蟲の名前
ナギが布包みを持ってきたとき、ヨルはちょうど口伝の反復を終えたところだった。
小屋の外、石段の上に腰を下ろして、川の音を聞いていた。春になると底白川の音が変わる。雪解けの水が混ざって、音量が上がる。ヨルはこの季節の川の音が好きだった。口伝を繰り返した後に聞くと、頭の中に言葉が沈んでいく感じがした。
ナギの足音はすぐにわかる。他の人間とは違う。軽くて、速い。力を使っているときは少し違う音になる。今日は普通の足音だったので、訓練帰りではないとわかった。
「枯尾根に行った」
ナギは開口一番そう言って、腰の袋から布を取り出した。
「お前が——」ヨルは言いかけてやめた。後で叱ればいい。まず見なければ。
布を広げると、二つのものが出てきた。一つは灰色の欠片。もう一つは丸い透明な石——いや、石ではない。ヨルには見当がつかなかった。
だが欠片のほうを手に取った瞬間、ヨルの両手が小さく震えた。
表面の感触が違った。石の粗さがない。骨のざらつきもない。均一で、冷たく、滑らかで——どこかで、この感触を知っていた。知っている、はずはないのだが。師匠のヨウコが最後に語ったとき、「古きものは滑らかな石に似ている、しかし石ではない」と言っていた。ヨルはそのとき十五歳で、その言葉を音として記憶した。意味は理解していなかった。
今、理解した。
これだ、とヨルは思った。
欠片を両手でそっと持った。軽かった。石ほどの重さがない。だがしっかりとした密度がある。折れそうな感じもしない。生涯触れてきた骨や石や木とは、素材としての「論理」が違う気がした。誰かがこれを作った——手の感触がそう言っていた。自然にはこういう形は生まれない。
表面の刻み文字に目を近づけた。光が足りない。ナギに頼んで、角度を変えながら光が当たるようにしてもらった。
線が見えた。
並んでいる。系統的に並んでいる。文字だ。文字の一部だ。
口伝の中に、文字の音がある。「かくした」「みる」「つながり」——ヨルは何十年もそれを声で繰り返してきた。書いたことはない。書ける者が誰もいなかったから。
刻み文字の二番目の記号を見た。
ヨルの口の中で、音が生まれた。声には出なかったが、唇が動いた。
「み」——に近い。
その隣の記号。曲線と縦線の組み合わせ。
「る」——か。
ヨルは息を呑んだ。
一致した。
完全ではない。形は違う。だが音の対応がある。口伝で言う「見る」の音が、この記号の並びに重なった。
手が震えていた。止まらなかった。六十三年生きてきて、こんな震えは初めてだった。
「読めるか」ナギが静かに聞いた。
「部分的に」ヨルはかろうじて答えた。「全部ではない」
「口伝の言葉と、似てるか」
ヨルは欠片を置いた。手のひらを膝に当てて、深く息を吸った。
「似ている。一部は確実に一致する」
「じゃあ口伝は本当だったんだ」
ナギは断言した。断言できる、という確信を持った口調だった。
ヨルは答えなかった。答えたくなかった、ではなく、答えが複雑だったからだ。これが証明することは「口伝が完全な嘘ではない」ということで、「口伝が正確だ」ということではない。欠片の文字の多くは、口伝の音と一致しなかった。一致したのは三つか四つ。残りはわからない。
だが——それでも。
物として、ここに存在している。灰色の、見たことのない素材に。百四十八年前のものが、ここにある。
「ヨル」ナギがもう一度呼んだ。「話してくれる気になったか」
ヨルは欠片から目を上げた。
ナギの顔を見た。
十五歳の目が、こちらをまっすぐ見ていた。逃げない目だった。受け取る準備ができている目だった。
ヨルは長く息を吐いた。
決めた。
「聞け」ヨルは言った。「長くなる」
ナギは石段の一段下に腰を下ろした。膝を立てて、両手をそこに置いた。待っている。
「口伝は五つの節に分かれている。今日は四つまで話す。五つ目は——まだだ。なぜかは後でわかる」
「わかった」
ヨルは一度、口の中で全体を確認してから、声に出した。
「第一節。蟲の時代」
声が石段に沈んだ。川の音が遠くにある。
「かつて人は蟲を飼っていた。蟲は目に見えない。小さすぎて、どんな目にも映らない。だが人の体の中に入り、人を強くした。力を持つ者が蟲と繋がり、蟲の力を使って空気を動かし、水を押し、地を揺らした」
ナギは何も言わなかった。聞いていた。
