鏡の世界のアァリ
人の近寄らない深き森、その奥には土くれの魔法使いの住む館がある。その館のキッチンから上機嫌な鼻歌が流れてきていた。
館の家事全般を担当している土人形のアァリは浮かれ気分のまま夕食の支度をしていた。
『気合入ってるねアァリ』
この館の主人であるレムゥドは鼻歌と食欲を刺激する香りに誘われてキッチンを覗いた。
『はい! お祝いですから! 乾杯とかもしたいですね、ちなみにレムゥドはお酒飲むんですか?』
『飲んだことないけどたぶん飲まないよ。酔わないからね。楽しそうに飲んでいるのを見ると興味が湧いてくるんだけど』
『あっわかります。ボクも未成年なので飲めませんけどいつか飲みたいなって思ってたんです』
そうなんだ、と相槌を打ったレムゥドは少しだけ考える素振りを見せた。
『飲んでみる?』
『えっ? いやだから未成年なので飲めないんです』
『アァリは土人形だから年齢も何もないよ。それにここではアァリの世界のルールは関係ない』
一理あるかも。とアァリは思った。
しかし未成年の飲酒や喫煙に厳粛な社会で育ったアァリは『じゃあ飲みます』とはならない。間違った大人の階段へと誘われているような気分は杞憂なのか。それとも勧誘をしているのはレムゥドだから安全と思っていいのか。
『……土人形って酔っ払いますか?』
『たぶん……』
『たぶん?』
『……うん』
『いや、うんじゃなくて。たぶんなんですか? その後何が続くんですか?』
レムゥドは白々しく黙り込んだ。この様子だと酔うのだろう。となると気になるのは土人形がどうやって酔っ払うのかだ。
人を模して作られた土人形だがこの体に血は通っていない。土人形は大地のエネルギーさえあれば酸素や栄養素を必要とせずに活動ができるため循環器官が不要なのだろう。
そんな体がどうやってアルコールを脳へと運ぶのか。土で出来ているから体に染み込んでいくなんて馬鹿げた理屈ではあるまい。
アァリは以前、有害な大地のエネルギーを取り込んで体調を崩したことがある。それを踏まえるとおそらくアルコールで酔うのではなく、特殊な大地のエネルギーで酔ってしまうのだろう。
アァリは顔に手を添えた考えるポーズのまま、ちらりとレムゥドを見た。理由は不明だが彼はアァリを酔わせたさそうな顔をしている。
『今回は遠慮しておきます。酔った自分が何をしでかすのかわからなくて怖いですし』
『そんなの酔いが覚めた後にどうにかすればいいじゃないか』
『記憶が飛んじゃうタイプだったらどうするんですか。覚えてなかったら後始末も何もないですよ』
露骨に残念そうなレムゥドを尻目にアァリは料理の盛り付けに入った。
自分が実は笑い上戸だろうと下戸だろうとそんなものは問題ではない。
ただ、酩酊状態で喉の奥に飲み込んだ本音の封を解いてしまうのはまずかった。
『かんぱーい!』
『乾杯』
アァリとレムゥドはどこからか出てきたシャンパングラスを重ねた。結局、ドリンクは普通のりんごジュースをレムゥドが用意した。さっきの話の後ならそこはぶどうジュースになりそうなものだが違うらしい。
『森の修復お疲れさまでした&おめでとうございます! 今日はお祝いです!』
『ありがとう。これは鶏肉を揚げたの?』
『そうです。フライドチキンっていう料理です』
『そのままだね』
その隣の料理はフライドポテトだと伝えるとレムゥドはまったく同じ感想を繰り返した。
今夜はとある侵略者との抗戦によって荒れた森の修復完了のお祝いだった。パーティに相応しい料理ということでフライドチキンとフライドポテト、それとシャンパン(りんごジュース)が並んだテーブルはまるでクリスマスのようだった。
『森は完全に戻ったんですか?』
尋ねながらアァリは濃いめに味付けをしたチキンをりんごジュースで流し込んだ。塩分を口全体で感じるこの背徳感が贅沢をしていると暗示させてくれる。お世辞にも健康には良くない味付けだが、今宵は腹ではなく心を満たすのが目的なので目を瞑るべきだ。
『前にも言ったけどすべてが元通りになったわけじゃない。あくまで荒れる前の環境に戻したんだ。全体を見れば以前と変わらないように見えるけど、そこに生えている草や木は別の個体だ』
『……そうですよね。時間を巻き戻したわけじゃないですもんね』
傷は癒えたし跡も消した。しかし荒らされたという事実は忌々しく刻まれたままだ。その因果は『魔法』というイレギュラーな力をもってしてもどうすることもできない。
『あの、レムゥドは魔法で森に手を加えるの、本当によかったんですか?』
アァリはレムゥドを慮って恐る恐る尋ねた。
レムゥドは今までこの森には観測者として関わってきたはずで、先の侵略にもギリギリまで静観するつもりでいた。ありのままの環境を愛していた彼が自ら、しかも『魔法』という手段で森に手を加えることが不本意でないはずがない。
レムゥドはスナック菓子を食べているかのように動かしていた手を止めた。
『出来るなら避けたかった。でもあれだけの被害を放っておくことも出来なかった。それだけさ。アァリの気にすることじゃない。ここは私の森で私には管理人としての責任がある。もう一度言うけどそれだけなんだ』
『……聞こえてますから二回言わなくていいですよ』
アァリはぎこちない笑顔を浮かべた。
あの日、傷を刻まれたのは森だけではなかった。アァリに最も身近で大切な人にも刻まれていたのに今日までそのことに気づけなかった自分が情けなかった。
『動物たちはどうなりました? 少しは戻ってきました?』
『それが思ってたよりあっさりと戻ってきたんだ』
喜ばしい結果だというのに何故かレムゥドの声は怪訝なものだった。
『良かったじゃないですか。レムゥドの作戦が上手くいったんでしょ?』
『それが私はまだ何もしていないんだよ。それに戻ってきた動物達は新しくなった森をまるで警戒していない。動物というのはだいたい臆病なはずなんだけど』
『それは元の住処に一刻も早く戻りたかったからじゃないですか? やっと戻れて安心してるんですよ』
『そうかなぁ……』
まだレムゥドの溜飲は下がらないようで、生物の研究者としてはもっと決定的な理由が欲しいのだろう。
あっそうだ、とレムゥドは何かを思い出した。
『アァリに言っておかなくちゃいけないんだった』
『なんですか?』
『出来る限り森を元の状態に戻したつもりなんだけど魔法を使いすぎたせいか妙な変化が起こってね。何故か泉が出現したんだ』
『泉? 湧き出たんですか?』
『わからない。気付いたら出来てたんだ』
『それ一番怖いやつじゃないですか……』
アァリが肩をすくめるとレムゥドはうんうんと頷いた。
『わかってるなら大丈夫かな。普通の泉じゃないことは確かだから私が調べるまで近づいちゃいけないよ。いいね?』
レムゥドは人差し指をぴんと立て、軽い調子で釘を刺した。『わかってますよ』とアァリは苦笑しながら返事をし、ジュースの入ったグラスを傾けた。
、、、
『なんて言われると気になっちゃうよね』
昨晩言われたことを思い出しながらアァリは泉を求めて森の中を散策していた。
こちらの世界の生活にも慣れてきたアァリだが、まだまだ異世界への興味は旺盛だった。
『まあ、ちょっと見るだけだし』
なにも接触しようとしているわけではない。あくまで動物園で動物を眺める時のように檻の外から、いわゆる野次馬の距離を保てば問題ないはずだ。それに探しているのは魔物ではなく泉であり襲われる危険はない。
アァリはきょろきょろと修復された森を見渡した。
一見、何事もなかったように見えるがよく見るとその変化が目についた。森の中を歩く際に目印にしていた木が見当たらなかったり、葉の間から差し込む光の量が変わったりしている。我が家の庭のような場所なのに他人の敷地に入り込んでしまったかのような違和感を感じてしまう。
アァリはその場にしゃがみこんで地面に手をついた。なんとなくこの辺りの大地のエネルギーも調べてみようと思った。
