枯尾根
早春が来た。
澄ヶ淵の春は泥臭い。雪解けの水が台地の端から滲み出て、石畳の隙間を濡らす。霜が溶けると土が柔らかくなって、歩くたびに足が沈む。それ自体は毎年のことだった。
変わったのは、春を告げるものが別にもあることだ。
蔓が動く。一晩で。
冬のあいだは凍りついていた青い蔓が、気温が上がるたびに数センチずつ伸びる。引き抜いても、翌朝には元の位置まで戻っている。冬のあいだ石壁の際で止まっていたものが、三月に入ると壁の上まで這い登ろうとした。毎朝、集落の東側の当番が引き剥がしに来る。それでも追いつかない。
ナギはその仕事を引き受けていた。
引き受けた、というよりも、ナギ以外にできる者がいなかった。蔓を手で引き剥がすのは時間がかかる。鎌では切れるが根が残る。火は危ない。だがナギには別の方法があった。
掌を壁に向けて、息を吐く。
空気を圧縮する。手のひらの内側に意識を集めて、気道を絞るように、細く、深く。そこから圧力を開放すると、空気が激しく擦れる。高温になる。摩擦熱で蔓の表面が炙られ、一瞬で萎む。根まで焼けることはないが、地表の茎が枯れると再生に数日かかる。それだけで十分だった。
最初にこの使い方を試みたのは、ヨルとの訓練の中だった。「空気を動かすだけでなく、圧縮してみろ」とヨルに言われた。その意味がよくわからないまま試したら、摩擦で石の表面が黒ずんだ。それから少しずつ制御を覚えた。今では狙った箇所だけを焼ける。
毎朝一時間。東壁を二往復。蔓は枯れ、ナギは汗をかく。
魔石のおかげで頭痛は出ない。訓練を始めてから手に入れたあの石が、力の暴走を抑えている。腹の底の圧が安定している。以前なら感情の波に引きずられて制御不能になっていたところが、今は自分の手の中にある。そう感じる。
ヨルはそれを見て「よくなった」とだけ言った。褒め言葉ではなく、確認するような口調だった。
東壁の作業を終えた朝、ナギはミノリを待った。
石壁の内側の、集落でいちばん日当たりのいい岩の上だ。ミノリは少し遅れて来た。息を切らしている。
「待たせた。カヤに捕まった」
「なんで」
「狩りに連れて行こうとした。今日は断った」
ミノリが岩の横に座った。ナギより一歳上の、十六歳の女だ。肩幅があって、手が大きい。狩り向きの体つきだが、本人は植物のほうが好きだと言う。
「枯尾根、今日行けないか」
ミノリが問い返した。「枯尾根か」と低く言って、少し考えた。
「三年前に森に飲まれた場所だろう。誰も近づかないのに」
「だから行きたい。何か残ってるかもしれない」
「何が」
ナギは少し迷ってから言った。
「わからない。でも、森が集落を飲むときに何を最初にするか、見てみたい。向こうの廃屋を見れば、順序がわかるかもしれない。どこを先に固めるか、どこから壊れるか」
ミノリは黙って聞いていた。ナギの言うことを否定する習慣がないのがミノリのいいところだ。
「それがわかると、防げるのか」
「わからない。でも知らないよりはいい」
ミノリは空を見上げた。薄い雲が流れていた。風の向きが確認できるような、細かい雲だ。
「昼前には戻る。そういう約束なら行く」
「助かる」
ナギは立ち上がった。力の底が、今日は穏やかだった。安定している。行けると思った。
魔石を胸ポケットに確認した。布越しに温かさが返ってくる。この石を持ってから、外に出るのが怖くなくなった。蔓を焼くときも、力が乱れない。自分の手の中にあるという感覚が、精神的な安心につながっている。道具なのか、体の一部なのか、もうわからない。
枯尾根は台地の南東にある。
三年前まで十八人が暮らしていた集落だった。今は誰もいない。森に追われて、澄ヶ淵に合流した人々が何人かいた。シズがその一人だとナギは聞いたことがある。
石壁の外に出て、南の森の縁に沿って歩いた。ナギが先に立ち、ミノリが後ろをついてくる。会話は少ない。森の縁は音が重い。蔓の葉が風に揺れるときの音と、木の内部で何かが動くような低い振動が混ざっている。気のせいかもしれない。だが気のせいではないかもしれない。
蒼い葉は冬のあいだも落ちなかった。今は早春の光を受けて、少し明るい色になっている。綺麗だとは思わない。ただ、見続けてしまう色だ。木の幹にも同じ色の苔が這っていて、根元には発光する菌類がある。夜に来れば光るのかもしれない。昼間でも、近づくと空気が違う。重く、少し甘い匂いがする。
魔石が軽く熱を持った。
