき消せるものなのかもしれないが、傷口は僅かに疼くだけで血は一滴すら流れない。
なんだか壊れたおもちゃのようだと思った瞬間、アァリは長らく感じていなかった不安に襲われた。
レムゥドと過ごしている内に風化していったもので、かつてのアァリはこの不安から逃れる為に人生を全うしていたのだ。
その場にうずくまったアァリは無残な左肩を押さえて必死に自分に言い聞かせた。
こんな姿になったってあの人はボクを捨てるもんか。もうボクは一人じゃない。ボクにはあの人がいる。彼がいればボクはボクでいられる。
精神が不安定なのは命の危機に遭遇したことで脳で変な物質が分泌されているせいだと決めつけて、アァリは立ち上がった。
今更へこたれてどうする。あとはただ荒地へと向かえばいいだけだ。
平和はもうすぐそこまで来ている。
、、、
最後にアメリアを見たのはすっかり暗くなった自宅の玄関先だった。少女はミリアにだけ見せる人懐っこい笑顔を浮かべていて、最近お気に入りの土くれの魔法使いの話をしにきたと勘づいたミリアは先んじて遠慮した。
少女の見るからに不服そうな顔は見慣れているはずなのに、何か引っ掛かるものがあったのを確かにミリアは感じた。
違和感の正体は判明しないまま少女は去っていき、その日は少女の後ろ姿を頭の中で追い続けている内に眠りに落ちた。
最初にアメリアだったものを見たのは誰も近寄らない森の中だった。
少女が村から消えたことに気付きもしない周りに村の周辺を探してもらい、ミリアは森へと走った。明らかに他とは違う空気を漂わせた森はミリアの不安を煽り立てた。
もし見つからなければ魔法使いの棲家を訪ねなければならないのか。それは最悪の結末に繋がっているような気がしてミリアは無我夢中で森の中を駆け回った。
鬱蒼な森の中で日が差している場所が目についた。そこは森の中で唯一草一つ生えていない土地で、地面からはとても自然に出来たとは思えない形の——例えるなら大きな獣の爪のような岩が生えていた。
降り注ぐ光を見上げ、ミリアは禍々しい爪の先に何かが突き刺さっているのに気付いて———気付いた。
あの時、私が止めていれば。
誰もミリアを責めも慰めもしない中、ミリアは自分を責めた。
小さな少女を止める事など決して難しい事ではないのに。私の言うことなら不貞腐れながらも聞いてくれるはずなのに。
意味の無い堂々巡りに明け暮れる自分にいらつき、久々に外に出ると村の様子が変わっていた。
余所者に非常に冷たくなり、時には村に入る事さえ頑なに拒むようになっていた。ミリアは何人かをとっ捕まえて、何故こうなったのかを問い詰めると皆が揃って言葉を濁し、ようやく聞き出した理由にミリアは心底苛立った。
——余所者が勝手な事をしたせいで迷惑を被るのはごめんだ。次に土くれの魔法使いの標的になるのは俺達かもしれない。
「——ふざけるな」
嫌な記憶を思い出していたミリアは思わず声に出して吐き捨てた。
自室のベッドから起き上がり、細く呼吸をしてズキズキと痛む頭を整える。少しは眠ろうと横になったが中途半端な睡眠は逆効果だった。
やはり眠っている場合ではない。アァリが村から離れている間に事態を収拾させる策を考えなければ。
土くれの魔法使いの名を出せばまとめ役達の行動が過激になるのは予測していたが、連中がそこまで人の道を踏み外してくるとは思わなかった。しかもその非道な行いにはおそらくミリアの身内も関わっていて、もうアァリの前でどんな顔をすればいいのかわからない。
アァリはおそらく何事もなかったかのように振る舞う。だから同じくミリアも昨日ロミルに見せたように何も感じていない冷血を気取ればいいのか。
「……騒がしいわね」
窓の外から聞こえてくる村人の声にミリアは眉をひそめた。村の復興作業の音かと思ったが、それにしてはやけに楽しそうだ。若者の声ばかりなので何かバカな事をして騒いでいるのか。
こんな時に、とミリアは一瞬鬱陶しく感じたが、暗く沈んでいるよりはいいかと思い直した。同時に窓の外がとても遠くに感じた。
不意に部屋のドアがノックされた。身内の恥が帰ってきた可能性を考慮してミリアは低い声で入室を促した。
「入るよ。……お待たせ」
来訪者はロミルだった。何が「お待たせ」なのか尋ねようとして、ミリアは気付いた。
「収穫祭……やるのね」
「うん。全員参加ってわけじゃないけど」
「それでも大したもんよ。すごいじゃない」
素直に照れてにやけるロミルをミリアはじっと見つめた。なんか少し大人っぽくなった気がする。
「みんな準備で忙しいんだ。ミリアも行こ?」
「あー……そうね」
ミリアは歯切れの悪い返事をした。まだ策が纏まっていない。収穫祭が開かれるのはありがたいがこのままでは中途半端な勝利が関の山だ。
「行こう。みんな待ってる。きっと楽しいよ」
屈託のない笑顔で誘ってくるロミルにふとミリアは首を傾げた。
「あんた、私が収穫祭で何をしようとしてるのか知ってたっけ?」
「アァリの事をみんなに話すんでしょ?」
「うん。で、それを何の為にやるのかは知ってる?」
「それは……知らないや。ミリアがアァリと何かをやろうとしてるのは知ってたけど内容までは聞いたことないし」
「知らないのに私達にここまで協力してくれるのね」
「そりゃあね」
ロミルは間髪入れずに答えた。
「で、何をしようとしてたの?」
緊張感もなにもなく訊いてくるロミルにミリアの口元が緩んだ。ここまでこき使っておいてまだ部外者と同じ扱いでは失礼だろう。
「余所者に厳しくなった村を元に戻したかったの」
「なんでそんな事を?」
ロミルの純粋な質問がミリアには他人事のように言っているように聞こえ、本調子ではない頭に血が昇った。収まりかけていた頭痛がまたざわめきだす。
「——頭にきたから。村がこうなったのをみんなアメリアのせいにしてるのが許せないから。何の証拠も無いのに、死んで何も言えないあの子をいいように使ってるのが気に入らないから……」
制御はもう効かなかった。八つ当たりなど情けないのはわかっている。でもロミルの質問が呼び水となって、溜まっていた黒い感情が片っ端から流れ出した。
「そんな事はない」と言いかけたロミルをミリアは一蹴した。
「根拠もないのに否定しないで。今の私が普通じゃないのはわかってる。でも間違ってなんかいない。アメリアが死んでこの村はおかしくなってそれにみんな従ってるじゃない」
「それは、そうかもだけど、相談してくれれば……」
「誰にすればいいのよ!」
ミリアの中に沈澱していた泥のような感情は吐き出し尽くした。そして今度は心にへばりついていた感情が剥がれ出す。
「みんな同じじゃない! みんな怖がってるだけで誰もアメリアの死を悲しんでない! あの子が独りぼっちだったことに気づかない振りして、今もいなくなった事に触れようとしない! それが当たり前だと思ってる人達をどう信用しろってのよ!」
今はいない少女に手を差し伸べようとするたびに周りから自分が離れていく。それだけ少女は孤独だった。
天真爛漫な少女の姿はもうミリアの中にしか存在せず、村に残っているのは「土くれの魔法使いの逆鱗に触れた愚かな子ども」という教訓と化した悪態だけ。
頼れるわけがなかった。かといって周りに流されて「アメリアが永遠に独りぼっち」という事実から目を背けて生きるのも耐えられなかった。
こんな連中に頼るくらいなら、と何度もあの森に踏み入ろうとしたが、自分の内で増していく憎悪に蝕まれそうになり、結局二度と入ることは出来なかった。
あの少女と出会ったのはそんな時だった。
「だからアァリと、なんだね」
ロミルの静かな呟きにミリアは後ろめたそうに顔を伏せた。
村の事情を知らず、お人好しで御し易そうなアァリはうってつけだった。
なによりあの姿を一目見た瞬間、ミリアは機会だと思った。