土人形のアァリは手で触れた対象が内包する大地のエネルギーを感じとることができる。
大地のエネルギーとはその名の通り主に大地に存在し、特に森を有するこの土地は他よりも大地のエネルギーが多い。
しかしいわゆるパワースポットであるはずのこの土地の大地のエネルギーは明らかに減少していた。レムゥドが森の修復のために魔法を多用していたせいだろうか。
ならば、とアァリはより意識を集中させて探索に入った。修復の魔法で大地のエネルギーが減ったとすれば、大地のエネルギーが以前と変わりない場所は元の環境が現存しているはずだ。
(——⁉︎)
荒々しい棘のような大地のエネルギーに触れたアァリは反射的に地面から手を剥がした。
今のは何だ、と思うと同時にこの世界に来た頃にレムゥドが言っていたことを思い出した。森の外れには荒れた大地のエネルギーがあり、その影響で最近地殻変動が起きたらしい。今触れたのは間違いなくその大地のエネルギーだ。
気のせいか地面に触れていた手が痺れていた。とっさにリンクを切ったのだが、荒れた大地のエネルギー——荒地のエネルギーに触れていたのか。それとも防衛本能を刺激されてびびって震えているだけか。
不安定ではあるが荒地のエネルギーは大地から飛び出しそうなほど膨大だった。あそこは被害の無いエリアだったのだろう。
『もしかして……』
推測だが森の動物達は森へ侵略が行われていた時、あの荒れた土地に避難していたのではないか。
しかし荒地のエネルギーが脈打つあの土地は決して安息の地ではなかった。一秒でも早く離れたいが元いた場所へ戻るわけにはいかない。このジレンマは動物達にかなりのストレスを与えたはずだ。
だからレムゥドが森を修復し、安全を感じとった動物達は一目散に森へと戻ってきた。生まれ変わった森への警戒心が無かったのはより強い警戒心から解放されたからだ。
『辻褄は合う、よね……』
謎は解けたが気分は晴れない。荒地のエネルギーという新たな脅威を思い出してしまったからか。
魔物よりもタチが悪いのだろうか。それともレムゥドが何も言ってこないということは放っておいても問題ない脅威なのか。
一人で考えても仕方ないとアァリはとりあえず問題の土地についてはきっぱり忘れ、泉探しを再開した。
特に当てがあるわけでもないので気分で行く先を決めてアァリはうろうろしていた。一向に泉を見つけられずさすがに集中力も切れてくる。いつからか自分の容姿について考えながらとぼとぼと歩き回っていた。
土気色の肌に真っ白な長髪。先日この姿が差別の対象になっている事実をアァリは偶然知った。それまでアァリの耳に届かなかったのはミリアが配慮してくれていたからだと思われる。
ショックではなかったと言えば嘘になる。それは単純に言葉のナイフに傷ついたからではなく、アァリと村人との間に『偏見』という障害がある現実を実感させられたからだ。
身体的特徴の差別は理屈ではなく感覚から来る本能的な差別だ。明確な理由がなくても『なんとなく気持ち悪い』というだけで成立してしまう。アァリも虫などを見て同じ気持ちを抱くこともあるため仕方ないと思えてしまう部分もあるが、その理不尽な性質はどうしてもやるせない。
しかしこの偏見と戦おうとしているミリアの事を考えると弱音など吐いていられなかった。
『そんなに人と違うかな?』
アァリは鏡代わりにと近くにあった水面を覗き込んだ。
『そういえばじっくりと自分の顔を見るのは初めてかも。……ん? 水?』
アァリは恐る恐る顔を上げた。そこにはこれまでにはなかった泉があった。
大きさは学校の教室くらいか。水は透明ではなく青色で底が見えないため深さがわからない。緑の中にこれだけの大きさの水色があればすぐに気づきそうなものだが、アァリは覗き込むほど接近するまで発見することが出来なかった。異様な点はそれくらいで、むしろこの森に相応しい綺麗な泉だ。
しばらくマイナスイオン(?)を堪能したアァリは改めて自分の顔を覗き込んだ。他の人と比べれば浮いているかもしれないが、それでもこの姿は人にしか見えないはずだ。
でもやっぱり警戒はされるかもしれない。こんな表情の読めない顔をしていては無理もないだろう。ぎこちないどころか仮面を被っているようにさえ見える。
というか実際に被っている。
『……』
アァリが右手で頬を触ると同じように水面のアァリも仮面を触った。右手の感覚は柔らかい皮膚に触れていて、仮面のようなものはない。今度は左手で触れてみるがやはり同じ結果だった。
何度見直しても水面に映るアァリは『左手』で仮面に触っている。
『……間違ってるよ』
アァリが指摘すると、向こうは何事もなかったように左手を降ろして右手で仮面に触れた。
なんだろうこれ?
フリーズしかけた頭をどうにか動かしていると水面から伸びた手がそのままアァリを泉へと引きずり込んだ。
、、、
散歩に出かけたアァリを見送った後、レムゥドは書斎の中で小さく唸った。
日記を書こうとしたものの一向に筆が進まない。淹れたコーヒーも飲み干してしまった。書きたいことは山程ある。有りすぎて取捨選択が困難なほどだ。
あの子と暮らすようになってからずっとこんな調子だ。レムゥドは後ろを振り返った。後ろにはアァリと一緒に整理したこれまでの日記が陳列されている。その量は数日程度では読み切れるようなものではない。
感慨深い、というよりこれほど永い時間を一人で過ごしていたことが今では不思議でならない。あそこの日記を書いたのはほんの少し前のはずなのに、もう遠い過去のように記憶はぼやけている。
レムゥドは再び白紙の日記と向き合った。
ペンを持ってみるがやはり書けない。それどころかペンを持つ手がわずかに震えていた。
今まで半信半疑だったがもう間違いない。あの子との会話を思い出すだけで心が躍る。一人ではない生活に幸せを感じていた。アァリが人間との交流を促してくる理由も今ならわかる気がした。
充実した日常だがレムゥドには一つ懸念があった。
それはアァリが同じくこの生活に満足しているのかということだ。
普段から表情は豊かでいろいろなことで忙しそうにしているあの子だが何か本音を隠している、レムゥドはそう思えて仕方なかった。昨晩は酔わせれば本音を聞けるかと思ったが、強引すぎたのか警戒されてしまった。
アァリ自身が外へ漏らさないように鍵をかけたのなら無理に聞き出すつもりはない。ただその鍵が解かれるまで待てばいい。それがいつになるかはわからないがこんな生活はいくら続けていても飽きは来ない。
ぱたぱたぱたっと廊下の方から足音が聞こえてきてレムゥドは訝しげに扉の方を見つめた。
足音の軽さからするにアァリのものだが、あの子は基本的には身を潜めているかのように足音は殺して歩く。
レムゥドは僅かに身構えた。アァリではないとすれば部外者が侵入した可能性が浮上してくる。
『レムゥドー?』
間違えようのない声を聞いてレムゥドは体の緊張を解いた。確認の為に名前を呼ぶと足音は書斎の前で止まった。
次の瞬間、ばんっ! と勢いよく扉が開かれ、愛しの土人形がレムゥドの懐へと飛び込んできた。
『レムゥド! えへへ!』
無邪気に抱きついてくるアァリを不思議に思いつつ、ちょうどいい位置にあったのでレムゥドはアァリの頭を撫でた。撫でられてまどろんだ顔がまた愛らしいが、この様子は一体どうしたことか。
レムゥドは両手で脇の下を持ってアァリを抱え上げた。宙に浮いたアァリはにこにこしながら首を傾げている。
『アァリ、酔ってる?』
『ぜんぜん』
アァリは大きく首を振って否定した。顔の動きに遅れて長い髪がなびいた。
レムゥドはますます訳がわからなくなった。目の前にいるのは間違いなくアァリだ。しかしこんな仕草や口調は初めてみる。今朝までは普通だったのにこの数時間で何か心境に変化があったのか。
『ねえ、レムゥド。そろそろ降ろして?』
『ああ、ごめんごめん』
床に降ろそうとすると『そっちじゃなくて』とアァリはぶうたれた。どうやら膝の上がご所望のようだ。
