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最後の語り部が覚えている世界で、最初の魔法使いが生まれた  作者: 蒼月よる


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16/30

枯尾根

 早春が来た。


 澄ヶ淵の春は泥臭い。雪解けの水が台地の端からにじみ出て、石畳の隙間を濡らす。霜が溶けると土が柔らかくなって、歩くたびに足が沈む。それ自体は毎年のことだった。


 変わったのは、春を告げるものが別にもあることだ。


 つるが動く。一晩で。


 冬のあいだは凍りついていた青い蔓が、気温が上がるたびに数センチずつ伸びる。引き抜いても、翌朝には元の位置まで戻っている。冬のあいだ石壁のきわで止まっていたものが、三月に入ると壁の上まで這い登ろうとした。毎朝、集落の東側の当番が引き剥がしに来る。それでも追いつかない。


 ナギはその仕事を引き受けていた。


 引き受けた、というよりも、ナギ以外にできる者がいなかった。蔓を手で引き剥がすのは時間がかかる。鎌では切れるが根が残る。火は危ない。だがナギには別の方法があった。


 てのひらを壁に向けて、息を吐く。


 空気を圧縮する。手のひらの内側に意識を集めて、気道を絞るように、細く、深く。そこから圧力を開放すると、空気が激しく擦れる。高温になる。摩擦熱で蔓の表面が炙られ、一瞬で萎む。根まで焼けることはないが、地表の茎が枯れると再生に数日かかる。それだけで十分だった。


 最初にこの使い方を試みたのは、ヨルとの訓練の中だった。「空気を動かすだけでなく、圧縮してみろ」とヨルに言われた。その意味がよくわからないまま試したら、摩擦で石の表面が黒ずんだ。それから少しずつ制御を覚えた。今では狙った箇所だけを焼ける。


 毎朝一時間。東壁を二往復。蔓は枯れ、ナギは汗をかく。


 魔石のおかげで頭痛は出ない。訓練を始めてから手に入れたあの石が、力の暴走を抑えている。腹の底の圧が安定している。以前なら感情の波に引きずられて制御不能になっていたところが、今は自分の手の中にある。そう感じる。


 ヨルはそれを見て「よくなった」とだけ言った。褒め言葉ではなく、確認するような口調だった。



 東壁の作業を終えた朝、ナギはミノリを待った。


 石壁の内側の、集落でいちばん日当たりのいい岩の上だ。ミノリは少し遅れて来た。息を切らしている。


「待たせた。カヤに捕まった」


「なんで」


「狩りに連れて行こうとした。今日は断った」


 ミノリが岩の横に座った。ナギより一歳上の、十六歳の女だ。肩幅があって、手が大きい。狩り向きの体つきだが、本人は植物のほうが好きだと言う。


枯尾根かれおね、今日行けないか」


 ミノリが問い返した。「枯尾根か」と低く言って、少し考えた。


「三年前に森に飲まれた場所だろう。誰も近づかないのに」


「だから行きたい。何か残ってるかもしれない」


「何が」


 ナギは少し迷ってから言った。


「わからない。でも、森が集落を飲むときに何を最初にするか、見てみたい。向こうの廃屋を見れば、順序がわかるかもしれない。どこを先に固めるか、どこから壊れるか」


 ミノリは黙って聞いていた。ナギの言うことを否定する習慣がないのがミノリのいいところだ。


「それがわかると、防げるのか」


「わからない。でも知らないよりはいい」


 ミノリは空を見上げた。薄い雲が流れていた。風の向きが確認できるような、細かい雲だ。


「昼前には戻る。そういう約束なら行く」


「助かる」


 ナギは立ち上がった。力の底が、今日は穏やかだった。安定している。行けると思った。


 魔石を胸ポケットに確認した。布越しに温かさが返ってくる。この石を持ってから、外に出るのが怖くなくなった。蔓を焼くときも、力が乱れない。自分の手の中にあるという感覚が、精神的な安心につながっている。道具なのか、体の一部なのか、もうわからない。



 枯尾根は台地の南東にある。


 三年前まで十八人が暮らしていた集落だった。今は誰もいない。森に追われて、澄ヶ淵に合流した人々が何人かいた。シズがその一人だとナギは聞いたことがある。


 石壁の外に出て、南の森の縁に沿って歩いた。ナギが先に立ち、ミノリが後ろをついてくる。会話は少ない。森の縁は音が重い。蔓の葉が風に揺れるときの音と、木の内部で何かが動くような低い振動が混ざっている。気のせいかもしれない。だが気のせいではないかもしれない。


 蒼い葉は冬のあいだも落ちなかった。今は早春の光を受けて、少し明るい色になっている。綺麗だとは思わない。ただ、見続けてしまう色だ。木の幹にも同じ色の苔が這っていて、根元には発光する菌類がある。夜に来れば光るのかもしれない。昼間でも、近づくと空気が違う。重く、少し甘い匂いがする。