もう一度あの子とやり直せる。後悔に決着を付けられる二度とない奇跡だと。
私はどうなってもいい。周りからどう思われてもいい。この子を利用してアメリアに着せられた汚名を晴らす事さえ出来ればそれでいい。
そんな薄情な決意をしたあの時は、本当にあの子があんな目に遭うなんて思いもしなかった。
「——こんなはずじゃなかった。私はアメリアが可哀想だったからどうにかしたくて、アァリを犠牲にするつもりなんてなかった。酷い目にはあの子を助けられなかった私が遭うべきだったのに……」
「ミリア!」
ふらついて倒れかけたミリアの手をロミルは握った。
そのまま引き寄せられたが、重心が元に戻ったミリアは踏み止まった。
「……一人で悩んで、苦しんで、やっと本当の意味であの子の気持ちがわかったような気がするの」
心に溜まっていたものも、へばりついていたものもすべて吐き出した。もう何も残っていないと思っていたミリアの目がにじむ。
アメリアが死んだ時には流れなかったのに、なんで今になって流れるのか。
「でも、わかったからわからない事もあるの。なんでこんなに辛いのに、誰かに助けてほしいのに……、なんでアメリアは私を頼ってくれなかったの?」
ロミルに手を握られたままミリアは床にへたり込んだ。結局、涙は目を潤ませただけで流れなかった。嗚咽も起こらず、中途半端な感情が行き場を求めて彷徨っていた。
アメリアは死んで、そのアメリアをミリア以上に知っている者はいない。
ミリアの胸を締めつける疑問に答える術は、もうこの世界には無い。そう思っていた。
「それはアメリアがミリアの事を好きだったからだよ」
降ってきた答えにミリアは自分の手と繋がったロミルを見上げた。
「好きだったからいつも大変そうなミリアに余計な心配とか迷惑をかけたくなかったんだよ」
「……根拠は?」
「俺もアァリも同じこと思ってるから」
ロミルはミリアの手を引いた。釣られて立ち上がろうとしたミリアのもう片方の手も握る。
「ミリアはいつも人の輪の中にいるから仲良くしようと思ってもできない人の気持ちがわからないんだよ。言葉に出してないだけで伝えたい事だってあるんだ。だから、ミリアもアメリアも独りなんかじゃない」
ね? と優しく微笑むロミルを見てミリアは笑い声を漏らした。
「なんで笑うのさ!」
「いや、なんか面白くて。っていうか私がこんな醜態晒してるのになんでそんなに平然としてるのよ」
「それは……びっくりしたんだけどそれで逆に冷静になっちゃって」
「何よそれ」
もう一度声を出して笑うと、今度はロミルも釣られて笑い出す。ようやく収まった所で目の端から溢れそうになった涙を拭って、ミリアはロミルの手を引っ張った。
「行くわよ。アァリに謝らなくっちゃ」
「ちょっ、ミリア! 強く引っ張りすぎ!」
「あらごめんなさい。それと私からも言っておくわ」
「え、なに?」
ロミルが尋ねるとミリアは子どものような笑顔を浮かべた。
「私もみんなのこと大好きだから」
、、、
左腕を無くした体は想像以上にバランスが取りづらかった。普段通りに腕を振って走るとすぐに上半身が右側へと持っていかれてしまう。最初の内は左半身に重心を置くように意識して走っていたが、ふと左側に転びそうになった時に、地面に突っ張れる腕が無い事に気づいてゾッとした。最終的に腕は振らず、右手は胸の前でカバンの紐を押さえるスタイルに落ち着いた。
森の奥で明らかに光量が違う場所を確認するとカバンの紐を握る手に力が入った。ここまで来れば大地のエネルギーを探らなくとも感じとれた。
『なにここ……』
荒地に辿り着いたアァリはその自然とはかけ離れた光景に困惑した。
地面からは凶暴と称する他ない荒々しい岩が何本も生えていて、その地面には地割れの跡と思われる亀裂が何本も走っていた。巨大な悪魔が口を開けて待ち構えているようで、牙の内側に一歩でも入れば途端にその口は閉じられ、地底の奥底へと飲み込まれてしまいそうだった。
ピシっ、と何かが軋む音がした。ぎょっとしてアァリが振り向くと、今まさに地面に新たな亀裂が走り始めていた。
間違いなくここが元凶だ。この自然の摂理から外れた禍々しい光景は魔法によるもので、その魔法を使ったのがアメリアなのだろう。
ここにアメリアが来た理由はきっとアァリと同じだ。彼女もどうやってかこの荒地の危険性に気付き、一人でなんとかしようとして、命を落とした。
荒地に辿り着いたら地面に手を着いて荒地のエネルギーを直接探ってやろうと思っていたが、とてもじゃないが触れられない。ここで人が一人死んでいると考えると尚更だ。
この荒地はアァリや人間が立ち向かえる相手ではない。
だが問題はない。
アァリはここにレムゥドの手伝いで来ている。つまり今だけは正真正銘『土くれの魔法使いの弟子』であり、本当に荒地と対峙するのはレムゥドなのだから。
アァリはカバンからレムゥドの手紙を取り出した。油で濡れていないか心配だったが問題はなさそうだった。
館で目を通した時には『袋を持って荒地に向かう』という短い指示しか書いていなかったが、手紙にはいつの間にか『続き』が現れていた。
『袋に入っている種を荒地に蒔いてほしい』
『種?』
首を傾げながらアァリはカバンから袋を取り出した。巾着の要領で口を縛ってある袋は片手だけでは開けられず、一旦地面に置いてから開く。
中に入っていたのはたった数粒だけの植物の種だった。何の植物の種子なのかはさすがにわからない。
指示通りにアァリは種を持って恐る恐る悪魔の口へと近づいた。どくん、どくん、という音が体の中から響く。恐怖で自分の心臓が高鳴っているのかと思ったがすぐに思い直した。アァリは心臓を持っていない。
震源は真下。足の裏で触れているだけでその脈動がアァリの中まで伝わってきていた。リズムも強弱もすべてが乱れていて、この振動に共鳴してしまえばそれだけで壊れてしまうだろう。
アァリは地面の亀裂に種を放り込み、急いでその場を離れた。
次の瞬間、地震とは違う大きな衝撃が唸りを上げた。あまりの衝撃に地面を走っていたアァリの身体が一瞬浮き上がるが、空中で強引に体を捻り、なんとか右腕から着地した。
地面に這いつくばった状態で振り返ると悪魔の口が隆起していた。『何か』が悪魔の喉の奥から産まれようとしている。間違いなくアァリが蒔いた種が成長した『何か』が。
一体何が大地を割って出てくるのか。アァリは固唾を飲んで見守った。そして、ついに地上に現れた『何か』を見たアァリは目を剥いた。
『サ、サボテン……?』
白い体色と色こそ異なるが、そのフォルムは森を侵略したあのサボテンだった。しかしあのサボテンは全滅したはずなのに何故目の前にいるのか。
芽吹いたばかりの白いサボテンは規格外のサイズを有していた。あのサボテンには大地のエネルギーを吸って成長するという特徴があり、それが荒地のエネルギーという羊水から産まれたからだろう。
このまま荒地のエネルギーをすべて吸い取ってしまえたならよかったのだが、もうサボテンは破裂寸前の状態で限界だった。
ここからどうすればいいのか、どうなるのか。アァリはもう一度レムゥドからの手紙にすがった。
見ると、今まさに手紙に新たな文が浮き出ている最中だった。
『お疲れさま。あとは休んでて』
『そんな⁉︎』
まさかの待機命令にアァリは愕然とした。最前線にいるのに『何もせずに見ていろ』と言われても了承できるわけがない。
手紙を振ったり太陽にかざしたりしても新たな文は追加されず、アァリに与えられた選択肢は結局このサボテンを見守ることだけだった。
『……レムゥドが、言うなら——』
アァリは立ち上がった。
そもそもがレムゥドによって蘇った命だ。彼を信じて言う通りにするべきだろう。