レムゥドの膝に腰掛けたアァリはそのままレムゥドによりかかった。警戒などまったくしておらず、無防備を見せつけるようにアァリはレムゥドに身を委ねていた。
『レムゥドー、一緒に寝よ?』
『まだ午前中だし早すぎるよ。夜まで待って』
『わかってるよ。それくらい』
アァリは少し口を尖らせた。こうして子供らしく反抗して自尊心を守ろうとするのも珍しい。
腑に落ちないことが多いがこの子が自分に素直になったのはレムゥドの望んでいたことだ。アァリが甘えたがっているのならレムゥドはそれに応える。
『レムゥドの毛の中ってどうなってるの?』
しかしすべてに応えられるわけではない。
『私もわからない。他の動物とは違うみたいなんだけど』
『ふーん。レムゥドって魔法使いっていうより森の主って感じだよね』
森の主。たしかにそのような立場にいるので正しいが、この場合は単に見た目から連想しただけだろう。
『でも何で急に?』
『前から思ってたよ。大きいカピバラみたいだなって』
『……そうだったんだ』
自分なりに身なりは整えているつもりだったレムゥドは少しショックを受けた。動物に懐かれることが多いのも仲間だと思われていたからなのか。あとカピバラとはなんだ。
『レムゥドに前から訊いておきたかったんだけど』
レムゥドの傷心も気にせずにアァリは次の質問の前置きをした。今日のアァリは素直というより率直でまるで猪のようだった。
『荒地のエネルギーは放っておくの?』
『荒地?』
一瞬、何のことかと悩んだがすぐに地殻変動の起きた土地のことを言っていると気づいた。
『特にどうもしないつもりだけど、どうして?』
『だってなんか危なそうだし……動物たちだってあそこから逃げてきてるんだよ? たぶん』
『逃げて……なるほど』
確かにレムゥドが何もせずとも動物達が森に戻ってきた理屈としてあり得ないわけではない。褒美にとレムゥドはアァリの頭を撫でた。
『でもやっぱりどうもしないかな。あそこは元々何も無い場所だしこの家からも遠い。近づこうとしなければ危険はないよ』
『ほんとにそうかなぁ?』
納得ができないアァリは疑うように食い下がった。
この辺は素直になったわけではないようだ。心配性な所は以前からあったので根本的な性格は変わっていないのか。
本当に性格が変わっただけか。
レムゥドは何らかの違和感を覚えた。無自覚の偏見を持ってしまっているような、何か初歩的なミスをしている胸騒ぎがした。
『まっ、いっか』
マイペースにアァリはレムゥドの膝からぴょんっと飛び降りると扉へかけていった。書斎から退出する間際、ドアノブに手をかけたままレムゥドの方を振り返った。
『レムゥドは人間が嫌い?』
レムゥドが答える間もなくアァリはレムゥドの前からいなくなった。
嵐のように気の向くまま振る舞った時間は最後の最後に一時停止し、気がつくと過ぎ去っていた。
アァリの変化について考えようとしたレムゥドの頭の中では関係のない最後に放られた質問が繰り返されていて、まったく手につかない日記はまるで今の状況を表しているようだった。
、、、
一仕事を終えて休憩に入ったロミルは額の汗を拭った。最近は気温もだいぶ下がり、働きやすくはなっているがそれでもまだまだ暑いことに変わりはない。
夜はもう冷えるんだけどな、と呟いたロミルは去年も同じ感想を思ったような気がした。ということはもうじきアレがあるのか。
体から力を抜いてぼんやりしていると背後から何者かの足音がした。
「あら、休憩中?」
「マリア!」
「ミリアよ」
即座にミリアはロミルの言い間違えを訂正した。
「手が空いたならこっちの仕事手伝ってくれる? なんか一人体調悪いって帰っちゃってさ」
「うんいいよ! 何をすればいい?」
「休憩終わってからでいいわ。ありがと」
ミリアは二つ返事で立ち上がったロミルを再び座らせて自分もその隣に座った。
意中の人と急に物理的に距離が縮まったロミルは必死に平常心を装った。せっかく下がってきていた体温が再び上昇する。
「きょ、今日はアァリは来ないの?」
「来ないわよ。今日はお休み。まったく、あの子は休めって言わないと休まないんだから」
「あー、確かにずっと動いてるよねアァリって」
わちゃわちゃと駆け回るアァリを思い出してロミルは苦笑した。
「アァリもだいぶみんなに信頼されてきたよね」
「そうね。性格的に嫌われることはないと思ってたけど想像以上だわ」
もうこの村でアァリのことを知らない者はいない。それは奇異な見た目が目立っているからだけではなく、あの子のがむしゃらな働きぶりも噂となっているからだ。その勤勉さから若者の間ではアァリを支持する意見が増えつつある。
「あの魔法みたいな不思議な粉もみんなに分けたら無くなっちゃったし、またアァリに頼まないと」
「あれ美味しからね。最近なんだか子どもたちが丸っこくなったような気がするわ」
ロミルに話を合わせながらミリアは心の中で自嘲した。
あの粉は『みたいな』ではなく正真正銘の『魔法の粉』だ。それが今、この村の中で流行している。その事実を知ったらみんなはどうなるのだろうか。ほんの少し想像しただけで自分はもう後戻りできない所まで来ている、そう思えた。
このままでは表情に出しかねないと思ったミリアすっと立ち上がった。
「私は先に行ってるわ。ロミルはもう少し休んでから来て」
「わかった。もう少ししたらだね」
一分、いや三分ぐらい待てば少し休んだ事になるか。ミリアに手を振りながらロミルは秒数のカウントを始めた。
一五〇秒経過し、もういいかとロミルが立ち上がるとロミルの前にひょっこりと先程話題になった少女が現れた。
「おはよう。ロミル」
「え? ああ、おはよう……アメリア」
「アァリだって。何回も言ってるのに」
今日は敬語じゃないのか、とロミルは謝りながら頬を掻いた。アァリのタメ口は初めて聞くがこの年代の子なら敬語を使う方が珍しいので特に気にはならない。
「あれ? 今日は休みじゃなかったっけ?」
「うん。だから遊びに来ただけ」
「そうなんだ。……変なこと聞くけどアァリなんか変わった?」
「なんにも。ボクは元々こんな感じだよ?」
「うーん、なんか雰囲気違うような……」
話し方だけではなくロミルへの接し方もいつもより砕けている印象を受ける。敬語の時も不意にロミルを抉るような言葉を漏らすこともあるが、今のアァリは普段よりも肩の力が抜けていて緊張感がまるでない。
「ミリアさんとはもう手は繋いだ?」
ロミルは盛大に吹き出した。
「ちょっ、急にやめてよ! ああもうびっくりした」
「で、どうなの?」
懐に潜り込むように窺う目はニヤついていて明らかにどんな結果なのかわかっていて訊いている。見栄を張った所で逆効果だと判断したロミルはふてくされ気味に答えた。
「……まだだよ」
「そっかぁー、まぁそうだよねー」
あまりにも露骨におちょくってくるアァリにロミルはむっとした。何故子どもというものはみんな俺の前ではこんな態度になるのか。
「なにさ、焦らずに機会を待てって言ったのはアァリじゃないか。今はミリアに何をしても上手くいかないからって」
「それは確かにそうだけど、ミリアさんがロミルに傾くキッカケを作ってあげるのは悪くないと思うよ?」
「キッカケ?」
アァリは何故か勝ち誇ったような顔で頷いた。
「だってこのままじゃ勝ち目ないじゃん。ミリアさんのサポートするったって勝ち目ない方向にサポートしてたら意味ないよ。だから少しずつロミルの方に引き寄せていかないと」
「な、なるほど」
いつの間にか真剣に耳を傾けていたロミルを見てアァリはニヤリと笑った。
「でもロミルにできるかなー?」
「え?」
「だって奥手で臆病なロミルだもん。無理でしょ」
自覚はしていたものの認めるわけにはいかない急所を突かれたロミルは堪らず反発した。
「そ、そんなことない! できるさ! アァリはまたそうやって俺のこと馬鹿にしてるんだろ⁉︎」
「うん」
うん?