 魔石が軽く熱を持った。


 ナギは立ち止まった。胸ポケットの石を指先で確認した。いつも同じ温度だが、今は少し高い。力が動いていた。環境のナノマシン濃度が上がっているのかもしれない——そういう言葉はまだナギの中にないが、感覚はある。近づくほど、腹の底の圧がわずかに上がる。


「大丈夫か」ミノリが声を低くして言った。


「平気。石がある」


 枯尾根に着いたのは二刻ふたときほど歩いてからだった。


 最初は気づかなかった。石壁だったものが青い蔓に完全に覆われていて、輪郭が消えていた。近づいて初めて、壁の下に石が見えた。ナギは蔓に掌を向けて、細く圧縮熱を当てた。蔓が萎んで、石の表面が出てきた。


 石の組み方は澄ヶ淵と同じだった。


 家の形がわかるくらい壁が残っている場所もあった。屋根は落ちている。木の部分はすべて蔓に分解されて、石と骨だけが残っていた。ミノリが骨の柱の残骸を見て、「これ、マガリウシじゃないか」と言った。「三年でここまで変わるのか」と。


 ナギは何も言わずに先へ進んだ。廃屋の間を歩くたびに、蔓が足を引っかけようとする。枯れているように見えて、踏むと弾力がある。生きている。ナギは魔石を握り直した。


 広場だったと思われる開けた場所の端に、地下への石段があった。


 半分、蔓に埋まっていた。



 石段を降りた先は、貯蔵庫だった。


 天井が低く、空気が冷たい。石の床に、割れた壺と何かの欠片かけらが散らばっていた。蔓はここまでは届いていなかった。光が少ない。ミノリが外から差し込む光を反射する鏡板——磨いた骨の薄板——を取り出して照らした。


 壺の欠片は陶器だった。これは澄ヶ淵でも使う。問題ない。


 だが、壁の隅に積まれたものが違った。


 灰色の塊。表面が滑らかで、どの石とも違う。骨でもない。ナギは近づいてしゃがんだ。触れると冷たく、硬い。叩くと石とは違う音がする。鈍い、詰まった音だ。


「なんだこれ」


「知らない」ミノリが言った。「見たことがない」


 灰色の塊は五つあった。一つは割れていて、断面が見えた。中が均一だった。石の断面は粒が見えるが、これは粒がない。完全に均一な灰色だ。


 ナギはその割れた欠片を手に取った。手のひらに乗るくらいの大きさだった。重い。


 もう一つのものに気づいたのはそのときだ。


 欠片の隣に、丸い透明な石があった。指の先ほどの大きさ。ガラスより透明で、内部に歪みがない。光を当てると、向こう側が大きく見えた。


 ミノリが「なんか曲がって見える」と言った。「遠くのものが近くに見える」


 ナギはそれを別の布に包んだ。壊したくなかった。


 そして最初の灰色の欠片を、もう一度よく見た。


 表面に、何かが刻まれていた。


 ミノリに鏡板をもっと近くに当ててもらった。細い線が並んでいる。文字だ。文字のように見える。だが澄ヶ淵では誰もこういう字は使わない。曲線と直線が組み合わさった、見たことのない形。


 ナギはその字を声に出してみようとして、やめた。


 やめようとして、でもやめられなかった。


 一つの記号を見て、声の形を作ってみた。音は出なかったが、口の動きだけ作った。


 何かに似ていた。


 ヨルの口伝で聞いた言葉に。「かつて人はむしを飼っていた」——その「蟲」という音に似た形が、確かにそこにあった。


 気のせいかもしれない。


 でも気のせいではないかもしれない。


 ナギは欠片を丁寧に布に包んだ。透明な石と一緒に、腰の袋に入れた。


 ミノリが声をかけた。「戻れる? 昼前って言ったから」


「うん」とナギは言った。


 地下の空気を吸い込んだまま、最後にもう一度だけ部屋を見渡した。冷たい石の壁、散らばった壺の欠片、蔓の届かない静かな空間。三年前ここで誰かが生活していた。食べ物を保存して、冬に備えて、春を待っていた。そして来た春が、森の蔓と一緒にやってきた。


 石段を上がりながら、欠片の重みを腰に感じた。灰色の、見たことのない素材に刻まれた、見たことのない文字。外の光が目に入った。午前の空が高く、雲が薄かった。ここに来る前の澄ヶ淵の空と同じ空だ。なのに、ここは三年前に終わった。空は変わらないが、その下は変わる。


 でも——どこかで、聞いたことのある音。


 ヨルの話の中に、それがある気がした。もしこれが繋がるなら——


 その先を、ナギはまだ言葉にできなかった。夕暮れの空の中に、澄ヶ淵の石壁が見えてきた。ミノリが一足先に走っていた。「昼前に戻るって言ったのに!」という声が風に乗って来た。ナギは小走りになった。腰の袋の中で、金属の欠片が揺れた。


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