思えば、『何もせずにレムゥドの側にいる』というのは彼が当初望んでいた関係だ。彼がアァリのわがままを叶えてくれているのだからアァリも彼の要望に応えるのが筋というものだ。なにより、一蓮托生なんて綺麗な関係よりもそちらの方が温かく感じる。
腹を括ったアァリを煽るかのように地面が轟いた。
膝を曲げて揺れに耐えるアァリは訝しげにサボテンを見つめた。だがこの揺れはサボテンが起こしたものではない。かといって震源は荒地でもないようだ。
一体何が揺れているのか思考を張り巡らせるアァリの頭上を一つの影が通り過ぎた。
アァリは空を見上げた。影は一つではなかった。青い空には森の中から浮上した土や岩が漂っており、それらはゆっくりと、遥か上空の一点を目指して高度を上げているように見えた。
やがて揺れは収まり、浮き上がった地面は再び一つの塊となった。それはまるで小さな星のようだった。
『あれは、レムゥド……かな?』
『そうだよ』
反射的にアァリは振り向いた。薄暗い森の影の中でゆっくりと動くシルエットを一目で捉える。
思わず口角が上がるが、左腕の事を思い出して気まずそうに身を屈めた。
どう頑張っても腕一本の欠損が隠せるわけがなく、それどころか腕以外もアァリはぼろぼろで、近寄ったレムゥドは確かに言葉を失っていた。
『……随分、無茶をさせたみたいだね』
『無茶をしたんですよ、勝手に』
左腕について真正面から向き合いたくないアァリの口調が少し拗ねたものとなる。
『まだ怒ってるか……。アァリ、昨日は——』
『待って!』
レムゥドの次の言葉が読めたアァリは慌てて遮った。
『謝らないでください。昨日のあれはなんというか、どっちが悪いとかじゃなくて……その、お互いに謝って終わりって事にはしたくないんです』
アァリのしどろもどろな説明にレムゥドは怪訝な顔をした。
『怒ってないの?』
『怒ってないです。怒ってないのでレムゥドも怒らないでください。昨日のレムゥドは正直怖かったです』
唖然とするレムゥドにアァリは近づいた。一本しかない腕を伸ばして彼にすがりつく。
『ボクの事を想ってくれるなら褒めて下さい。ボクはもう居場所を与えられる幸せを我慢できないんです』
レムゥドは僅かに躊躇してからアァリの頭に手を置いた。
『頑張ったねアァリ。えらいよ』
『ありがとうございます。あとあの、手紙読みましたけどレムゥドは別にそのままでいいんですから。ボクらに対等な立場なんていりませんよ』
恍惚な表情で頭に乗せられた重みを味わっていたアァリは、はっと頭から油を被っていた事を思い出してレムゥドの手の平からすり抜けた。
『こんな事してる場合じゃない! 荒地はどうなったんですか⁉︎ そもそもレムゥドは何してたんですか⁉︎ あの空に浮かんでるのは何⁉︎』
『焦らないで。もう何もしなくても後は勝手に事は進むから。順に説明するよ』
さらっと勝利宣言をしたレムゥドは荒地を指差した。
『今回の問題を簡潔に言うと、地中に不安定かつ膨大なエネルギーが存在する事で周りに悪影響が出ている、といった所だ。私は当初、不安定な荒地のエネルギーを整える方法を探していたのだけれどこの量のエネルギーを制御するのは現実的ではなくてね。断念せざるを得なかった』
荒地のエネルギーの膨大な量については口で説明されなくても土人形の体に嫌というほど伝わってくる。仮にこのエネルギーをレムゥドの手中に収められたのなら、ここら一帯の土地を文字通りひっくり返す事くらいは出来るかもしれない。
『そこでいっその事、膨大な荒地のエネルギーをどこか他の場所へ移してしまおうと考えたんだ。その為に用意したのがあの改良型のサボテンだ』
『改良型?』
アァリは目の前のサボテンと記憶の中の忌まわしいサボテンを比較してみるが、体色以外の差異がわからない。
目の前の白いサボテンのてっぺんには蕾のような膨らみが出来ているが、あれは砂漠色のサボテンも死の間際に見せたものだ。つまり改良型とやらのサボテンも限界が近い。
『大地のエネルギーを吸い取る性質は変わらない。見てて。もうすぐだ』
荒地のエネルギーを限界まで溜め込んだサボテンはついにその蕾を開花させた。相変わらず貪欲な性質からは想像つかない、見惚れてしまう美しい姿だった。
『あっ』
次の瞬間、開ききったサボテンの花から一羽の鳥が飛び立った。その一羽に続いて、花弁と同じ真っ白な鳥が次々と羽ばたき始め、その光景は天に昇る綿毛にも花吹雪にも見えた。
『あれが私が手を加えた点だ。あの鳥は荒地のエネルギーを溜め込んだサボテンの種子でね。ああやって体内のエネルギーを放出できるようにしたんだ』
『何で鳥の姿をしてるんですか?』
『それはね、他の土地へエネルギーを移しても根本的な解決にはならないと思って何もない空に上げる事にしたからなんだ。空ならもう地震は起こらない』
『空……』
アァリは白い鳥の行き先を見上げた。このまま順調にいけば渡り鳥はあの小さな星にたどり着くだろう。
『あれ、どうやって浮いてるんですか?』
『地中の大地のエネルギーと反発するように調整した大地のエネルギーを込めてあるんだ。上空で一つの塊になったのは核にした岩の引力だよ』
レムゥドの詳細を省いた説明にアァリは舌を巻いた。彼をすごい魔法使いだとは思っていたが、ここまで超常的なものを見せられると改めて驚いてしまう。
同時に再認識した。やはり人間は彼と敵対などするべきではない。
すべての鳥が飛び立つと、サボテンはゆったりとその花弁を収め始めた。ひとまずは吸い込んだ分の荒地のエネルギーを放出し切ったのだろう。蕾に戻ったサボテンは再びその身に荒地のエネルギーを蓄え始めた。一体何度繰り返せばいいのかは見当もつかないが、荒地のエネルギーが空っぽになるまであのサボテンはこの行程をひたすらに繰り返してくれるのだ。
『あの星に溜まったエネルギーはどうするんですか? 無限に蓄えられるわけじゃないですよね?』
『大丈夫。考えてあるよ』
空はまだ明るいのでわかりづらいが、星の上半分が光を放ち始めた。光の正体は見た瞬間にわかった。あれは大地のエネルギーだ。光は胞子のように星を離れ、更に上空の、果ての無い空に向かって進み始めた。
『なんだかいつの間にかスケールの大きな話になってますね。ボク、森とその近くの村しか知らないですし、やってる事はレムゥドと人の仲を取り持とうってそれだけのはずだったのに』
『私もアァリを作っている時はこんな事になるなんて思ってもみなかったよ。徹夜で作業なんて久々だ』
『徹夜⁉︎』
アァリは自分でも驚くくらい大きな声を上げた。
『もしかして昨日ボクが倒れてからずっと頑張ってたんですか⁉︎』
『うん。サボテンの改良に浮遊術式の見直し、やる事はいっぱいあったから』
『食事は⁉︎』
『元々食べなくても大丈夫だから』
もーっ! とアァリはため息をついた。自分は飲まず食わずで作業していたのにアァリの朝食は用意する。そんな彼の不器用な親切さには呆れるしかない。
どうすればそんなに純粋になれるのか。ずる賢い生き方を身に付けずに済むのか。それはアァリにはきっと一生わからない——いやわからなかったのだ。
アァリは自嘲し、レムゥドの視線に気付いて微笑み直した。
『とりあえずお疲れ様です。疲れましたよね』
『まあね。でもまだ終わりじゃないから』
『?』
首を傾げるアァリにレムゥドは手を差し伸べた。
『収穫祭。行こうか』
『は、はい!』
偽りのない満面の笑みを浮かべたアァリはレムゥドの手を取ろうとして、その手を引っ込めた。
『どうしたの?』
『実はちょっといろいろあって、今のボクすごい汚いんです……』
『なんだそんなことか』
やれやれ、とぼやきながらレムゥドはアァリの小さな体を持ち上げて懐に抱きかかえた。
『わっ! だから汚いんですって! レムゥドの服も汚れちゃう!』
『どうでもいいよ。私としてはぼろぼろの君をこれ以上歩かせる方が嫌だ』