たった二文字が一瞬聞き取れずロミルは固まった。ここまであけすけに言われると怒る気もなくなる。
別に気付いていなかったわけではない。ミリアに叱られた子が寄ってきたり、仕事の代役としてやたら呼ばれるのも要は舐められているからだ。
ロミルには怒られない。ロミルは文句があっても面と向かって言ってこない。だから大丈夫。
残念ながら周りにそう思われている事によってロミルの人間関係というものは成り立っている。
唯一、彼女を除いて。
「これじゃあミリアさんがかわいそうだよ」
アァリの言葉に反射的にロミルの顔が上がる。
「ロミルはミリアさんの味方かもしれないけど、それを伝えない限りミリアさんは自分は独りだと思ってるよ」
「それどういう……詳しく——」
「まっボクがいるから大丈夫だけどね。じゃねー!」
ロミルの声は気にも留めず、自由奔放な今日のアァリは行ってしまった。
残されたロミルは中途半端に飲み込みかけた情報をなんとか反芻しようとする。
ミリアが独りとは一体何の事だ。
、、、
時間は少し遡る。
『——ぅう、ここは?』
泉の中に落ちたアァリは訝しげに起き上がった。
泉に入った瞬間に反射的に目を閉じ、次に開いた時にはすでにここにいた。目を閉じていたのは一瞬だったのか、それとも気を失っていたのかはわからない。
立ち上がろうとすると突如目眩のようなものを感じてまた座り込んだ。痛みはないが頭でも打ったのかもしれない。
ぼやけた視界が回復するのを待ってからアァリは周囲を見渡した。
『……森?』
草や木が生い茂った辺りの環境は間違いなく森だった。しかしその色は深緑ではなく、ステンドグラスのような透き通った青一色だった。正に鬱蒼としたこの森の姿にアァリは見覚えがあった。
『やっぱり泉の中なの? ここ?』
この青は泉の持っていた青そのものだ。水面に映り込んだ森に水の色が重なったあの光景がアァリの周囲を埋め尽くしている。
ここが泉の中ならば同時に『水の中』ということになるが、息苦しくもなければ浮力も感じない。微妙に水の抵抗を感じる気はするがただの倦怠感だと思えばそれまでだ。
アァリは恐る恐る立ち上がった。僅かに鈍い体の動きが夢の中にいるような錯覚を与えてくる。
目下の最優先目標は『ここがどこなのか』ではなく、『ここからどう出るか』だ。大地のエネルギーさえあれば活動できる土人形だが、この世界にどんな危険があるのかわからない以上長居はできない。
『出口を探したって無駄だよ』
突然降ってきた言葉にアァリは空を見上げた。
そこにはアァリがいた。
空中——この場合は水中になるのか。どちらでもいいが宙に漂うその女の子はアァリそのものだった。白くて長い髪に土気色の肌。お人形のような可愛らしい顔立ちはアァリの知っている『アァリ』と合致していた。
レムゥドがもう一体作ったのか? など自分の分身が存在する理由について考えるアァリを見て、アァリは脈絡なく吹き出した。
『あははは! おかしいー!』
『なに笑ってるのさ! おかしいのそっちでしょ⁉︎ この偽物ー!』
『偽物じゃないよ、本物。アァリはこの世界にただ一人。ボクもキミも本物だよ。強いて言うなら偽物はキミの方だろうけど』
『なん——』
『そんな姿なのに?』
反駁しようとしたアァリはぴたりと止まった。アァリの頬を指し示すジェスチャーに導かれて自身の顔に指が触れる。
『——あ』
顔と指の間に仮面があった。おそらく先程まで向こうのアァリが着けていたはずの。
『くっ! この……!』
アァリは両手の指に力を入れて仮面を外しにかかった。しかし仮面は微動だにしない。張り付いた仮面に皮膚が引っ張られている感覚はなく、仮面が顔の一部のようになっていた。
必死にもがくアァリをアァリはニヤニヤと嘲笑う。
『無理無理外れないよ。キミが自分で付けたんだからね』
『自分で着けるかこんなもの! ボクが寝てる間にキミが付けたんでしょ!』
『だから違うって。キミに代わりに着けてほしかったのは事実だけどボクが着けたわけじゃない。ボクが自分でキミに着けたのならボクはその仮面を外せたことになるじゃん』
確かに一理ある。しかし得体の知れない相手の話を簡単に信じるわけにはいかない。
『でも外れないわけじゃないんでしょ⁉︎ どうやったら外れるの⁉︎』
『さあ?』
『このっ……!』
静かすぎる青い世界に二つの音の波紋が広がる。二人の声は同じものだが相容れることはない。しかしこの世界について向こうのアァリから聞き出すまでは波を立て続けるしかなかった。
だが相容れない相手がこちらの思惑通りに動くなど都合の良い話はない。
突如、ふわりと宙を漂うアァリの高度が高くなった。地上から見ているとそのシルエットがどんどん小さくなっていく。
『とにかくその仮面を着けたままじゃここからは出れないよ』
(まずい……!)
アァリは助走をつけて跳び上がった。ジャンプしたところでどうにかなる距離ではない——と思ったが、
『あ、飛べるんだ——痛っ⁉︎』
ほんの一瞬、水の中にいるかのように体が浮いたがすぐに落下してしまった。中途半端に下半身が浮いたせいで体の前面で受け身をとるハメになったアァリは地面に這いつくばったまま空を見上げた。
『初めてなのにちょっと浮けたじゃん。すごいすごい』
煽りにしか見えない拍手を送りながらアァリは更に高度を上げていき、遂に太陽のような光が揺らぐ水面まで達した。
『ま、ボクに追いつけた所で出られるのはボクだけなんだけど』
『待て!』
『じゃあ、行ってくるねー』
無邪気に振られる手にアァリは何も応えることができず、自分ではないアァリは水面の向こうへ消えた。
アァリは再び世界に一人となった。
、、、
あっ、こんにちは。
そんな警戒しなくてもいいでしょ。何もしないし見ての通りただの子どもだよ。
ねえ、あの時さ、なんでパンケーキ食べてくれなかったの? あなたはそんなにボクに抵抗はないんでしょ? だってそうじゃなきゃパンケーキを一旦受け取ったりはしないよね。
……別に。正直言えば手伝ってほしいけど、事情があるのは想像つくから言わない。
ただね、そんな生き方してても幸せになんてならないと思うよ。少しずつ失っていくだけ。よく知ってるんだよ、ボクはね。
、、、
どうすればいいのかわからず、仮面のアァリは水中の森を彷徨っていた。青一色の幻想的な光景も暗中模索の状態では味気なく見える。
あれからしばらく宙に浮く練習をしてみたが、上達したとは言い難かった。わかった事といえば、手足に水の抵抗のような感覚がある時に浮く事ができる、それくらいだった。ふと『アニメや漫画のように空中で平泳ぎをすればスイスイと進むのでは?』と思い試してみたが見事に落下し、尋常ではないくらい恥ずかしかったので二度とやらないことにした。それに仮に空中遊泳をマスターした所であのアァリの言う通りここからは出られないだろう。
やはり鍵はこの顔と一体化している仮面だ。この仮面について調べなくてはいけない。
『そもそもこの世界は一体なんなんだろ? 仮面を着けてると出られないなんてすごいファンタジーっぽいけど』
返事はないとわかっていても静かすぎる環境にいるといかんせん独り言が多くなる。騒音は苦手だったが極端な無音というのもじわじわとストレスを与えてくると初めて知った。
風一つ吹かない森はまるで海の底にでもあるかのようで、徹底された静寂は神秘を通り越して不気味な印象を演出している。あのアァリはこんな世界に一人だった。憎たらしい奴だがそこは同情せざるを得ない。
『泉に映ったもう一人のボク……。ここは鏡の中みたいなものか』
本当に鏡の世界ならば見た目は反転したとしても、色や人格が異なるのはおかしいのだが自分を納得するさせるための例えとしては最も都合が良かった。それにどうせ魔法のような非科学的な力が働いているのだから細かい矛盾など気にしてもアァリにはどうしようもない。
『……ここが鏡に映った森を再現しているならボクらの家もどこかにあるかも……!』
脱出の糸口になりそうな可能性に気づいたアァリは視線を上げて——そのまま首を傾けた。
『あれ? この木さっきも見たような?』
何気なく感じたデジャヴに嫌な予感がした。
アァリは落ちていた枝を二本拾うと、バツ印の形に木に立てかけた。そしてその場から全速力で離れる。何も考えずに、ただし木の根本にだけ注意を払ってアァリは走った。
そして、アァリは交差した状態で立てかけられた枝を発見した。
『……ループしてる』
