目が開く
訓練が変わった。
名前がついた、ということが、これほど違うとは思っていなかった。
ヨルから蟲の話を聞いた翌日から、ナギの力の感じ方が変わった。腹の底から来る圧を、以前は「力」と呼んでいた。ただの名のない衝動として処理していた。今はそれを「蟲が動いている」と捉えている。体の中に何かがいて、それが自分の意思に応じようとしている。
そう思うと、制御のやり方が変わった。
押し出すのではなく、話しかけるように。
上手く言葉にできないが、ナギにはそれが一番近い表現だった。圧を高めて解放するのが以前のやり方だったとすれば、今は圧を高める前に、方向と強さを先に決める。蟲に「こちらへ」と示してから、動かす。
精度が上がった。
ヨルは三日目に「風の刃」の訓練を出した。空気を扇型に圧縮して、正確に前方へ放つ。幅三十センチ以内に収める。以前のナギなら一時間かかって三回成功したかどうか、という課題だった。今は一刻で十二回成功した。
「なぜこうなる」ヨルが言った。
驚きというより、確認している口調だった。
「名前がついたから」ナギは答えた。「蟲って思うと、どこに向かえばいいかがわかる」
「蟲に向かってどう指示する」
「言葉じゃない。感覚だ。こっち、と思うと——来る」
ヨルはしばらく黙っていた。
口伝の第一節に、「力を持つ者が蟲と繋がり、蟲の力を使った」とある。繋がり。ナギはその言葉を訓練中にヨルから何度か聞いていた。意味はわからなかったが、今日の感覚で初めて具体的な像が結んだ気がした。
「熱も試してみろ」
ヨルが言った。
ナギは地面の石を一つ選んで、掌を向けた。
圧縮熱は以前から使えた。空気を圧縮すれば摩擦で熱が出る。だが今日は少し違う使い方を試みた。空気を動かすのではなく、空気の中の分子——そういう言葉はナギの中にないが、「細かい何か」という感覚はある——を高速で動かすことに意識を向けた。
石の表面が赤くなった。
ならないはずだった。これほど短時間では。
「なんだ、今の」ヨルが言った。声が変わっていた。
「速く動かした。空気じゃなくて、空気の中の何かを」
「空気の中の何かとは」
「わからない。でも、蟲と同じ感じがした。蟲に『速く動け』と言った」
石の表面がじわじわと黒ずんでいた。接触せずに石を焼いていた。風系の力ではなく、熱そのものだ。
ヨルの表情が変わった。
驚きと、恐れが半分ずつ混ざった顔だった。
変化が起きたのは、森の縁での訓練中だった。
春の午後、風が強くなった日だった。台地の端に立って、下方の気流を操る練習をしていた。崖下から吹き上がる風を掴んで、方向を変える。これは体力よりも感度の問題で、ナギは得意だった。
一瞬、視界が切り替わった。
目の前の空気に、光が見えた。
青い粒子だった。
無数の、ごく小さな光の点が、空気の中を漂っていた。均一ではない。木の周りに濃く集まっていた。地面から空へ向かって、上昇する流れがあった。集落側より、森側のほうが密度が高かった。光は動いていた。生きているように、一定のリズムで明滅しながら漂っていた。
ナギは声を出さなかった。
声を出すと消えるような気がした。
じっとして、見た。
美しかった。
何かが、美しかった。崖下の青い森が、今まで見たことのない密度で光っていた。一本一本の木の周りに青い光がまとわりついて、梢から空へ糸のように伸びていた。光の糸は見えない高みまで続いていて、どこで終わるかわからない。
それが怖かった。
美しさと恐ろしさが同時にあった。
蟲だ、とナギは思った。
これが蟲だ。空気の中にいる、目に見えないはずのものが、見えている。
「ナギ」
ヨルの声がした。
視界が元に戻った。普通の空気、普通の光、普通の森。青い粒子は消えていた。
「今、何かあったか」
ヨルが近づいてきていた。ナギの顔を見て、何かを察した顔をしていた。
「見えた」ナギは言った。
「何が」
「蟲が。空気の中に。青い——粒みたいなものが。木の周りに多かった。地面から空に向かって、流れていた」
ヨルはしばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
「一瞬か」
「そう。すぐ消えた」
「また見えるか」
「わからない。やってみる」
ナギは目を細めた。意識を蟲に向けた。「見せてくれ」と、言葉ではなく感覚で、体の中の何かに向けた。
光が戻ってきた。
今度は薄かった。最初ほど鮮明ではない。だが確かにある。青い粒子が空気の中に浮いていた。
「ある」
「どこに多い」
「木の周り。森の方向。集落側はもっと薄い」
「高さは」
「上の方に多い。地面より、空の方向に流れていく」
ヨルはまた長く沈黙した。
ナギは光を見たまま待った。視界の中で、粒子がゆっくりと上昇していた。消えるまで見ていたかった。
夜、崖の縁に出た。
月が出ていた。薄い月だった。春の月は早く沈む。
ナギは岩の上に腰を下ろして、崖下を見た。昼とは別の光景があった。夜は粒子が見えやすかった。暗い背景の中で、青い光がより鮮明に浮き上がる。
森全体が光っていた。
昼間に見たものとは段違いの密度だった。木一本一本が淡く青く発光していた。蔓が網のように光を伝わらせていた。地面から青い霧のような光が立ち上がっていた。
崖下の、底白川の水面にも光があった。水の中にも蟲がいるのだと、今初めてわかった。
そして——
森の奥に、渦があった。
遠い。台地から見て、おそらく半日以上かかる場所だ。だが夜の暗さの中では光が届いた。そこだけ、圧倒的に密度が高い。周囲の光が吸い込まれるように、その一点に向かって流れを作っていた。渦。粒子が渦を巻いている。
以前にも見た気がした——いや、見た。あの夜、一人で崖の縁に座っていたとき、森の底で点滅していた白い光。あれはこれだったのだ。あの光の正体が、今夜初めてわかった。
ナギの足が、岩の上でわずかに動いた。
あそこに向かう必要がある、と体が言っていた。
言葉ではなく、引力だった。蟲が示していた。向こうに行けと。向こうに何かあると。
森の深みに、光の渦があった。
ナギはまだそこへ行っていない。でも足は既に、準備を始めていた。