『それでも……こんな子どもみたいな抱かれ方……』
『居心地悪いかい?』
『……悪くないです』
抵抗を諦めたアァリは大人しくレムゥドの胸に頭を預けた。気付かれないように上目遣いで彼の横顔を眺める。
『レムゥド』
『なに?』
『まだ隠し持ってるサボテンがあるなら出してください。没収します』
『……アァリ、別に育ててるわけじゃなくてサンプルとして保管してるだけだから。危なくないから』
『ダメです』
えぇ……、とレムゥドの口から不満が漏れた。名残惜しそうに白いサボテンを一瞥してから、二人は荒地を後にした。
、、、
収穫祭の準備を終えた村人達は揃って森の方を見つめたまま言葉を失っていた。
収穫祭はもういつでも始められる。だがとても祭を楽しめるような空気ではない。
少し前にまた地面が揺れ出し、村には悲鳴が響いた。また建物が倒壊するのではないか、という不安から収穫祭の準備に参加していなかった村人も建物の外へと飛び出し、元々外で作業をしていた人々は、近くの者と固まって揺れが収まるのを必死に願った。
唐突に悲鳴とは違う絶叫が上げられた。誰かが指差したのは森の方角で、その指の先には空へと浮かび上がる土や岩があった。
その異様な光景から誰もが土くれの魔法使いを思い浮かべ、ついに動き出したと絶望したが、ミリアとロミルの二人だけは違った。
周りが空を見上げる中、二人は互いの顔を見合わせて頷いた。
確かに人間には成す術がない絶望的な状況だが、逃げる必要も諦める必要もない。
もうすぐあの少女がやって来る。それまで収穫祭は始まらないし、すべては終わらない。
そしてその時は来た。
ゆっくりとミリア達に近づいてくる何かに皆が息を呑む。それは成熟した牡牛よりも大きな体躯を持つ獣だった。猫背気味の姿勢を伸ばせばもっと巨大に見えるであろうそれは、人のように衣服を纏い二本の足で歩いていた。
懐に抱えられた知り合いの少女に気付かなければ、この場に立ってはいられなかった。少女の有無に関係なく逃げ出そうとしている者もいるはずだが、そのような足音は一切ない。恐怖で足が竦んでいるのだ。
それはミリアも例外ではない。あれだけ憎くて仕方なかった土くれの魔法使いが目の前にいるのに、あのどす黒い感情が理性に抑えられている。
でも今の自分を卑下したいとは思わなかった。もう無理に強がる必要などはないのだから。
ミリアは足を前に出した。後ろから何人かが呼び止める声が聞こえる。その中にロミルの声はない。
ついに彼我の距離は対峙と言える程まで近づいた。アァリが何かを呟くと、土くれの魔法使いは膝を着いて丁重にアァリを地面へと下ろした。その所作だけでアァリと土くれの魔法使いがいかに親密な関係なのかがわかった。
アァリの姿を見たミリアは心臓が止まるかと思った。満身創痍としか言いようがないほど少女は傷だらけで、左腕があるはずの箇所には何も見当たらなかった。
なのに何事もなかったかのように。にこにこと笑っているアァリを見ていると、とても耐えられなかった。
駆け寄ったミリアは膝を着いて思い切りアァリを抱きしめた。
「ごめんねアァリ……! ごめんね! 私が自分の事しか考えてなかったから……!」
目からは大粒の涙が流れ、みっともない声が喉の奥から出た。抱きしめたアァリの体からは古い油のにおいがした。
「こんな事になるなんて……、私また取り返しのつかない事をしちゃった……!」
「違いますミリアさん! ミリアさんは悪くないですし、腕は今日失くしたんです!」
アァリは必死にミリアを慰めたが彼女は声を上げて泣くのをやめてはくれなかった。
その姿は子どものようで、普段のミリアからは決して想像できないものだった。『だからなのかな、』と慮ったアァリは下手に慰めるのをやめて、彼女の涙が止まるの待った。
「——あっ、ごめん! 痛くなかった⁉︎」
「大丈夫ですよ」
ミリアが落ち着き、抱擁が解かれるタイミングでアァリは遠くのロミルに視線を送った。ミリアの号泣に茫然としていたロミルは我に帰ってミリアに寄り添った。
目尻に残った涙を拭ったミリアは、目は赤く腫れているが穏やかないつもの彼女だった。
ミリアはロミルに軽く礼を言うと、立ち上がってレムゥドに視線を向けた。
「あんたがレムゥドね。あんたにはいろいろと言いたい事があるの」
『?』
「あっ、ミリアさん待ってください。レムゥドは人の言葉はわからないんです。ボクが伝えますから」
「そうなの? じゃあお願いね」
アァリはミリアの話した内容を通訳してレムゥドに伝えた。もっともアァリとしては同じ言語をそのまま伝えている状態なので、感覚としては通訳というより伝言ゲームをしているのに近い。
「『なんですか?』だそうです」
今度はレムゥドの言葉をミリアに伝えた。アァリが伝えると怪訝そうにしていたミリアが頷いたので、やはりレムゥドの言葉も人には理解できないらしい。
ミリアはアァリを指差しながら強い口調で話した。
「あんたどういう教育してるの⁉︎ この子危なっかしくて見てられないのよ!」
「ミリアさん⁉︎」
「いいから。そのまんま伝えなさい」
「はい……」とアァリは渋々レムゥドに伝えた。そんな風に思われてたんだ、と肩を落としながらロミルの方をちらりと見ると彼は気まずそうに目を逸らした。
ミリアの言い分を伝えられたレムゥドはミリア達にも伝わるよう、こくりと頷いた。
『私もそう思う』
『レムゥド⁉︎』
「アァリ、何て?」
「待って! レムゥドとミリアさんが話す前にこれはボクがレムゥドと話さなきゃいけない!」
『アァリ、いいから伝えて』
『伝えられるわけないでしょ! なんでそんな共通認識があるのもわからないしなんだか二対一になりそうな気配だし!』
「アァリ、俺ももう観念して伝えた方がいいと思う」
「なっ、他人事だと思って!」
結局、アァリは余計な口は挟まない通訳機のポジションに落ち着いた。人と魔法使いを繋いでいるのには間違いないのだが、思っていたのとはだいぶ違う。
「——アメリアについて訊いていいかしら」
その名が出た瞬間、レムゥドを除いた全員の顔が強張った。空気の変化はレムゥドも感じ取ったらしく、余計な質問をアァリにしようとはしなかった。
「あの子はあなたが殺したの?」
彼女の何も濁さない問いに、アァリはレムゥドの代わりに答えようとしたが彼はそれを遮った。
『直接手を下してはいない。だけどアメリアの死は私に責任がある。申し訳ない』
「……謝って済むと思ってるの?」
険のある声はアァリが伝えるまでもなくレムゥドに突き刺さる。
『償いが必要ならば私は何でもする。人間との関わりを断っていたはずの私がまた中途半端に人間と関わってしまったのが原因だ』
「……」
ミリアは口をつぐんだ。見かねたアァリは口を挟まずにはいられず、声をかけた。
「アメリアはきっと地震を止めたかったんです。レムゥドの力が必要で、それで会いに来たんです」
「なんであの子がそんな事を……?」
「ミリアさん達を守るためです」
悲痛なものに変わっていくミリアの表情がアァリの胸を締め付けるが、途中でやめるわけにはいかなかった。
「どうやって調べたのかはわかりません。でも地震が危険だって気付いて、それをアメリアは一人で解決しようとしたんです。レムゥドもアメリアの力になろうとしたんですけれど、言葉が通じなかったので最低限の協力しかできなかったんです」
真実は誰にもわからず、アァリの説明も推理というよりもあくまで理想でしかない。アァリの大切な人達が手を取り合って生きていけるように整えた建前だ。
「みんな、誰かのために頑張っていただけで悪い人はいないんです。だから、」
許してあげて。ミリアお姉ちゃん。
ミリアは一瞬耳を疑ったが間違うはずがなかった。今の声は紛れもなく——
「……反則よ」