ほとんどまっすぐに走っていたアァリが元の場所へと戻るわけがない。広く見えるこの世界は実際にはそこまでの広さはなく、合わせ鏡のように端と端が繋がって遠くまで続いているように見えているだけだ。枝から遠ざかっていたアァリはいつの間にか枝へと接近していたのだ。
『これじゃあ、帰れないよ……』
色々な意味でふりだしに戻ったアァリはがっくりと項垂れた。こうなってしまってはもうレムゥドが助けに来るのを待つしかない。しかしそれではレムゥドの言いつけを破って泉に近づいたことがバレてしまう。
『謝れば許してくれるかな……』
怒りはしないと思うが、彼に怒られたことが無い故にどのような事態になるのか想像がつかない。
どれだけ温厚な人だろうと怒りの感情が膨れ上がる時は一瞬だ。だから昔は言い訳ばかり考えていて、謝って被害を軽くしようなんて選択肢は無かった。
他人の尖った感情に触れる事に比べれば、罪悪感や良心の呵責などはいくらでも耐えられる。そのせいで毒を飲んだかのような苦しみを味わう時もあったが、それでもショック死してしまうよりはマシだった。
たとえレムゥドが相手だろうとそんな姑息な考えがまだアァリの中にはある。
一人になりたいのか。それともレムゥドに会いたいのか。アァリは考えた。しかし考えたところで今のアァリには何の選択権も無いと改めて実感してふて腐れた。
、、、
「だから今日のアァリはいつもと違うんだよ。絶対に気のせいなんかじゃない」
本日予定していた作業をすべて終え、後片付けをしながらロミルの話すアァリの異変についてミリアは耳を傾けていた。
「もうわかったから。たまには年相応に振る舞いたかったんでしょ。変に大人びてるけどアァリも子どもなんだから」
すでにこの話を聞くのは三回目で食傷気味のミリアはなだめるように返した。ロミルにとってはそれだけ子どもらしいアァリは強烈だったらしい。
「ほんとにそれだけかな。すごい楽しそうだったけど……」
なだめられて不完全燃焼なのか徐々に音量を下げながらロミルはぼやいた。誰かのいじけている態度には見飽きているミリアは忌憚のない指摘をぶつけた。
「舐められてんのよ。あんたなら少々ふざけても大丈夫って思われてんの」
「それは……そうかもしれないけど……」
図星のはずの指摘に素直に落ち込まれてミリアは肩透かしを食らった気分になった。普段の彼なら苦笑いを浮かべてお茶を濁す場面だ。
さっきからアァリの事ばかり話すロミルだが、ミリアからすればそのロミルの様子もおかしい。作業中もこちらの顔色を窺うような視線を送ってきたり、目が合ったかと思えば何か言いたげな素振りを見せたりとアァリに感化されでもしたのだろうか。
ひとまず後片付けも済んだのでロミルは家に帰した。心配ないとは思うが、数日経っても元のロミルに戻らないようならば一度相談に乗ってあげた方がいいのかもしれない。
「さて、アァリを探すか」
ロミルの話が本当ならばアァリの異変はミリアとっては無視できない案件だ。この村の排他主義を衰退させる鍵に今更心変わりなどあっては困る。直接会ってその異変とやらをこの目で確認しなくてはいけない。
もうじき日が落ち始める時間帯だが辺りはまだ明るい。村の近辺を探せば少女は見つかるかもしれない。
早速ミリアは通りがかった子ども達に声をかけた。
「ねぇ、アァリ見なかった?」
「見たよ」
ねー? と答えた子が他の子に確認をとると周りもうんと頷いた。
「いつ? ついさっき?」
「ううん。もっと前」
尋ねた事へ最低限の答えしか返ってこないのは子どもの応答の特徴だ。訊きたい内容を正確に尋ねなければとんだ長丁場になってしまう。
「一緒に遊んだの?」
「うーん、」
「また鬼ごっこ?」
「うーん、そうかな?」
煮え切らない答えはどっちにも取れるということか。おそらく子ども達は遊んでいるつもりだが、アァリの方は楽しんでいるように見えなかった、という所か。しかしアァリが遊んでいる最中でも余裕がなさそうに見えるのはいつもの事のはずだ。
「アァリと遊んだんじゃないの?」
「うーん……」
ミリアの質問のせいで小さな眉間に皺が増えていくのを見ているとなんだか申し訳なくなった。無理に答えなくていいと伝えようとすると、その舌ったらずな口が動き出した。
「なんか、僕らを見たらアァリが逃げたから、みんなで追いかけた」
「不憫ね」
「え?」
「気にしないで。ありがと。気をつけて帰りなさい」
にこやかに手を振って子ども達を見送ったミリアはすっと顔を引き締めた。
ロミル曰く、今日のアァリはマイペースで人をおちょくる性格になっているらしい。年齢を考慮すればなんら不思議なことはない子どもらしい性格だ。
逆に言えば普段のアァリは子どもらしくはない。
何故、子どもらしさを捨てたのか。その理由はわからないがなんとなく残酷なもののような気がした。
、、、
青い森を彷徨っていたアァリはふと聞こえた音に足を止めた。確かにどこかで草の擦れる音がした。風は吹いていないので、もしかするとこの世界にアァリ以外の誰かがいるのかもしれなかった。
『どこ? 怪しい者じゃないですよー?』
返事はない。むしろ一層気配を感じなくなった。
この感じは人ではなく——
次の瞬間、背後からの強い衝撃によってアァリは吹っ飛ばされた。
『ここに来てから肉体的なダメージ多くない?』と頭の中でぼやきながらアァリは地面を転がった。土人形の体に痛覚はほとんど無いので痛みはないが、視界が急にブレると脳が混乱する。
多少目を回したアァリはゆっくりと上体を起こし、自分が吹っ飛んできた方向を見た。
アァリに突っ込んできたのは一頭の鹿だった。ただの鹿ではなく頭にはアァリと同じ仮面を着けていた。
魔物かもしれないとアァリは身構えた。同じく面鹿も前足に体重をかけた警戒体勢を継続している。アァリが立ち上がろうとするその素振りだけで面鹿の筋肉がピクンっと反応した。
(知らない内に彼の縄張りに入っちゃったか……)
元からこの世界の住人か。それともアァリと同じように泉に落ちた口か。どちらにせよひとまずここから離れようとしたアァリはふと閃いた。
(あの鹿がこの仮面を外す鍵なのかも——)
ゲームなどでよくある『イベントクリア』が脱出の鍵になっているケースかもしれない。別世界は別世界でも仮想世界の常識になるが、異世界の異空間である『ここ』になら一周くらい回って当てはまってもおかしくはないような気がした。
意を決してアァリは立ち上がった。その態度に面鹿もさらに体の重心を下げる。
『別に危害を加えるつもりは——った!』
言い終わる前に二度目の接触があった。今度は直前で身を捻ったのでダメージは少ないが、それでもバランスを崩されたアァリはまた地面に突っ伏した。
追撃を覚悟したアァリはその場で亀のように身を縮こめる。しかし予想していた衝撃は来ない。頭をガードしていた腕を少しずらして隙間から覗くと、面鹿は元の位置に戻ってまた警戒の体勢に構えていた。
『そもそも、どうしたらクリアなのさ……』
あちらの突進を顔面で受け止めたらアァリの仮面が割れるとかならば手っ取り早くて楽なのだが、おそらくそれは非正規ルートだろう。
、、、
日もほとんど地平線の向こうへと沈み、辺りはもう薄暗くなっていた。
今日は見つけられないな、と諦めて帰ろうとしたミリアはふと耳を澄ました。
(来たか)
小さな歩幅が忙しなく交差する足音。まっすぐこちらに向かってきている。今まで見つからなかったのはお互いに探していたせいですれ違いになっていたせいか。
「やっと見つけた!」
第一声から違和感に眉をひそめる。予想通り、ロミルの狂言の可能性はさっそく消えた。
ミリアは顔に薄く表情を貼りつけてからアァリと思われる者に焦点を合わせた。
「こんばんはアァリ。今日は手伝いに来てくれなかったのね?」
「え? 今日は休みだって言ったのはミリアさんの方だよ?」
「……そうだったわね。ごめん」
カマをかけてみたが不発だ。偽物ならば昨日以前のミリアとのやりとりを知らないと思っていたがよく調べてある。それとも本当にミリアの知っているアァリなのか。
懐疑的なミリアをよそにアァリは屈託のない笑顔で話し始めた。
「ミリアさんとロミルに会いに来たのにこんな時間になっちゃった。ロミルはすぐ会えたんだけどその後なんか追いかけられちゃって、それで子どもたちに見つからないように隠れてたら暗くなるまで動けなくなって、でもミリアさんに会えてよかったー」
アァリは堰を切ったように自分の言いたいことをまくし立てた。確かにこの様子はマイペースで子どもっぽい。いつものアァリならば話す前も話した後も、さらに話している最中も相手の様子を窺っている。
(なんか、子どもっぽいていうか……なんだろこの感じ?)
