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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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19/30

歪みの在処

 ヨルはナギが石の上で熱を起こした瞬間を、何度も頭の中で再生していた。


 接触なし。風でもない。石の表面が赤くなった。空気の中の何かを直接動かした、とナギは言った。


 口伝の第一節に「空気を押し、水を動かし、地を揺らす」とある。三種類の現象が挙げられている。だがナギが今起こしたのは熱——属性として、四つ目にあたる。口伝には書かれていない。


 書かれていないのか、失われたのか。


 ヨルには判断できなかった。


 口伝には欠落がある。それは枯尾根の欠片で確認した。刻み文字のうち、対応する音が見つかったのは十二記号中の三つか四つだった。残りは不明だ。書かれていないのではなく、失われた可能性が高い。


 あの欠片には、まだ読めない部分がある。


 ナギの成長は速い。


 ヨルは自分の小屋の中で、暗くなってからも眠れずに坐っていた。壁の獣骨に背を当てて、川の音を聞いた。


 速すぎる。


 一日に一つずつ、新しいことができるようになっていた。名前がついてから精度が上がった。視覚が開いた。熱を起こした。ヨルには実感の速度が追いつかない。三十年、口伝の中でしか存在しなかった力が、今目の前で毎日進化している。


 それは嬉しい。


 ヨルには正直、嬉しさがあった。長年保ってきた言葉が——証明されるわけではないが、生きていると確認できる。


 だが同時に、恐ろしかった。


 第五節が繰り返し頭の中に来た。


 「賢者が最後の言葉を空の目に遺した。もし人が再び蟲に触れたなら、止めよ」


 止めよ。


 空の目はまだある。口伝の中でも、幕間のAIの存在を知るヨルでも——空の目が百四十八年間ずっとそこにあることを、ヨルは骨で知っていた。崖の縁でナギが何かを見た夜、ヨルも空を見た。何も見えなかった。見えないが、ある。


 ナギの力が強くなるほど、空の目に近づく。


 その論理は単純だった。単純すぎて、どこかで間違っているかもしれないとヨルは思ってきた。だが今夜は間違っていないかもしれないという気持ちのほうが強かった。


 ナギが今日、石の上で熱を起こしたとき——その目が静かに光っていた。驚いていなかった。できることを確認する目だった。あの年齢で、あれほど落ち着いて力と向き合っている。


 それが余計に怖かった。


 力が速く伸びるということは、空の目への距離も速く縮まるということだ。口伝が「止めよ」と命じた先にあるのは何かを、ヨルは今夜も考えていた。力を使えなくするのか。それとも——使う者を消すのか。どちらかわからないまま、ナギに力の訓練をさせている。その矛盾を六十三年の判断力でどう整理すればいいか、ヨルにはまだわからなかった。



 口伝を最初から最後まで、声に出さずに確認した。


 今夜は第三節と第四節の間を何度も反復した。


 第三節の末尾。「蟲はすべての人の血に入った」。


 第四節の冒頭。「賢者が繋がりを断ち切ると、蟲は人の体から去り、水に帰り、土に帰り、空気に戻った」。


 ヨルはこの二節を並べて、止まった。


 何かが引っかかる。


 今夜初めて気づいたわけではない。以前から違和感はあった。だがナギから枯尾根の欠片を見せられて以来、その違和感が大きくなっていた。証拠が出た。口伝は嘘ではないが、不完全だという確信ができた。


 もう一度、引っかかりを言葉にしようとした。


 第三節——「蟲はすべての人の血に入った」。全員の体に入ったということだ。


 第四節——「賢者が繋がりを断ち切ると、蟲は体から去った」。繋がりが切れたから蟲が去った、ということだ。


 だが——


 繋がりを切ることと、体から蟲が去ることは、同じではない。


 ヨルは頭の中でゆっくりと考えた。川の音が続いていた。


 たとえば——獣の縄を切れば、獣は去るかもしれない。だが縄があって繋がれていたから、獣はそこにいたのか。縄がなくても、そこに居場所があれば獣はいる。縄を切ることは、居場所を消すこととは違う。


