数字が読める男は、引く手あまただった
ダルクが川風亭に来たのは、翌日の夕飯時だった。
「コウさん、父が来ましたよ」
「お、マジすか」
前田は飯を掻き込んでいる最中だった。慌てて立ち上がろうとして、膝でテーブルを蹴った。ガシャン。スープの器がひっくり返った。「あっっっぶな!」器は前田がキャッチした。中身は全部テーブルの上だった。
「……何をやっとるんだ、お前は」太った男が呆れた顔で立っていた。禿げていて、よく笑いそうな顔なのに、目だけは笑っていない。
「すんません! いま拭きます!」
「コロちゃん、いいから座ってて。余計ひどくなるから」
リナが手際よく拭きながら言った。
「面目ねえ……」
「……リナ。こいつが例の面白い冒険者か」
「そうそう。ね、面白いでしょ」
「まだ何も面白いところを見とらんが」
ダルクが向かいに座った。
「いや、皿をひっくり返して自分で受け止めたのは初めて見たな」
「どうも、コウっす」
「ダルクだ。リナの父で、商会をやっとる」
「リナから聞いた。荷物、動かすのが好きだと」
「好きっす!」
「即答か」
ダルクが酒を頼んだ。
「どこの出だ」
「遠いところっす」
「計算は」
前田は口に入れた豆を、もぐもぐしながら考えた。前世の晩年、前田は暇だった。65歳、独身、趣味なし。夜は長かった。で、スマホでYouTubeを見ていたら、ある日おすすめに数学の解説動画が出てきた。暇つぶしに見始めたら、これが面白かった。中学数学が終わり、高校数学に進み、気づいたら微分積分をやっていた。現場の若い連中には内緒だった。「前田さんが微積分?」と絶対笑われるからだ。まさかそれが、異世界で役に立つとは。
「計算、できますよ。結構」
「結構、とは」
「足し算引き算掛け算割り算は当然として……変化していく数字の計算とか」
ダルクの眉が動いた。「変化していく数字?」
「荷物の量が毎月増えてくとして、半年後に倉庫が足りるかどうか、とか」
ダルクが黙って懐から帳簿を出した。
「先月の売り上げだ。今月は二割増える見込み。来月はさらに一割五分増える。三ヶ月後の売り上げは」
「紙とペン借りていいすか」
リナがすぐ持ってきた。
前田はさらさらと計算して、数字を書いた。
「これくらいっすね」
三十秒だった。
ダルクが数字を見た。
長いこと黙っていた。
「……合っとる」
「お、やった」
「儂が一晩かけて出した数字と同じだ」
「一晩!? そりゃ大変だ」
「三十秒で出した男に言われたくないわ!」
ダルクが叫んだ。
リナが噴き出した。
「ね、面白いでしょ」
「小僧、その計算、どこで覚えた」
「え、えっと……独学っす。暇な時間が長かったんで」
「独学であれができるか」
「できたんすよねえ、これが」
「コウ。うちで働かんか」
「え、いいんすか!?」
「帳簿の計算を手伝ってくれ。報酬は出す」
「やります! あ、でも冒険者の依頼もたまにやりたいんすけど」
「構わん。掛け持ちでいい」
「っしゃあ! よろしくお願いします!」
前田が勢いよく頭を下げた。
その拍子に、額がテーブルの角に当たった。
ゴン。
「いっっった!」
「……本当に大丈夫か、こいつは」
「大丈夫大丈夫。コロちゃんはこういう人だから」
「コロちゃん?」
「あ、あたしがつけたあだ名。似合うでしょ」
ダルクが額を押さえてうずくまる前田を見た。
「……確かに、コウよりコロだな」
「ダルクさんまで!?」
◆ ◆ ◆
翌朝から、ダルク商会に通い始めた。
初日、さっそくやらかした。
「おはようございまーす!」
元気よく扉を開けたら、扉のすぐ裏に立っていた従業員に直撃した。
「ぶっ!?」
「うわ、すんません! 大丈夫すか!?」
倒れた若い男——ベルクというらしい——は、鼻を押さえながら前田を睨んだ。
「……お前が新入りか」
「コウっす! よろしくっす!」
「……ダルクさんも何を拾ってきたんだか」
第一印象は最悪だった。
でも午後には、状況が変わった。ダルクに言われて帳簿の計算を始めた前田は、山積みの帳簿を次々と処理していった。ベルクが半日かかる計算を、四半刻で終わらせた。
「……おい、それ全部確認したのか」
「しましたよ。あ、ここ、写し間違いがあったっす。この数字、前のページと合ってないんで」
ベルクが確認した。
確かに間違っていた。
「……なんで一瞬でわかるんだ」
「数字の並びって、流れがあるんすよ。流れを見てれば、詰まってるとこがわかる」
「流れ?」
「荷物と同じっす。流れを見てれば、詰まってるとこがわかる」
その日の帰り、ベルクは前田に酒を一杯おごった。
「朝の詫びだ」
「ごちそうさまっす!」
「ただし明日から扉はゆっくり開けろ」
「はいっす!」
翌朝、前田はゆっくり扉を開けた。
そして敷居につまずいて転んだ。
「だから、なんでだよ!」
ベルクの叫びが商会に響いた。
◆ ◆ ◆
夜、川風亭に戻ると、リナが待ち構えていた。
「コロちゃん、商会デビューどうでした?」
「バッチリっすよ。計算めっちゃ褒められました」
「へえ、すごいじゃないですか」
「初日に扉でベルクさんの鼻を強打して、二日目に敷居で転んだ以外は完璧っす」
「台無しじゃないですか」
リナがけらけら笑って、飯を出した。
今日は肉が入っていた。
「あれ、昨日より豪華じゃないすか?」
「父が『あいつは食わせておけ』って」
「ダルクさん、いい人だなあ!」
「『計算だけは化け物だからな』って言ってましたよ。計算だけは、って」
「だけは、は余計っすよねえ!」
飯は、今日もうまかった。
前世では、何者にもなれなかった。でもこの世界では、たった数日で「計算の化け物」になっている。YouTubeのおっちゃん、ありがとな。あんたの動画、異世界で役に立ってるよ。