幼児退行——ではなく年相応になっただけにしては根本的な箇所が変わり過ぎている気がした。
ミリアはこの枷が外れたような饒舌さに覚えがあった。そう、あれは大人達の宴会の時だ。
「アァリ、酔ってないわよね?」
「お酒は飲んだことないよ」
「……そっか」
さすがに直感に頼りすぎた、とミリアは腕を組み直した。しかしこのアァリが偽物だという直感は正しいはずだ。
「私に何か用事があって来たの?」
「別に。ただミリアさんと話したいなぁと思って」
アァリは他愛のない世間話を始めた。内容は料理に関しての話題が多く、ミリアもアァリへの違和感について探りながら会話に応じた。
観察する目的でアァリの表情を見ているとその純粋にミリアとの会話を楽しむ姿に胸が締め付けられた。
普段、心から笑わない子が笑っている。そんないつか見てみたいと思っていた、望んでいたはずの光景なのに。
「——っ」
ミリアは不意に熱くなった目頭を押さえた。溢れそうになるのを唇を噛んで堪える。
「……ミリアさ——」
「あなたはアァリじゃない」
心配して声をかけたアァリを遮ってミリアは言い放った。声が震えないように力を込めたせいで硬い声色になっていた。
「あの子は愛想笑いばかりであなたみたいに心の底から笑ったりはしない。自分がどう思ったかじゃなくて、他人がどう思うかって考えて笑う子なのよ」
楽しい空気が一変し、アァリの顔は見るからに慄いていた。しかしその目はすがるようにミリアを見つめていた。
「なんでそんなこと言うの? ボクはアァリだよ? アァリはボクなんだよ? ボクはミリアさんの友達なんだよね?」
自分の中で湧き上がる不安を消し去りたいアァリは矢継ぎ早に質問をぶつけてきた。
ごめんね。そうね。決まってるじゃない。
自分の想定している答え笑顔で返すミリア以外は見たくない。少女はそう露骨に訴えている。
(友達か——)
そういえばアァリと出会った頃にそんな約束をした。特に意識するような事でもなかったのでこうして確認されるまで忘れていた。
アァリの方からもあれ以降は聞いたことがなかったため、ミリアのように記憶の片隅で埃を被っているものだと思っていたが違った。あの子がその言葉を口にしなかったのは御守りのように胸に秘めていたからだ。
なんて痛ましい。どうしてこんなに不器用なんだ。
「ええ、友達よ」
友達なんだよね? アァリはそんな確認はしない。
確かめて違ったら怖いから一方的に信じる。そんな臆病で純粋な子だ。
「でもあなたはアァリじゃないから違うわ」
決定的な一撃だった。アァリの中の何かがへし折れた音がミリアの中で響いた。
アァリは分かりやすく縮こまった。目線を逸らし、硬直した足がミリアから距離を取ろうとして震えている。
「ごめんね」
容赦はない。もう後戻りは出来ないのだから。
ミリアは膝を折ると、保身に入ったアァリと無理矢理目を合わせた。少女の顔に触れると、びくんっと小さな体が跳ねた。ミリアは気にせずに頬に手を添えて少女を捕らえた。
少女の瞳は宝石のように潤んでいて、このまま親指で目の辺りを押せば涙が溢れ出してきそうだった。
「ねぇ、あなたは何者なの?」
「ボクは……」
アァリが逡巡して俯こうとした瞬間にミリアは頬に添えた手に僅かに力を入れる。
逃がさない。嘘も沈黙も答えとしては認めない。
観念して話すまでいくらでも待ってやる。友情を犠牲にしている時点で時間などなんの損失にもならない。
アァリは観念したのか小さな唇を震えさせながら搾り出すように答えた。
「……ボクは、人じゃない。土人形なんだ」
アァリから出た真相は腹が据わっていたはずのミリアの意表を突いた。
求めていた答えではない。今聞きたかったのはこれではない。こんなの——————僥倖ではないか。
「土くれの魔法使いが作った土人形。髪も肌もみんなと違うのはそのせい……」
「だから『土くれのアァリ』、なのね?」
ミリアが確認するとアァリは上目遣いで頷いた。頭を振ったことで真っ白い前髪が目を遮るように垂れ、ミリアはその髪の毛に指を通した。
目の前で自身の髪が弄られる様子をアァリはじっと見つめていた。緊張はまだまだ緩んではいない。
「あなたの——目的はなに?」
ミリアはあえて曖昧に問いかけた。訊き出したい事は山程あるが限定してしまうと先程のような幸運は降ってこない。ミリアは保身が最優先になっている今の少女しか吐き出してくれない情報が欲しかった。
「——死にたかった」
たった一言。吐き出した少女の目は水底の泥を映しているように沈んでいた。
「人から否定されるのが怖くて人の機嫌ばかりとってる偽善者の人生が嫌ででもそれ以外の生き方は出来なくて誰かに相談しても誰も味方になってくれなくて死ぬまで一人だってわかったのに自分の為には生きられなくてもうどうしようもない悩みについて考えたくなくって——死にたかった」
油断も余裕も無く体が動いた。
乾いた音がした。アァリの言葉が最後まで耳に届く前に、ミリアの右手が少女の頬を叩いた。
「私の、私の前で二度とそんな事言うな‼︎」
平手はアァリが後ろに倒れるほどの衝撃で、それを裏付けるように右手が熱を持っていた。自分の息が荒げていることにやっと気づき、ミリアは自分がしでかした事を理解した。
「……ご、ごめんアァリ、そんなつもりじゃ」
「——あんな、」
茫然と固まっていたアァリの目から大粒の涙が溢れ出し、短く繰り返されている呼吸に嗚咽が混じる。
「あんな仮面を被ってるようなやつじゃなくてボクが本当のアァリなのに!」
少女は涙を拭いもせずに逃げるように闇へと消えていった。
「待って! アァリ!」
ミリアの声など届く訳がなかった。あの子が抱え込んでいた秘密を引き摺り出して、ただ辛いだけの涙を流させた裏切り者が今更名前を呼んでも無駄だった。
暗闇に向かって伸ばした手にはまだあの子を引っ叩いた感触が残っていた。
、、、
泉の中の世界でアァリはまた面鹿に吹っ飛ばされた。
もう何度ぶつかられたのかは覚えていないが、不本意ながら受け身は上達していたので体の方は覚えているらしい。
地面に転がされている内に理解したが、あの面鹿はアァリを排除しようとはしているもののとどめを刺しにはこない。アァリを吹っ飛ばしたら必ず元の位置に戻って距離を取っていた。あくまで自らの縄張りから追い出そうとしているだけのようだった。
『とはいえ倒す……のは無理だしなぁ』
進歩がまったく無いわけではないが、先程からずっと同じ展開を繰り返しており、一刻も早くこの世界から脱出したいアァリにとってこのマンネリは看過できるものではない。
しかし決着の条件は未だに不明のまま。状況を変えたくても変え方がわからない。
『落ち着け……、絶対なんとかなるはずだ』
このまま一生をこの世界で暮らすつもりはない。何としてでもこの仮面を外して元の世界に帰らなくてはならない。
あのアァリは『仮面はアァリが自分で被った』と言っていたが、こんな物を被りたいなんて思わないし、なにより被る理由が無い。
(……理由?)
そもそも「仮面」とは何の為にあるのか。今までほとんど関わりを持たずに生きてきたので考えた事もなかった。
正体を隠すため。もっと単純に顔を守るため。
何かしらの理由はあって、それはあの面鹿にもあるのだろう。
ならば、暴いてしまえばいいのかもしれない。仮面の存在意義を暴いてしまえば、それは仮面をしていないのと同じ事ではないだろうか。
覚悟を決めたアァリは面鹿に向かって歩を進める。応じた面鹿は縄張りの境界線を侵害する者へのお決まりの動作に入った。
(今だ!)
アァリは地を蹴った。面鹿の突進を躱す為の一歩だが、横にではなく前方上空に向かってだ。しかしこの程度の跳躍では高さが足りず、面鹿に膝から下をすくわれてしまう。
アァリはそのまま水の中から這い出るようにもがいた。空を切ったはずの手には確かに何かを掴んだ感覚があり、足は何かを踏みつけていた。跳躍の最高到達点に達したはずの体がさらに上昇し、真下に映るアァリの影を面鹿が通過した。
『やった! 浮けた! 鹿のキミには泳ぐって発想はないでしょ!』
今度はすぐ落ちるという事はなく、アァリはクラゲのように漂っていた。遊泳するよりもこの方が自分には合っている気がした。
辺りを見回し、ようやくアァリを発見した面鹿は一層殺気を滾らせてアァリを追い回していたが、アァリの真下に陣取るのが関の山だった。
『悪いけど見させてもらうよ。キミが守ろうとしていたもの』
面鹿が執拗に縄張りから外敵を排除しようとしていたのが外敵から何かを守るための防衛行為だったとしたら。きっと彼が仮面を被る理由はその守りたい物と繋がっているような気がした。
アァリは面鹿が必ず自身の背後に来るよう位置取っていた大木の近くに降り立った。面鹿は諦めたのか、足を止めてじっとアァリの様子を見つめている。
大木の根本には樹洞があった。いかにも宝箱でも隠していそうな雰囲気にアァリの直感がここだと叫んでいる。あとは少ししゃがんで覗き込むだけだ。
それなのに。
『……ねぇ、見てもいいかな?』
他人の秘密を侵害するのに許可などいらないのに。
いちいち許可を求めないと行動できない。我ながら悪い癖だ。
『駄目なら見ないよ。見たいのは見たいけどキミに嫌な思いをさせてまで見たいわけじゃないから』