ナギは立ち止まった。胸ポケットの石を指先で確認した。いつも同じ温度だが、今は少し高い。力が動いていた。環境のナノマシン濃度が上がっているのかもしれない——そういう言葉はまだナギの中にないが、感覚はある。近づくほど、腹の底の圧がわずかに上がる。
「大丈夫か」ミノリが声を低くして言った。
「平気。石がある」
枯尾根に着いたのは二刻ほど歩いてからだった。
最初は気づかなかった。石壁だったものが青い蔓に完全に覆われていて、輪郭が消えていた。近づいて初めて、壁の下に石が見えた。ナギは蔓に掌を向けて、細く圧縮熱を当てた。蔓が萎んで、石の表面が出てきた。
石の組み方は澄ヶ淵と同じだった。
家の形がわかるくらい壁が残っている場所もあった。屋根は落ちている。木の部分はすべて蔓に分解されて、石と骨だけが残っていた。ミノリが骨の柱の残骸を見て、「これ、マガリウシじゃないか」と言った。「三年でここまで変わるのか」と。
ナギは何も言わずに先へ進んだ。廃屋の間を歩くたびに、蔓が足を引っかけようとする。枯れているように見えて、踏むと弾力がある。生きている。ナギは魔石を握り直した。
広場だったと思われる開けた場所の端に、地下への石段があった。
半分、蔓に埋まっていた。
石段を降りた先は、貯蔵庫だった。
天井が低く、空気が冷たい。石の床に、割れた壺と何かの欠片が散らばっていた。蔓はここまでは届いていなかった。光が少ない。ミノリが外から差し込む光を反射する鏡板——磨いた骨の薄板——を取り出して照らした。
壺の欠片は陶器だった。これは澄ヶ淵でも使う。問題ない。
だが、壁の隅に積まれたものが違った。
灰色の塊。表面が滑らかで、どの石とも違う。骨でもない。ナギは近づいてしゃがんだ。触れると冷たく、硬い。叩くと石とは違う音がする。鈍い、詰まった音だ。
「なんだこれ」
「知らない」ミノリが言った。「見たことがない」
灰色の塊は五つあった。一つは割れていて、断面が見えた。中が均一だった。石の断面は粒が見えるが、これは粒がない。完全に均一な灰色だ。
ナギはその割れた欠片を手に取った。手のひらに乗るくらいの大きさだった。重い。
もう一つのものに気づいたのはそのときだ。
欠片の隣に、丸い透明な石があった。指の先ほどの大きさ。ガラスより透明で、内部に歪みがない。光を当てると、向こう側が大きく見えた。
ミノリが「なんか曲がって見える」と言った。「遠くのものが近くに見える」
ナギはそれを別の布に包んだ。壊したくなかった。
そして最初の灰色の欠片を、もう一度よく見た。
表面に、何かが刻まれていた。
ミノリに鏡板をもっと近くに当ててもらった。細い線が並んでいる。文字だ。文字のように見える。だが澄ヶ淵では誰もこういう字は使わない。曲線と直線が組み合わさった、見たことのない形。
ナギはその字を声に出してみようとして、やめた。
やめようとして、でもやめられなかった。
一つの記号を見て、声の形を作ってみた。音は出なかったが、口の動きだけ作った。
何かに似ていた。
ヨルの口伝で聞いた言葉に。「かつて人は蟲を飼っていた」——その「蟲」という音に似た形が、確かにそこにあった。
気のせいかもしれない。
でも気のせいではないかもしれない。
ナギは欠片を丁寧に布に包んだ。透明な石と一緒に、腰の袋に入れた。
ミノリが声をかけた。「戻れる? 昼前って言ったから」
「うん」とナギは言った。
地下の空気を吸い込んだまま、最後にもう一度だけ部屋を見渡した。冷たい石の壁、散らばった壺の欠片、蔓の届かない静かな空間。三年前ここで誰かが生活していた。食べ物を保存して、冬に備えて、春を待っていた。そして来た春が、森の蔓と一緒にやってきた。
石段を上がりながら、欠片の重みを腰に感じた。灰色の、見たことのない素材に刻まれた、見たことのない文字。外の光が目に入った。午前の空が高く、雲が薄かった。ここに来る前の澄ヶ淵の空と同じ空だ。なのに、ここは三年前に終わった。空は変わらないが、その下は変わる。
でも——どこかで、聞いたことのある音。
ヨルの話の中に、それがある気がした。もしこれが繋がるなら——
その先を、ナギはまだ言葉にできなかった。夕暮れの空の中に、澄ヶ淵の石壁が見えてきた。ミノリが一足先に走っていた。「昼前に戻るって言ったのに!」という声が風に乗って来た。ナギは小走りになった。腰の袋の中で、金属の欠片が揺れた。