袖を目元に押し付けて涙が流れ出るのを止めようとするが止まらない。さっきあれだけ泣いたのに、この涙はいつから溜まっていたのだろう。
アメリアがあの日、闇の中に消えていったのはミリア達を守ろうとしたからだった。何故そんな真似をしたのかなんて、アァリに言われるまで考えもしなかった。
わがままで人見知りで気分屋で。自分が周りからどう思われているのか知っていたはずなのに、あの小さい体でとてつもなく大きなものを背負おうとした。
そこまでしてあの子が一体何を望んでいたのか。誰よりもあの子について理解していたはずなのに、あの子を取り巻く環境にばかり噛み付いて、今日まで気付けなかった。
「あんたに言われたら、怒ってる私がバカみたいじゃない」
ミリアの頬を再び涙が伝う。
彼女のすすり泣く姿は誰かを偲ぶようだった。
、、、
時刻が夕暮れに差し掛かった頃、収穫祭は開かれた。
アァリとレムゥドの二人は広場の端の方に座ってその様子を眺めていた。レムゥドの参加は認められたものの、さすがに祭の中心で楽しむわけにはいかないという余所者なりの配慮だった。
参加の許可を出したのはミリアが無理矢理連れてきたまとめ役で、いざとなったら武力を行使してレムゥドを撃退するつもりだったらしい彼は気の毒になるくらい萎縮していた。地震をレムゥドの仕業だと思い込んだ状態で先程の浮き上がる大地を見てしまい、すっかり戦意喪失してしまったらしい。
地震の恐怖はすでに去っており、そもそもレムゥドは地震など起こしていないのだが、アァリは通訳の立場を利用してわざとその辺りの情報は伏せた。
この相手にあまり下手に出ると、この先レムゥドがいいように使われてしまうのではないかと危惧しての判断だったが、少しパワーバランスが偏り過ぎてしまったかもしれない。
村人全員の前でまとめ役がレムゥドを受け入れた瞬間、村に蔓延していた排他主義は終わりを告げた。あとでロミルから聞いた話だが、このシチュエーションはミリアのせめてもの報復との事だった。
『賑やかですね』
『ああ。アァリも行ってもいいんだよ?』
『いいです。さすがに今日は疲れました』
本当は通訳の役目を放棄できないというのとレムゥドを一人きりにしてはおけないからだ。
レムゥドの存在は容認されたが、収穫祭が始まってから誰一人としてレムゥドに近づいては来なかった。例外として好奇心を優先させた子ども達は興味を示していたが、その親達が全力で我が子の未知との遭遇を阻んでいた。
話せばわかるのに、とアァリがもどかしさを募らせていると一人の男が二人に接近してきた。
「いやー! やっと話せるねアァリちゃん!」
誰だっけ? とアァリは頭を捻った。見た事はあるが名前が出てこない。一緒に仕事をした事があるなら名前は覚えているはずなのだが。
それにしてもアァリ『ちゃん』とはなんだろう? 隣のレムゥドも他と勝手が違う男が気になるようだ。
「えーと、どちらさまでしたっけ?」
「おっとまだ名乗ってなかったか! アレンだよアレン。覚えてね!」
「はあ……」
どうやらほぼ初対面という認識に誤りはないらしい。だとすると何故こんなに好意的なのかという疑問が生まれる。
「あの、なんでそんなにテンション高いんですか?」
「なんでって、今日はいろいろあったからそりゃ上がるよ! ロミルはいつの間にか大人の階段昇ってるし、ミリアは泣くし、本物の土くれの魔法使いが村に来るし、上がらない方が無茶だって!」
アァリはきょとんとしながら尋ねた。
「レムゥド——土くれの魔法使いが来たらテンション上がるんですか?」
「だって俺、土くれの魔法使い好きだし」
「え⁉︎ ほんとですか⁉︎ 聞きましたレムゥド⁉︎」
一気にはしゃぎ出したアァリを見てアレンはにこっと笑みを浮かべ、アァリの右手を掴んだ。
「もちろんアァリちゃんの事も好きだよ」
そのまま手慣れた仕草でアレンはアァリの手の甲に唇を触れさせた。
「なっ……」
「いやーひどいよね! アァリちゃんと話したいって言ってんのにロミルもミリアも全然紹介してくれないんだもん。っつーか仕事もわざと離れるように組んでんだぜあれ!」
アレンが何かをまくし立てるように話しているのはわかったがその内容は一切入ってこなかった。照れが半分、困惑が半分といった所で、不意に男にキスをされた事実に頭が混乱している。
「アァリちゃん聞いてる?」
「えっ? あ! あぁ……えっと、ちょっとお腹空いて集中できないみたいです。すみませんけど何か適当に持ってきてもらえませんか? レムゥドの分も」
「おっしゃ! 待ってて!」
一旦アレンを追い払うことに成功したアァリは安堵のため息をついた。すると隣から向けられる視線に気付いた。
『レムゥド? もしかして拗ねてます?』
『そんな事ないよ』
レムゥドの機嫌は料理を食べるとすぐに治った。
その食べっぷりとアレンが先陣を切ってくれたおかげで徐々にレムゥドと人との交流が増え始めた。
魔法使いというのは畏怖されながらもやはり興味をそそられる存在のようで、会話の内容もほとんどが魔法に関する質問だった。質問に真摯に答えるレムゥドに村人の緊張も次第に解け、人と魔法使いが和やかに談笑する姿はしっかりとアァリの脳裏に焼きついた。
『それにしても不思議な光景ですね』
レムゥドと人との交流が一旦落ち着いたタイミングでアァリは空の星を見上げて呟いた。
現在も荒地からは白い鳥が飛び立ち、鳥がたどり着いた星からも光の球が宇宙へと旅立っていた。その光景はまるで下から上へと流れる砂時計のようだった。
『宇宙に飛んでいった大地のエネルギーはどうなるんですかね』
『さぁて、あの中継をしている衛星のように新たな星になるのかもしれないね』
『それじゃあまるで……』
言いかけたアァリは自分の中で生まれた馬鹿げた推論を彼に話す事にした。机上の空論どころか脳内の妄想でしかない荒唐無稽な話を。
『レムゥド。ボクがいた世界ではそんなすごい事をする存在を神って呼ぶんです』
超常的な力を持ち、時に人に畏怖され、時に人に崇められる高次元の存在。
この世界には精神の概念が無い。
もし人と土人形の違いが精神の有無しかないなら。
土人形が『人』の『形』をした『土』ではなく、
『土』で『形』作った『人』なら。
レムゥドは紛れもなく生命を創り出した事になる。さらに彼は小規模だが星を一つ空に浮かべるという奇跡を起こしている。
精神の概念が無い世界で『神』のような抽象的な存在は一体どうなるのか。もしかすると人間や動物のように肉体を持って世界に顕現するのではないか。
『その神とやらは一体何をするの?』
『人の為に良い事をしたりまたその逆だったりです。人はその神の加護を受けられるように必死に拝んだり祈ったりするんです』
『人間とは切っても離せない関係か……』
『まあ、ボクの勝手な想像ですけどね』
深刻にならない内に切り上げたアァリは空に浮かぶ衛星のその先を見つめて呟いた。
『アメリアは天国に行けたんでしょうか?』
予想通り天国を知らなかったレムゥドに簡単に説明をすると、レムゥドは神妙な顔でオレンジ色の空を見上げた。
『わからないけど、アメリアは幸せだと思う』
『ボクもそう思います』
アァリが名前しか知らないが他人とは思えない少女の冥福を祈っていると、今日の立役者の一人のロミルが近づいてきた。その手には南瓜が一つ抱えられている。
「かぼちゃ持ってきたよ。こんなのでいい?」
「はい。ありがとうございます」
かぼちゃは片手では受け取れないのでとりあえず地面に置いてもらう。一番小さいものでいいと注文したのにロミルは実に立派な一玉を持ってきた。
「レムゥド。話すの遅くなっちゃったね」
アァリがかぼちゃを撫でていると、隣ではロミルが自己紹介をしながらレムゥドに握手を求めていた。レムゥドは迷う事なくその握手に応じて、決して小さくはないロミルの手が包み込まれた。