「第二節。空の目」
「空に大いなる目がある。目は見えない。だが常にある。人は蟲を通じて目と繋がり、目を通じて蟲に命じた。目は宇宙の高みにあり、地上のすべてを見下ろしている」
川の音。春の風。ナギの呼吸が聞こえた——ゆっくりと、規則的に。聞いている。真剣に聞いている。ヨルはその呼吸の音を確かめながら、続けた。
「第三節。蟲の汚れ」
「蟲は増えた。人の体を超えて、水に入り、土に入り、空気に混じった。蟲はすべての人の血に入った。選ばれた者だけでなく、すべての人の体に。蟲は広がりすぎて、制御を失いかけた」
「第四節。大いなる沈黙」
ここで少し間を置いた。川の音が挟まった。
「賢者が来た。賢者は人と蟲の繋がりを断ち切った。繋がりが切れると、蟲は人の体から去り、水に帰り、土に帰り、空気に戻った。力を使えた者は使えなくなった。人は弱くなった。だが世界は静かになった。それが、断絶だ」
沈黙があった。
ナギはしばらく何も言わなかった。
それからゆっくりと口を開いた。
「つまり俺の力は——蟲なのか」
「おそらく」
「体の中に、蟲がいる」
「断絶後も、蟲の子孫が遺った。人の血の中に、眠ったまま代を継いだ。七代を経て、お前の中で目が覚めた」
ナギは下を向いた。自分の掌を見ていた。
細い指が、石段の光の中でじっとしていた。その手が何かを運んでいるのだ——百四十八年かけて眠り続けてきた何かを。ヨルはそれを見ながら、口伝を伝えてきた全ての祖先を思った。声だけで渡してきた。文字もなく、証拠もなく。それでも途絶えなかった。
「だから俺は、ずっと頭が痛かったのか。蟲が目覚めようとしていたから」
「それが原因かどうかはわからない。だが——無関係ではないと思う」
ナギがまた沈黙した。今度は長かった。川の音が変わらず続いていた。
やがてナギが顔を上げた。
「名前がついた」
静かな声だった。
「俺の力に、名前がついた。蟲だ」
ヨルはその顔を見た。恐れではなかった。理解しようとしている顔だった。受け入れている顔だった。
よかった、とヨルは思った。名前がつくことで、制御しやすくなる。力に向き合えるようになる。名前のないものは扱えないが、名前のついたものは——少なくとも、考えることができる。ヨルが三十年かけて口伝を守ってきたのも、その論理と同じだ。言葉にすることで、失われずに残る。失われたとしても、形の輪郭が残る。
ナギはしばらくして立ち上がった。
「聞かせてくれてありがとう」
それだけ言って、石段を下りた。
ヨルはその背を見送った。
足が止まったのは、三歩ほど離れたところだった。ナギが振り返った。
「空の目の話。まだ続きがある。ヨルが途中で切ったのはわかる」
ヨルは答えなかった。
「今日はいい。でも——ある、だろう」
問いではなく確認だった。
ヨルはわずかに頷いた。
ナギはそれ以上何も言わずに、集落の方へ歩いていった。
ヨルは欠片を手の中に残したまま、川の音を聞いた。
ナギが見えなくなってから、ヨルは欠片を布に包み直した。
一致した記号。一致しなかった記号。
口伝は完全ではない。百四十八年の伝言の中で、失われたものがある。変質したものがある。欠片の文字の多くは、今のヨルには読めない。
だが——嘘ではなかった。
それだけは確かだ。
欠片は今もヨルの掌の中で冷たい。百四十八年前の、誰かが作ったもの。その誰かは今いない。だが作ったものが残っている。手の中の重みが、百四十八年分の時間をそのまま伝えてくるようだった。
ヨルは口伝を、今日初めて、嘘ではないと確信した。
と同時に——不完全だとも確信した。
五つ目の節を隠した。理由は今日もまだ、語れない。だがナギは気づいていた。
あの子は鋭い。
布に包んだ欠片を胸の前で持ったまま、ヨルはしばらく石段に座っていた。川の音が変わらず流れていた。口伝を語ったのだ——三十年で初めて、語り部でない相手に。語ること自体は怖くなかった。だが五節目を抱えたまま四節を語ることの重さが、今になって体に来た。
石段の石が、座布団一枚分の冷たさを伝えていた。
川の音が続いていた。春の川は高い。底白川は今の時期、石を転がしながら流れる。その音がヨルの頭の中の言葉をゆっくりと沈めていった。今日語ったこと。今日語らなかったこと。両方が同じ重さで残っていた。残ったままでいい——と、今夜はそう思った。