アァリは樹洞から離れると両手を上げて、無抵抗を表すポーズをとった。
『でもここから出て行くために見ないといけない。だからキミから許しが出るまでずっとここにいる。何をしたっていいよ。ボクからは絶対に何もしない』
アァリの言葉が理解できるのか、話が終わるまでは面鹿は動かなかった。が、終わると容赦なくアァリの腹にその頭を突き刺した。
一瞬体が宙に浮き、背中と後頭部が地面に叩きつけられる。視界が揺さぶられて意識が飛びそうになり、何もしないとは言ったが受け身は取るべきだったと後悔した。
よろめきながら立ち上がったアァリは力がまだ入りきらない腕を精一杯広げた。見えていないだろうが表情も警戒心を抱かれないように柔和を保った。
『物足りないなら……どうぞ、好きなだけ』
一刻も早くこの世界から出ていきたい。その為に必要な行動の決定権を相手に委ねる行為が矛盾しているのはわかっている。
ただアァリはこの受動的な立ち位置が楽だった。
何も考えずに立ち上がっていればいい。痛みや辛さが麻痺しているのは土人形だからだろうか。
行手を遮るように立ちはだかるアァリに面鹿は訝しげに距離を詰める。一歩、また一歩と近づく度にアァリは目を細める。
来る……! そう覚悟し目を完全に閉じた瞬間、
とすっ、とアァリは面鹿に軽く小突かれた。
『え?』
目を開くと、においでも嗅いでいるのか不思議そうに面鹿が鼻を押し付けていた。しばらく様子を見ていても攻撃を再開する気は無いようだった。
アァリは何度も接触してくる頭を抱え込んだ。
『ありがとう』
面鹿が攻撃を止めた理由はわからない。アァリの覚悟が伝わったのかもしれないし、ぼろぼろになっていくアァリに同情しただけかもしれない。
しかしとりあえずは一件落着だ。この彼とも仲良くなれるかもしれないと考えたら真相はどうでもいい。
そこはどうでもよかったのだが。
『……仮面、外れないんだけど』
、、、
闇の中に沈んだような暗い森の中をアァリは駆けていた。涙で視界はぼやけ、足元が黒く染まっているせいで何度もつまずき地面に倒れた。すぐには立ち上がれず、膝を土で汚しながら嗚咽を漏らす。いくら泣き叫んでも闇の中に染みていくだけで、誰も応えてくれない恐怖に怯えてまた走り出した。
早く、早く、早く。
恐怖から逃げるための壊走は安息を求める奔走でもある。落ち着かない気持ち悪い。この腹と胸を圧迫してくる恐怖はもう味わいたくない。
あれからどれくらい走ったのか。それもわからなくなり、闇に落ちかけていたアァリの目に希望の光が灯った。
リビングのチェアに腰掛けていたレムゥドは首だけを動かして扉の方を見た。慌ただしくこちらへ向かってくる足音を聴くと、チェアに深く座り直した。
扉が開く。そこには最愛の土人形がいた。
遅かったね、とかけようとした言葉は寸前で止まった。よたよたと近づいてくるアァリの服は土で汚れ、その瞳からは大粒の涙が流れていたからだ。
アァリはレムゥドの元に辿り着くとそのまましがみついた。
『レムゥドぉ……』
さすがにこの状態のこの子を引き剥がすのは憚られた。レムゥドは盛大にしゃくるアァリの背中をさすり、会話が可能になるまで落ち着くのを待った。
『——何があったの?』
『……大丈夫、ちょっとびっくりしただけだから。慣れてるから』
一人で収めたアァリは大丈夫と言ったが、その顔は今にも倒れてしまいそうな程に憔悴していた。アァリを少しの事ではへこたれない強い子だと思っていたレムゥドは心配そうに赤く腫れ上がった目を見つめた。
『いつもこうなんだ。自分の思ったことを……自分のやりたいことをやってるだけなのにうまくいかない。知らない内に傷つけて、知らない内に拒まれて……。ごめんレムゥド。ボクはレムゥドにも何か迷惑かけてるんだよね?』
自虐を含んだ吐露をレムゥドが優しく否定するとアァリはそれに噛み付いた。
『嘘だ。気遣ってくれてるんでしょ。ボクは鈍感なんだよ。自分のやりたいことにしか興味がなくて、他人の痛みには気づけないそんな奴なんだ。森が滅茶苦茶になってレムゥドが傷ついてるのにも今日まで気づかなかった……』
声が震え出し、大きな瞳がまた潤み始める。
『ボクだって好きでそういう風に生まれたんじゃないのに——ねぇ、自分らしく生きちゃいけないの? 人に愛想を振りまいてるアイツの方が正しいの⁉︎』
『正しい、とは言い切れないな』
レムゥドはアァリの涙を指で拭った。
『言うなれば今の君は牙も毒も抜かれた状態というわけか。でもね、牙も毒も自分の身を守る為にあるものであってそれらを持っていること自体は決して悪いことじゃない』
『悪いことじゃ……ないの?』
『正しいとか悪いとかそういう意見はあくまで他者の評価だ。それを真に受けて自分で自分を否定しちゃいけない。君が誰かの言葉を信じやすいのならまず私の言葉を信じるといい。アァリはいい子だ。私はアァリがいないと困るよ』
『……優しいね、レムゥドは』
『本心を言ったまでさ。今の君のようにね』
その言葉でアァリは悟り、自嘲するように笑った。
なんだ、とっくにバレていたのか。
『騙すつもりはなかったんだよ。ボクがアァリなのは本当なんだから』
でも、とアァリは悔しそうに唇を噛んだ。
『もう終わりか。早いなぁ——』
『別に君がいなくなる必要はないじゃないか。三人で暮らせばいい』
深くは考えていないような間でレムゥドは簡単にアァリが想像していた結末を否定した。
アァリは彼の顔を見上げる。やはり自分が求めていたものがここにある。
望んでいたかのように目頭が熱くなった。
『アァリは本当は泣き虫なんだね』
『違うっ、から、溜まってたの、ずっと……』
アァリはすでに流れ出ている涙を必死に堪えた。不思議と抗う辛さはない。これは今まで流れていたものとは違う類のものなのだろう。
『レムゥドの提案うれしい。でもいいんだ。皮肉じゃないけど、もう仮面をつけたアァリがみんなの知ってるアァリなんだから』
、、、
暗い森に柔らかい光が一つ灯る。館でも照明に使われている発光する土の光だ。レムゥドはそれを取っ手の付いたガラスの容器に入れ、簡易的なランタンを用意した。
『さあ行こうか』
『うん』
レムゥドは右手にランタンを持ち、左手はアァリの手と繋いでいた。両者の手の大きさが違いすぎるのでアァリの手がレムゥドの指を握る形になり、まるで親子の繋ぎ方だが手を繋いでいることには変わりはない。
『楽しそうだね』
『うん。楽しい』
自分でも恥ずかしくなるほど大袈裟に笑ってしまい、気づいた。笑顔が軽い。人とはこんなにスムーズに笑えるんだと思い出したような気分になる。
思って少しセンチにもなった。これではまるでハッピー『エンド』だ。救われたことが物語を終結へと加速させている。そう思えてならない。
『君の質問に答えてなかったね』
『え?』
脈絡のない話の切り出し方にアァリは思わず聞き返した。
『人間が嫌いなのか。という質問』
『ああ……』
記憶を刺激されてアァリは思い出した。そういえばそんな質問を放り投げていた気がする。特に明確な答えを求めていたわけでもなく、この質問を投げかけられたレムゥドがどういう反応をするのかが見たかっただけだったので、すっかり忘れていた。
『前から気になってたんだ。レムゥドは人と距離を置いているのに何で人の形の土人形を作ったんだろうって。犬とか猫じゃダメだったの? そりゃ8番目としては困るけど』
館の家事はアァリが担当しているがそれはアァリが買って出ているだけでレムゥドが目論んでいたことではない。
レムゥドが当初想定していた土人形の役割は『レムゥドの側にいる』だけであり、その為にわざわざ人を模した土人形を作る必然性は薄い。薄いと言っても、『会話がしたかったから』など理由はいくらでも推察できるのだが。
『それは人間のような存在を求めていたから、としか言えない。矛盾しているのはわかっているよ』
彼の中でもまだ完全には整理がついていないのかレムゥドは訥々と話を続けた。
『人間が嫌いというのは抽象的過ぎるから詳細に言い直すと、嫌悪しているわけじゃなく幻滅したんだ。自分達が最も優れていると信じて、時には同族とも争うそのどこまでも自己中心的な行いがね。でも人間の社会で生きてきた私にとって親しみ深い存在もまた人間だったんだ』
アァリは挙手の代わりにレムゥドの手を引っ張った。腕の力だけでは足りず、上半身を使ってやっと反応があった。
『ねえ⁉︎ やっぱりレムゥドって元は人なの⁉︎』
『違うよ。私は最初からこの姿だ』
即座に否定されたアァリは顔を赤くしてそっぽを向いた。レムゥドが怪訝そうにしていたので『忘れて……』と小さく呟く。
『私が何者なのかは私もよく知らない。わかるのは人間と意思の疎通が可能な知性を持っている事と人間には使えない魔法が使える事だけだ。人間ではないと自覚していたはずなのに、実は心のどこかでは私は人間として生きているつもりだったのかもしれない』
『レムゥドはレムゥドだよ。自分を見失ってなんかいない。誰よりも自分らしく生きてるよ』
アァリは先程自分がやられたように即座に返した。
レムゥドも自分と同じく本音と現実の齟齬に悩んでいるとよぎった時にはもう口が動いていた。
その悩みがどれだけ己を刺す事になるのかは知っていたから。肯定することに迷いはなかった。