なるほど、とアァリは感心した。これなら言葉が通じなくともコミュニケーションを取る事ができる。
「それで、ロミルさんはミリアさんとキスしたんですか?」
アァリが唐突に質問してみるとロミルは吹き出して激しく咳き込んだ。どうやら自分の唾が気管に入ったらしい。あとキスという単語でアァリは何かを思い出しかけたが、探る前にまた記憶の底の方へと沈んでいった。
「はぁ、なんなの……、アァリはいつも急に変な事言い出すんだから……」
「なんかロミルさんが大人の階段昇ったって誰かが言ってたんでキスくらいしたのかなーって」
「してないよ……、そんな、」
そんな何なんですか? とロミルをからかっていると握手以来ほったらかされていたレムゥドが尋ねてきた。
『何の話をしてるの?』
『ロミルさんはミリアさんの事が好きなんですよ』
『そうか。私とアァリみたいだね』
『そうですねー』
「俺を放置して二人でいちゃつかないでよ」
食傷気味にため息をつくロミルを見ていたアァリはふと気になった。
「ボクらの会話ってロミルさんにはわからないんですよね? どういう風に聞こえてるんですか?」
「どういう……?」
ロミルは難しい顔で考え始めた。
「アァリは鈴? みたいな音がしてるかな。レムゥドはなんか『ごごご』って感じの音がしてる」
「……そんな感じなんですねボクらの会話って」
閑静な森の奥でひっそりと暮らしていると思っていたが、人からすると我が家はだいぶ賑やからしい。
ロミルは「ミリアの様子を見てくる」と言って祭りへと戻っていった。なんだかんだで二人の間に進展はあったようでアァリは安堵した。
では、とアァリはロミルに持ってきてもらったかぼちゃをレムゥドに渡して中をくり抜くように頼んだ。『何をするの?』という疑問には『いいから』となあなあで済ます。
中身をくり抜き終わったら今度は皮の部分をシャープなラインでくり抜いてもらう。くり抜く工程がすべて完了したら、あとは中の空洞に灯りを入れて完成だ。
『できた! やっぱりハロウィンはこれがないと』
『これは生首?』
『違いますよ。ジャック・オ・ランタンです』
へーっとレムゥドはずる賢そうな顔をしたかぼちゃと目を合わせた。
『確かにランタンだね』
『……あ、ほんとだ。ランタンなんだ』
『え?』
『すみません。詳しい事は知らないんです。ただハロウィンの定番の飾り付けってくらいで』
『……とりあえずいいデザインだと思うよ』
なんかフォローを入れられたような気がするが、別にそのデザインを考案したのはアァリではない。
『そろそろ帰りましょうか。暗くなってきましたし』
ハロウィンだからといってレムゥドを連れたまま『トリックオアトリート』と言ってまわるのはシャレにならなそうなので今回は遠慮し、一足先に帰宅する事にした。
かぼちゃのランタンを持ちながら、一声かける為にミリアとロミルを探していると、たまに短い悲鳴がアァリ達に向けて飛んできた。
『土くれの魔法使いが片腕の少女を抱え、その少女の腕にはぼんやりと光るかぼちゃの生首』という出立ちは中々のクオリティのコスプレに見えるらしい(オブラートに包んで言うとだが)。
その反応はロミルも同じで、アァリが見つけた時にはすでに唖然としていた。しかしすぐに正気に戻り、口元で指を一本立てて「静かに」というジェスチャーをした。見ると、ロミルの隣で彼の肩に頭を預けてミリアが眠っていた。
「最近あまり眠れてなかったみたいなんだ。それに今日はたくさん泣いてたし」
ミリアの寝顔は重い荷物を下ろしたかのように安らかであどけないものだった。
彼女の涙を最も近くで受け止めたアァリは彼女がどれだけ自分を追い詰めていたのか少しだけ感じ取れた気がした。
しかし感じられたのは本当に少しだけで、アァリの何倍も立派な彼女が背負っていたものをすべて理解するなどそれこそ彼女本人にしか出来ず、それがわかっていたからこそ彼女は一人で戦い続けていたのだ。
「告白はしたんですか?」
ミリアの為にもロミルには寄り添っていてほしいと思っての質問だったが、ロミルはミリアに振動が伝わらないように高速で手を振って否定した。
「しないんですか? 今日なんて絶好のシチュエーションなのに」
「うん、今日の主役は俺じゃないから」
小さく笑ったロミルからは妥協や心残りなどは一切感じず、本心で言っているのは疑いようもない。
そんなロミルにアァリは苦笑した。
「ほんとにロミルさんはロミルさんですね」
あの気丈なミリアがここまで心を許しているのならもはや恋人かどうかは重要ではないのかもしない。ロミルはそれでは満足しないかもしれないが、その先はきっと時間の問題だ。
「ミリアさんの友人として頼みます。ミリアさんの事よろしくお願いします」
アァリがぺこりとロミルに頭を下げるとロミルもしっかりと頷いた。
、、、
『けっこう派手に剥がしましたね』
薄暗い森の中をランタンで灯しながらアァリはレムゥドの魔法の爪痕を観察した。
衛星を作る為に森の地面から土や岩を浮かび上がらせたので、森の風景は少々残念な事になっていた。しかしこれはあれだけ大規模な魔法を突貫で使用した結果であって、彼を責める理由にはならない。
『すぐにまた直すから待ってね』
『うーん、どうせならちょっと整備しませんか? 森の入り口から館まで迷わず来られるように石を並べて道を作りましょうよ』
『道?』
レムゥドはアァリの提案に首を傾げた。
『私もアァリも今更迷ったりはしないよ』
『ボクらのためじゃないですよ。ミリアさんとか村の人が来た時のためです』
レムゥドはますます訝しげた。
『来るかな?』
『来ますよ。さっきも魔法についていろいろ訊かれたじゃないですか。みんなレムゥドを頼ってきますよ』
『人間がまた私の所にか……大丈夫かな』
『大丈夫ですよ』
アァリは即答した。しかし特に根拠があるわけではなかったので笑顔で誤魔化した。
半日ぶりの我が家は久しく帰ってなかったように懐かしく感じた。昨日までごく普通の日常をここで過ごしていたのに、その日々がとても遠くへ行ってしまったようだった。
『レムゥド、お風呂に入りたいです』
玄関で床に降ろしてもらったアァリは提案というより要求するようにレムゥドに頼んだ。油はとっくに乾いていたが油を被ったという事実を放置しているのももう限界だった。
『今用意するよ』
『そうじゃなくて』
アァリは目を伏せながらレムゥドのローブを引っ張った。
『左腕無いんです。一人で入れっていうんですか?』
脱衣所に入ると早速レムゥドがアァリの服を脱がせようとしてきたのでアァリは片手で抵抗した。
『お風呂に入るんでしょ?』
『そうです! でも早い!』
アァリは壁に掛けてあった帯を手に取るとそれをレムゥドに渡した。
『はい。これでボクに目隠ししてください』
『なんで?』
だって、とアァリは恥じらいながら、ばつが悪そうに口を開いた。
『恥ずかしいじゃないですか。……裸見るの』
ちらっと彼の顔を窺うと、彼はものすごい怪訝な顔をしていた。それはもうバカにされてるような、とにかく不可解そうな顔だった。
『自分のでも恥ずかしいもんは恥ずかしいんですよ! ほら早く!』
レムゥドの視線に耐えられなくなってきたアァリは背中を彼に向けて目隠しを促した。背後から唖然と表現するのにふさわしい間を感じる。
『いつもこうしてたの?』
『そうですけど?』
首だけを振り向いてしれっと答えると彼はようやく了承してくれた。
脱いだ服は油まみれなのでさすがに処分する事にした。全身が空気に触れる感覚がしてアァリは頬を紅潮する。長い髪の毛でかなりの面積が隠れているとはいえ、他人の前で裸になるのに慣れるわけがない。他人といっても傍にいるのはレムゥドなわけで、それで幾分マシになるかというと微妙なところだった。
