帳簿は、嘘をつかない
商会に通い始めて十日が過ぎた。前田の日課は決まってきた。朝は川岸で素振り、商会で帳簿仕事、夕方はたまにギルドの依頼、夜は宿で魔法の練習。そして相変わらず、二日に一回は何かやらかしていた。
「コウ、お前また硯ひっくり返したのか」
「すんません! でも今回は帳簿は守りました! 俺の服が犠牲になっただけっす!」
「その服、三日前も墨まみれになってなかったか」
「洗ったんで大丈夫っす!」
ベルクはもう慣れた顔で墨を拭いていた。
「お前なあ、計算は神業なのに、なんで体の動きはそうなんだ」
「昔からなんすよねえ。頭と体が別々に動くというか」
「せめて一緒に動かせ」
そんなある日だった。
ダルクが四冊の帳簿を前田の机に積んだ。
「コウ。今年の帳簿を全部整理してくれ」
「うっす。……あれ、でも比べる相手がいないと、良いか悪いかわかんないすよ。去年のも見ていいすか」
「どのくらいかかる」
「今日中には」
「今日中!? 八冊あるぞ」
「数字を並べ直すだけなんで」
四時間後。前田は帳簿の海に沈んでいた。机の上に紙が散乱し、指は墨で真っ黒で、なぜか頬にも墨がついていた。
「なんで顔に墨がつくんだ、お前は」
「気づいたらついてるんすよねえ」
でも、仕事は終わっていた。八冊の帳簿が品目ごとに整理され、一枚の大きな紙にまとまっていた。
「できました! これが商会の二年分の流れっす!」
ダルクとベルクが紙を覗き込んだ。
「……ほう。こうして見ると、わかりやすいな」
「でしょ! で、ここ見てください。この布の品目、去年の秋から売り上げが三割落ちてるんすよ。他は横ばいなのに」
「む……確かに」
「去年の秋、なんか変えました?」
ダルクが少し考えた。
「……担当を変えたな。ベルクに」
ベルクの顔が強張った。
「お、俺のせいだって言うのか」
「いやいや、そうじゃなくて」
前田は手を振った。
「担当変わると、売り方も変わるんで、数字も変わるんすよ。前の担当のやり方と比べたら、直せるとこが見つかるかもって話で」
「……前の担当は、マルスさんだが」
その時だった。前田の頭の中で、何かが引っかかった。
ん……? 待てよ。
整理している最中から、妙な感覚があった。数字の流れの中に、小さな段差がいくつもある。一つ一つは誤差の範囲。でも——
「ダルクさん、もう一個いいすか」
「なんだ」
「この布、百反仕入れて、八十反売れてるんすよ。なら在庫は二十反のはずなんすけど……在庫の帳簿には五反しかないんす。十五反、どっか行っちゃってるんすよね。俺の計算間違いかなと思って三回確かめたんすけど、やっぱ合わなくて」
部屋の隅で帳簿を繰っていたマルスの手が、止まっていた。
「……輸送中に傷んだ分だろう」
マルスが言った。
「廃棄したんだ」
「あ、なるほど! じゃあ廃棄の記録見せてもらえます? それで数字合わせられるんで!」
前田は素直に喜んだ。本当に、純粋に、数字が合う喜びだけでそう言った。マルスの顔色が、変わった。
「……記録は、別の帳簿に」
「どれすか? 俺、全部の帳簿ここに持ってきてますけど」
沈黙。
ダルクがゆっくりと立ち上がった。
目が細くなっていた。
「マルス。廃棄の記録は、どこだ」
「……探せば、どこかに」
「探せ。今、ここでだ」
マルスが帳簿棚に向かった。震える手で帳簿をめくる。めくる。めくる。
「……見当たらない、ですな」
「コウ」
ダルクが静かに言った。
「お前は今日はもう上がれ。ご苦労だった」
「え? あ、はい。……あの、俺なんかマズイこと言いました?」
「言ってない。よくやった」
前田は首をかしげながら商会を出た。扉が閉まった直後、中から怒鳴り声が聞こえた。
◆ ◆ ◆
翌朝、商会に行くと、マルスの机が空になっていた。
「あれ、マルスさんは?」
「いなくなった」
ベルクが短く言った。
「え、なんで!?」
「……お前、本当に気づいてないのか」
「何がすか」
ベルクが額を押さえた。
「マルスは横領してたんだよ。何年も、少しずつ。布を抜いて横流ししてた。……で、あの布の担当だった頃は、それがバレないように売り上げを盛ってたんだ」
「盛って……え?」
「ありもしない客に掛け売りしたことにして、帳簿に載せてたんだよ。だから数字は横ばいに見えてた」
「えっと……じゃあ、三割落ちたのって」
「落ちてない。俺に担当が替わって、本当の数字が初めて出ただけだ。最初からそんなに売れてなかったんだよ」
「はあ……なるほど……」
「で、売り上げの帳簿に手を出せなくなったもんだから、今度は在庫の方に穴が開いた。お前が見つけた十五反の穴が、それだ」
「……マジすか」
「マジだ。旦那様が昨日、締め上げて吐かせた。今までの分を弁償させて、追放だ」
「ええええ……俺、そんな大事になるとは……」
「お前は数字を指摘しただけだ。悪いのはマルスだ」
ベルクがふっと笑った。
「けどな、正直助かった。俺もずっと、あの品目の数字はおかしいと思ってたんだ。でも証拠が掴めなかった。店の半分は、俺が売れないせいだと思ってたしな。お前は一日で掴んだ」
「いや、掴んだっていうか、数字が合わなくてモヤモヤしただけで……」
「そのモヤモヤが、俺たちにはできなかったんだよ」
昼過ぎ、ダルクが前田を呼んだ。
「コウ。昨日は世話になった」
「いえ、あの、なんか、すんません。俺、空気読まずに」
「読まんでいい」
ダルクが真顔で言った。
「空気を読む奴は、あそこで黙る。黙られたら、儂は今も騙されたままだ」
ダルクが銀貨の袋を机に置いた。
「特別手当だ。取っておけ」
「え、いいんすか!?」
「いい。……お前、うちの商会をどう思う」
「……いい商会だと思うっすよ。ダルクさんは数字で嘘つかないし、ベルクさんは真面目だし。あとリナさんの飯がうまい」
「最後のは商会と関係なかろう」
「大アリっすよ。あの飯があるから毎日頑張れるんで」
ダルクが笑った。
今度は目も笑っていた。
「明日から給金を上げる。これからも頼むぞ、コロ」
「コウっす! ダルクさんまで定着させないでください!」
◆ ◆ ◆
夜、川風亭。
「コロちゃん、聞きましたよ。大手柄だったんですって?」
リナが今日も肉多めの飯を運んできた。
「手柄っていうか……なんか、勝手に大事になってたっす」
「父がね、『あいつは数字の前では嘘がつけん男だ』って。褒めてましたよ」
「褒められてんのかなあ、それ」
「で、特別手当出たんでしょ?」
「なんで知ってんすか」
「父から全部聞いてます」
リナがにやりと笑った。
「銀貨、なくさないでくださいね。財布ごと」
「……善処します」
「あ、目が泳いだ。ちょっと、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫っす! 今日はちゃんと腰紐に結んで……あれ」
「ちょっと!?」
「あ、あった。服の下に入れてた。びっくりした……」
「こっちがびっくりですよ!」
リナが叫んで、それから二人で笑った。
窓の外、川の水面に月が揺れていた。