 蟲が「人との繋がり」で人の体にいたのか、それとも「体の中に住み着いた」のか。


 口伝では「繋がりが切れた」とある。繋がりを命令や信号のようなものと解釈すれば——命令が切れても、住んでいるものは去らない。


 だとすれば、第四節の「蟲は体から去った」は——正確ではない可能性がある。


 ヨルの呼吸が浅くなった。


 蟲はすべての人の血に入った。繋がりが切れた。だが蟲は去らなかった——眠ったのだ。体の中で、代を継ぎながら、眠った。だから七代後のナギの中で目覚めた。


 それが真実に近いのかもしれない。


 だとすれば、口伝の第四節は「蟲は人の体から去った」ではなく「蟲は眠りについた」であるべきだった。


 ヨルは天井の骨を見上げた。


 何年も、何百回も繰り返してきた言葉が、今夜は違って聞こえた。


 自分が守ってきた口伝が、間違いを含んでいる。


 これは裏切りではない。伝えた人も、受け取った人も、嘘をつくつもりはなかった。ただ百四十八年という時間は長すぎた。三代の伝言、四代の伝言——各代で一部が変質した。「去った」と「眠った」は、日常の文脈では近い言葉かもしれない。だが結果は全く違う。


 矛盾している。


 第三節と第四節は、内部で矛盾している。


 これは小さな矛盾ではない。「どこへ去ったか」の問題だ。去ったなら、ナギの体にいるはずがない。眠ったなら、七代後に目覚めることができる。口伝の第四節が「去った」と伝えているなら、ナギの存在そのものが、口伝の説明と矛盾する。ヨルは今夜、その矛盾を正面から見た。


 ヨルは目を閉じた。


 六十三年生きてきた。三十年以上、この口伝を守ってきた。それが歪んでいる、と今夜、確信に近い気持ちで認めた。


 では——捨てるべきか。


 ヨルは胸の中でその問いと向き合った。


 捨てない、という答えが来た。


 迷いなく来た。


 欠片の刻み文字の、三つか四つが一致した。一致した。それは本物だ。口伝の核心は——「蟲がいた」「空の目がある」「断絶があった」——それらは本当だ。証拠がある。周辺の細部が歪んでいても、核心は生きている。


 歪んだ真実と、真実でない嘘は、違う。


 口伝は歪んだ真実だ。嘘ではない。


 ヨルは息を吐いた。


 目を開けた。暗い天井がある。獣骨の梁が三本。父が組んだ骨だ。父も口伝を守った。父もまた「確かではないが」と言いながら語った。その父も、矛盾を感じながら生きたかもしれない。


 それで十分だ、と思った。完璧でなくていい。歪みを知ったうえで、なお持ち続けることができる。


 ただ——


 もう一つの問題がある。


 第三節と第四節の矛盾を受け入れると、第五節もまた問い直さなければならない。「人が再び蟲に触れたなら、止めよ」——この「触れた」とは何を意味するのか。生まれつき蟲を持っていたナギは、「触れた」のか。「再び触れた」のか。


 口伝は答えを持っていない。


 ヨルは答えを持っていない。


 わからないまま、抱えていくしかない。歪んだ言葉を、矛盾を知りながら、それでも手放さずに。


 ヨルは壁の骨に背中を押し当てた。骨は夜の寒さで冷えていた。小屋の中も、外も、同じ温度になっていた。灯りは消えていた。


 暗い天井が見えていた。


 父の声で口伝を繰り返してきた。師のヨウコの声で繰り返してきた。それらの声が今夜は聞こえない。自分の声しかない。矛盾を知った上での自分の声で——口伝はまだそこにある。


 川の音が変わらず流れていた。


 ヨルはまだ眠れなかった。でも、眠れないことを、今夜は責めなかった。これだけのことを考えたあとで眠れる人間は、何かが足りないのだと思った。


 夜が深くなった。小屋の中の空気が冷えた。ヨルは獣皮の上掛けを引き寄せた。口伝は頭の中で続いていた。第一節、第二節——声には出さず、音だけが巡っていた。矛盾を知った言葉が、それでも巡り続けていた。


 それが口伝だ、とヨルは思った。止まらない。疑っても、矛盾を知っても、体の中を流れ続ける。三十年で、そういうものになってしまった。


 夜明けの前が最も暗い時間に、ヨルはようやく目を閉じた。眠れるかどうかはわからなかった。だが横になった。体を横にしながら、口の中で第一節の冒頭だけを繰り返した。「かつて人は蟲を飼っていた」——その言葉が、いつもの場所に落ち着くのを感じた。


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