ずっと体を洗い流したいと思っていたのに実際はリラックスどころか緊張で落ち着かず、体を洗ってくれているレムゥドの指示通りに腕を上げたり足を伸ばしたりしている様は操り人形のようだった。
足の指の間まで丁寧に洗ってくれる彼の手つきは絶妙な力加減で心地よかったが、ふと彼の純粋な優しさをいいように使っているのではないかという罪悪感も沸いた。これからこのような事が増えていくと想像するとどうしても気は沈んでしまう。
頭を洗ってもらっている時だった。『静かだね』と彼に言われて初めて口数が減っている事に気づいた。『そうですか?』と適当な相槌で時間を稼ぎ、何か話題を探したがアァリの頭の中はもう、一つの事でいっぱいだった。
『……ボクはあとどれくらいですか?』
彼の手が止まった。訊きたかった事だけを訊いた簡潔な質問はしっかりと彼に伝わった。
つまり、懸念はアァリの杞憂ではなかった。
『……わからない』
その後、彼は消え入りそうな声で『ごめん』と呟いた。わからないことへの謝罪だったのか、それとも別の意味だったのかアァリは尋ねなかった。
沈黙に耐えきれなくなった彼は再びアァリの髪を洗い出した。髪の泡をお湯で洗い流すとアァリの顔にもお湯が伝い、それをアァリは黙って受け入れた。
、、、
『アァリ』は土人形の中でもレムゥドが自信作と太鼓判を押すほどの出来だったが、まだ『土人形の製造』は完成した技術ではない。
体は足の方から動かなくなった。痛みや痺れといった前兆はなく、糸が切れたようにふっと感覚が無くなった。
足の指先が動かないだけならば多少転倒が増えるくらいで済んだが、足首を感じられなくなってからはもう駄目だった。体重を支えられず、重心を上手く地面に垂直に下ろせた時くらいしか立っていられない。膝まで動かなくなった時点でそれすら不可能になり、アァリは役立たずとなった。
活動時間も不安定なものとなり、短い時だと八時間ほどでまた眠り落ちた。
身動きが取れず、外界と乖離した体内時計で過ごすアァリに満足な家事などできるはずもなく、アァリはレムゥドに介護をされながら彼の側にいるだけの生活を余儀なくされた。
幸いだったのは、アァリの小さく軽い体はレムゥドには何の負担にもならなかったのと、土人形は大地のエネルギーによる代謝しか行わない事だった。
介護をされる度にしていた礼も次第に定型句のように考えなくても吐き出せるようになり、レムゥドの手を煩わせるよりも自分が何もできない置き物同然となっている現実に心が荒んでいった。レムゥドに当たることはなかったが、悶々とした不満を胸の中に留めながらレムゥドと接するのがアァリは辛かった。
ある時から自分を人形だと思うことで折り合いをつけた。人の尊厳を捨てるのはアァリには難しい事ではなく、むしろ人である事よりも決してアァリを見捨てないレムゥドに固執する方が心が落ち着いた。
そして——
、、、
腰の感覚が無くなりアァリは自力で起き上がる事が出来なくなった。それでもレムゥドはアァリを連れて生活し、アァリの視界から外れる事はなかった。
しかし右腕と首から上しか動かせなくなった時、アァリとレムゥドは示し合わせたかのように悟った。
『あっという間でしたね』
自室のベッドの上でアァリは爽やかに評した。寝たきりの状態だが枕を積み重ねてできた山に体を預けているので上体は起きている。
時刻は夕暮れで部屋の中にはすでに明かりが灯っていて、奇しくもアァリが目覚めたあの時の光景とまったく一緒だった。
『そうだね』とレムゥドは短く相槌を打った。探るまでもなく元気がない。
アァリはそんなレムゥドに何と言葉をかければいいのかわからなかった。アァリ自身、他人を看取った事も他人に看取られた事もないのだから。
——ここは終点だ。アァリは悩むのをやめた。
決まった正解や不正解はない。レムゥドが待っているのはアァリの言葉で、それはアァリにしか話せない。
『ねえ、レムゥド。そういえばボクの話はしてませんでしたよね?』
『アァリの話? 記憶が無いんじゃ……』
『ごめんなさい。だいぶ前からもう全部思い出してたんです。それでちょっと話しづらかったんです。ボクがなんでこの世界に来たのかとか』
アァリはおどけたように笑ったあと、レムゥドを真っ直ぐに見つめた。
『ボク、自殺したんです』
レムゥドの動きが止まった。はにかみながら言うなんて我ながら悪趣味だとアァリは思った。
『飛び降りたのか車に轢かれたのか電車だったのか……詳しい事は覚えてないですけどボクは自らの意思で自分の命を絶ったんです』
『……どうして?』
『やっぱり気になりますよね』
予想通りの展開だったがアァリは言い渋った。突かれるとやはり痛いが今はデリカシーなどと言っている場合ではない。
『——何の為に生きてるのかわからなくなったんです。人に嫌われたくなくて人に好かれる自分を演じて。人の顔色ばっかり窺って人の機嫌ばかりとって。ボクはそんな風に生きていたんです。すごい疲れるんですよ? 他の人の言葉にいちいち敏感になっちゃうし』
レムゥドは口を挟まずに黙って聞いていた。その真摯な眼差しに胸が痛んだ。
『でも大人になったらこんな事当たり前だって言われて耐える事にしたんです。ネットにも書いてましたし、こうやって自分を折って他人を尊重して人は成長するものだと思ってたんです』
アァリは話しながら自分から感情が消えていくのを感じた。なんとか感情を込めようとしても、どんな感情が必要なのかがわからなかった。
『でもやっぱり辛くて。だって周りが知っているボクは体良くしてる外面のボクであって本当のボクじゃないんですよ。たまに自分らしくしたらみんな嫌な顔するんです。もうみんなが知ってるのはボクじゃないボクで、求めてるのも文句も言わない真面目なボクで』
そうしたらもう——バカらしかった。
世界に存在する為には自分を殺して、周りにとって都合の良い人格で構成した『ボク』に徹しなくてはいけない。
「自分らしくしていい。自分の意見を持ちなさい」
アァリを説く為に投げかけられた言葉はアァリのそれまでの努力を盛大に皮肉った。
それが出来れば苦労はしていないと吐き捨てる事しかアァリは出来ず、その理想論を実現させる術は誰も教えてくれなかった。
『生きててもこの先ずっとこうなんだろうなって思ったんです。ボクはこの世界には生きてなくて、ボクがしてきた努力も報われるような事じゃない。だから——もういいやって』
そうして気づいたらこのベッドの上にいた。初めは何が起こったのかわからずに混乱したが、異世界に来たとわかった瞬間、世界にアァリを知っている者が誰もいない事に安堵した。
『……それで』
『ボク、レムゥドに会えて本当によかったです!』
何かを言いかけたレムゥドに被せるようにアァリは思いっきり笑顔を浮かべた。
『レムゥドは家事は溜まってきたらたまにやるくらいだし仕事人間みたいなところあるし物知りだけどなんか常識足りないし、放っておけないからつい口出ししたくなるんですけど、でもぜんぜん怒ったりはしなくて逆に褒めてくれることもあって』
アァリは右手でシーツを握りしめて耐えようとしたが、上がった口角の横を涙が流れすぎた。
『本当に優しくて……居心地よくて……ずっと居たかったのに……』
唇がわなわなと震えて思うように言葉が出ないアァリの頭をレムゥドは撫で始めた。どこで知ったのか彼はアァリの機嫌を取ろうとする時に必ずこうして頭を撫でてくる。
以前から不思議だった。子ども扱いは快く思わないはずの自分が、どうして頭を撫でられる事には寛容を通り越して多幸感に包まれすらするのか。
でも、本当は押し殺していただけで、そんなのは考えなくてもわかっていた。
アァリはレムゥドの手を掴んで頭から下ろし、右手を彼へと伸ばしながら大きく広げる。レムゥドは迷うことなくアァリの体を引き寄せて抱き締めた。