つまり意趣返しではなくアァリなりの恩返しだった。
、、、
仮面を着けたアァリは青い草の上に寝転がっていた。これからどうするのかをじっくり考えるつもりだったが、結局はぼーっと空を眺めているだけで時間が過ぎた。唯一思ったのはここの空に雲一つ無いのは、あれは空じゃなくて水面だから、ということだけだ。
できる事が無い。手詰まりだった。ゲームならば中断してまた気が向くまで他の事にかまけていればいいが、ここは時間も意識も継続したままだ。
『これじゃあ、アウトドアなのかインドアなのかもわからないよ……、ん?』
変わり映えのない空にふと二つの影が現れた。揺らぐ影は泉を覗き込んでいるように見える。
アァリはがばっと起き上がって手を振った。
通じたのかはわからないが覗き込んでいた影は境界線を越えて泉の中へ侵入してきた。
『やった! ってあれはアァリと——レムゥド⁉︎』
どちらも待ち望んでいた人物だが喜んだのは一瞬で、アァリはすぐに悲鳴のような声を上げた。
『レムゥド! 減速しないと! 危ない!』
水面——空から現れた二人はそのまま地面に向かって落下してくる。アァリの方は別に問題ないだろうが、あの大きなレムゥドがこのままの勢いで着地してはただでは済まない。というか、こちらに向かって落ちてきているのでアァリの方もただでは済まない。
大丈夫だよ。と聞こえた気がした。
地表に近づいたレムゥドのローブが舞い上がる。地面スレスレで十分に速度を殺したレムゥドは悠々と泉の底に降り立った。
『……浮けるんですね。あっさりと』
『当たり前じゃん。レムゥドだよ?』
遅れてアァリも慣れたように着地した。『自分の方がレムゥドに詳しい』みたいな言い方にアァリはむっとする。
何か言い返そうとしたアァリは目を凝らして少女の顔を見た。気づいたアァリは無言でアァリに詰め寄った。近くのレムゥドには聞こえないように声を抑えて問い詰める。
『お前、レムゥドの前で泣いたのか』
赤く目を腫らした少女は何も答えない。アァリが怒っている理由もそれを諌める言葉が無いこともわかっているからだ。
『まあまあ、二人ともぼろぼろなんだからそこまで。アァリがここから出る方法はこのアァリしか知らないんだから協力しないと』
『協力? レムゥドがなんとかしてくれるんじゃないんですか? てっきりレムゥドがこの偽物をとっ捕まえてきたのかと思ってましたけど』
『だから偽物じゃないって言ってるじゃん』
売り言葉に買い言葉で二人のアァリは口を尖らせる。
『ボクはキミだよ。そうじゃなきゃキミはボクでなくなる。鏡がデリカシー無しに映した存在、それがボクなんだから。まあ、ボクはそんな仮面着けるなんて絶対にごめんだけど』
『始めに着けてたのそっちじゃん……』
いがみ合う二人のアァリを見て『やれやれ』とレムゥドはため息をついた。
微笑ましい諍いだが話が先に進まないのは困る。
『……子どもだから仕方ないか』
ぽつりと呟いただけなのに二人の口論がぴたりと止まった。同一人物だけあって欠点も同じらしい。
『じゃあここから出る説明を頼むよ』
レムゥドが促すと素面のアァリは頷いて、説明を始めた。
『ここは正直者だけが出られる泉なんだ。嘘つきはすべてを失い、正直者はすべてを得る。その仮面は嘘つきの証だからそれを付けている限りここからは出られない』
嘘をついた覚えなどない、とアァリは反論しそうになったがここは飲み込んだ。いちいち口答えをするのは子どもっぽいような気がしたからだ。
『どうしたらこの仮面は外れるの?』
『一人で外せないことはないんだけど、他に誰かがいるならその誰かの質問に正直に答えればいい』
『なんだ、そんなことでいいんだ。じゃあ早速——』
『待って』
言葉を遮ったアァリはアァリの腕を引っ張った。
『アァリちょっと来て。レムゥドは来ちゃダメだよ』
なんだかよくわからないまま引っ張られて、アァリ達は二人きりになった。
さっきの続きをやるつもりなのかと眉をひそめるが、少女の凛とした顔はそんな子どもじみたものとは無縁のものだった。
『なんの用? まさか今更入れ替わってとか言わないよね?』
『言わないよ。レムゥドは二人とも連れて行くつもりみたいだし』
『はぁ、もうあの人は……』
ため息をついたアァリを見てアァリはくすくすと微笑んだ。
『わかる。レムゥドってそういうとこあるよね。で、それはそうとしてキミに言わなくちゃいけないことがあるんだ』
『なに?』
『レムゥドと一緒にいれて幸せじゃないの?』
ぎくりとした。
『それは……』
『わかってる。短い時間だったけどボクは幸せだったからキミも同じのはず。でも認めるのが怖いんでしょ?』
『……』
何も言えなかった。散々否定してきたが、やはりこいつは『ボク』だ。
『キミが仮面を被っているのは周りに対してだけじゃない。それじゃいつか手遅れになっちゃうよ』
『おまたせ!』
『もういいのかい?』
『はい。大丈夫です』
『じゃ、手筈通り頼んだよレムゥド!』
アァリ達は横に並び、向かいにレムゥドが立った。質問役はレムゥドがするようだ。
『それじゃあこれから質問をするよ。正直に答えるように』
『はい』『もちろん』
『では、最初にこの泉に落ちたのはどっちかな?』
考えるまでもない。答えようとしたアァリは寸前で言葉に詰まった。
二人のアァリを区別するには仮面の有無を挙げればいい。泉に落ちたのは『仮面を着けていないアァリ』だが、今仮面を着けていないのは元からこの世界の住人だった方のアァリであるため、この回答は適当ではない。
かといって、『仮面を着けているアァリ』はそもそも泉に落ちていないので嘘をついていることになる。
想定外の難問に頭を抱えていると隣の自分が肩に手を置いた。
『正直に答えればそれでいいんだよ』
アァリの瞳に映った自分はとても真似できないような笑顔を浮かべていた。今まで仮面の下に隠れていたのがもったいない程の魅力的な笑顔だった。
——キミがボクだというなら、いつかボクも同じように笑えるのだろうか。
アァリは深く息を吸った。
『『ボクが落ちました』』
自分と完全に重なった声にアァリは耳を疑った。振り向くと、そこにあの笑顔は無く、代わりに無愛想な仮面があった。
『なんで……』
『行きなよ。ボクのことなんか気にしないで。そもそも鏡の国なんて存在しないんだから』
、、、
泉の中からではわからなかったが、外はもうすっかり夜だった。
レムゥドに抱えられていたアァリは地面に降ろすように彼に頼んだが、やんわりと拒否された。理由を訊くと『明るい泉の底から暗い夜の森に移ったばかりで暗闇に目がまだ慣れていないから』とのことだった。実際、下を見ても地面がどこにあるかがわからない。
『帰ろうか』
『あ、待ってください。ちょっと寄りたい所が』
アァリはまだ暗順応が完了していない目を凝らしてレムゥドに道を指示した。予想通り、あの青い森は泉周辺の森を反転させたものだった。
だとすれば。アァリにはどうしても確認しておきたい事があった。
『あ! そこ! その木の根本!』
すっかり暗闇でも見えるようになったアァリは探していた木を見つけるとはしゃいでレムゥドを動かす。
言われるがままに木に近づいたレムゥドは訝しげに尋ねた。
『何の変哲もないように見えるけどこの木がどうしたの?』
『見たいのは木じゃないんです』
地面に降ろしてもらったアァリは木の根元の樹洞にかけ寄った。中を覗き込んだアァリは『あれ?』と首を傾げた。
『おかしいなぁ』
樹洞の中に上半身を入れて中を探ると手に何かが触れた。アァリはそれを拾い上げると外に出て月灯りに当てた。
それは——か細い動物の骨だった。
『それかい? 探し物は?』
『……ち、違います、ここには子どもの鹿がいるはずで……! あっちでお父さんの鹿が守ってて……!』
『よくわからないけどアァリが持っているそれは幼い草食動物のものだ。アァリが見た子鹿は——』
『違います! ほんの数時間前に見たんですよ⁉︎ 触りましたもんこの手で!』
直に触れて感じたあの温もりを思い出そうとして、はっとした。
慣れてしまっていたので失念していたがあの鹿はアァリと同じ仮面をしていた。
嘘つきの証。何かを隠すための仮面。
あの親鹿が目を背けていた真実は——
『——レムゥド、ごめんなさい。近づくなと言われていたのにあの泉に近づいてしまって』
『急にどうしたの?』
『なんか……急に正直ではないのが怖くなりました』
脱出の方法を知った今ならばあの泉から出るのは簡単なことだったと感じる。しかしアァリは結局、一人ではその簡単な答えに辿り着くことはできなかった。
『保身の為に正直になるなんて情けないと思います。人は痛みから成長するものかもしれませんけど、やっぱり情けないです』
『別に情けなくてもいいじゃないか』
レムゥドはアァリの頭を撫で始めた。
『アァリが何かに気づけたのならあの子も報われるというものだ』
『あの、怒らないんですか?』
恐る恐る尋ねたアァリをレムゥドは再び抱えて、懐に収める。
『怒らないよ。頼まれたからね』
『そう、ですか。ありがとうございます。……ところでさっきから執拗に頭を撫でてくるのはなんですか?』
『だって、』
レムゥドはしれっと言い切った。
『好きなんでしょ? こういうの』
アァリは少し戸惑って頰を染めながら素直に頷いた。