アァリは唯一残った右腕を畳んで完全にレムゥドの腕の中に収まった。
『アァリって意外と甘えん坊だよね』
『別にいいじゃないですか。ずっと我慢してたんですから』
『そっか。ならもう我慢しなくていいよ』
その言葉が最後の堰を取り払った。アァリは顔をレムゥドへとうずめ、みっともない声を出して泣いた。
『——ずっと、ずっとこうして温かい所で目一杯泣きたかった……』
『君も一人だったんだね。一人でずっと頑張るのは疲れただろう』
『……だから、やっと見つけた居場所なのに……離れたくない。ずっと一緒に居たい! 死にたくない!』
アァリはすがるようにレムゥドの顔を見上げた。とても人前には出られないような顔を彼に晒しながら訴える。
『レムゥド、死んだらどうなるんですか? 精神なんてものが無いこの世界で死んだらボクの魂は一体どこに行くんですか? 教えてください、一度自分の命を捨てたボクが天国にいけないのはわかってますからせめてどうなるのかだけでも教えてください……』
一度は死を望んだのに今は死ぬのがたまらなく怖い。あの時とは違って生きたいと思えるようになったのに、何故いつも世界は自分を裏切るのか。
『これからなのに……、レムゥドと人の間にあった壁が無くなってやっと歩み寄り始めたのに。ボクがいないと言葉が通じないっていうのに、このまま死ねるわけないじゃないですか』
今までとこれからへの不安をアァリはレムゥドへぶつけた。理不尽な八つ当たりを受けながらもレムゥドは優しく、力強くアァリを抱き締めた。
「アァリ、大丈夫だよ」
聴き慣れたはずの、しかしどこかたどたどしい声にアァリの嗚咽が止まった。疑うように彼へと耳を傾けると彼はもう一度同じ言葉を繰り返した。
『今のって……』
『ミリア達に教えてもらってるんだ。まだあれくらいしか話せないけどね。聞き取るだけならだいぶ出来るようになってきたんだ。すごいでしょ?』
『——ははっ、あははは!』
アァリは堪え切れずに笑い出した。
『発音おかしかった?』
『違うんです。なんか拍子抜けしたというか……そっか、簡単なことだったんですね。ボクが間に入らなくてもレムゥドが人の言葉を覚えればそれで済む話だったんだ……』
レムゥドと人の架け橋になることが自分に与えられた使命だと思い込んでいたが、結局それはこの世界での自分の役割を見い出したくて大袈裟にしていただけであり、他の可能性だって確かにあったはずなのだ。ただアァリは考えようとしなかっただけ。だからこんな簡単な事にも気付かなかった。
なんにせよ心残りが一つ消えた事でアァリの気持ちはだいぶ軽くなっていた。レムゥドと人の交流は自分が言い出した事であり、それを途上で投げ出すのは無責任だと特に気にしていた。
あとは——、
『死んだらどうなるか、だね』
アァリはレムゥドを見つめながら小さく頷いた。
『アァリはどうしたいの?』
『どうって、そういう問題ですか?』
『大事なことさ』
アァリは真剣な表情で考えた。しかしそれは考えるまでもない事だった。
『またここに戻りたいです。レムゥドと一緒に居たいしミリアさんとロミルさんにも会いたいです』
『ならそうするといい。おそらく君の魂はどこへも行かない。だから何としてでも戻ってくるんだ』
レムゥドのアドバイスにアァリは不満そうに眉をひそめる。
『そんな気合いでどうにかしろみたいなこと言われてもどうすればいいかわかんないです。根拠もないし』
『アァリはこの世界に来る前に私と会えると思っていたかい?』
『いえ……』
『私も会えるとは思っていなかった。でもこうして会えた。最初から私達の出会いは偶然なんだ。だからきっと再開も偶然のようなものになる。理論上は可能性がゼロでも私達ならあり得る話なんだ』
なんですかそれ、とアァリは苦笑した。理論などと真面目な話に聞こえる単語を使っているが言っていることは要するに、
『私もまたアァリに会いたい』
だから戻って来てくれ。それだけだ。
『わかりました』
アァリは彼の願望を詰め合わせただけの理屈に了承した。そして部屋の灯りを目線で指し示した。
『ボク、あの灯り好きなんです。見てると落ち着くので眠る前にただ見つめてたりとかしてて。だからあの灯りを点けておいてください。それを目印にします』
アァリは狭まってきた視界に力を込めてレムゥドに誓った。
必ず帰ってきます。ボクが帰る場所はここだけですから。
ちゃんと最後まで言い終えたのかもわからぬまま、アァリはレムゥドの胸に頭を預けた。
もう目が開かない。最後に何て言おうか。
ありがとう? おやすみ? それとも、また会いましょう? 全部言いたいけど時間がない。それに彼の名前も呼びたいし、彼に名前も呼ばれたい。
彼とはお互いに名付け親なんて変わった関係だった。それだけじゃなく普段の生活でもお互いに相手を子ども扱いして親ぶったりして、結局ボクらの事をなんて表現すればいいんだろう。
恋人……になったのかな。家族には間違いないかな。今度直接訊いてみよう。
……今度……今度か。一体いつになるんだろ。
ああ、早く帰りたいなぁ。
、、、
首都から外れたある辺境の地には人間と魔法使いが共存する珍しい村があるという。
魔法使いは独自の言語を操り、人間とはせいぜい打算的な関わりしか持たない、人とは相容れない存在というのが通例だが、この村に出入りする魔法使いは人の言語を話し、何の見返りも求めずに村の住人の為に魔法を使うという。
この噂を聞きつけた帝国軍がその魔法使いの協力を求めて村を訪れたところ、村人の猛烈な反対にあったという記録が残されていることから、村と魔法使いの関係が力の優劣で定められた一方的なものではないのが窺える。
この村にはある特徴的な行事があり、それは秋の収穫祭の時期に行われる。
村ではその行事を独自の名称で呼んでいるが内容は他の村の収穫祭と変わらない。
ただ異様な点が一つあり、収穫した野菜で作られた魔物を模した装飾が村中に並ぶのだ。その装飾はどれも沈む直前の日のような光を放ち、その灯りに村が包まれる様子はまるで魔物の巣窟のようだと言われている。前述の魔法使いの噂もこの異様な収穫祭を見かけた旅人が話を広めた事で露呈したものである。
なお、その村の上空には正体不明の浮遊物が確認されており、この村に出入りする魔法使いの仕業と思われるが詳細は不明である。
、、、
そこはただ暗いだけの闇の中だった。
見えていないのか、暗闇を見ているだけなのかもわからない闇黒。音もにおいもなく、どこかへ進んでいる感覚はあるが地面を踏む足の感覚はない。そもそもこの意識のようなものがどこに存在して、誰のものなのかもわからない。
わからない、とはなんだ? と思った途端にどこかへ進んでいた感覚もなくなった。
立ち止まったことへの戸惑いはなかった。どうせどこまで行ってもあるのは闇だけで、自分は永久に孤独だ。ならどこへ行こうと、どこで立ち止まろうと変わらず、いずれはこの闇に溶けて混ざり合っていく。それが運命だと思えた。
『 』
ふと、懐かしさを感じた。
それが音でもなくにおいでも味でもない、目で捉えるものだとわかった瞬間、闇に小さな光が灯った。
光が見えたら瞬きをする瞼を感じた。
光に向かっているとわかったら足を感じた。
光の正体がわかると感情を感じた。
必死に光を追い求めている内に少しずつ理解した。自分が徐々に光に近づいているのではなく、自分の事を思い出す度に光が近づいてきている。
足を止めて瞼を閉じる。
闇に溶けてしまうような空っぽの自分を思い出す必要はない。それどころか思い出すのは自分ではない。
思い出すのは空想の世界で見つけた夢のような、自分を待ってくれている居場所。孤独ではない証明。
あとはただ、目を開けるだけだった。




