第XVIII話 スベリヒユの記憶
翌週の「春の芽」は、梅雨の晴れ間を縫って開店していた。
空はどんよりしていたが、店内にはゆったりとした音楽と、野草の香りが満ちている。
その日、開店直後に現れたのは、先週も訪れたなつみだった。
今日はリュックサックの中から、小さな保冷バッグを取り出して見せた。
「これ、約束通り。スベリヒユ。畑の脇に、すごく元気に育ってたの」
「おお……ほんとに持ってきたんだ」美咲が笑う。
春乃は興味深げに包みを受け取り、茎の色、葉の艶を確かめながら頷いた。
「これはいい。太陽の味がしそうね」
「でも昔、私たちあれ苦手だったよね? ヌルヌルしてて、酸っぱくて」
「うん。食べたくなかった。なのに、今はなんでだろう……ちょっと食べてみたくなってる」
春乃は少し考えてから言った。
「じゃあ、今日は“記憶を塗りかえる実験”ね」
その言葉に、美咲となつみは目を見合わせて笑った。
さっそく厨房では、春乃がスベリヒユを丁寧に水洗いし、さっと茹でてから冷水で締めた。
ぬめりを生かすように、粗みじんにして、味噌、白ごま、そして梅酢を少し加えてたたく。
さらに、仕上げには刻んだミョウガと青じそ。
どれも“夏を清める”といわれる香味野菜だ。
「名付けて、“夏の舌休め”。スベリヒユのたたき味噌」
小さな小鉢に盛られたそれは、見るからに涼しげだった。
透き通った緑に、白ごまの粒が散り、ミョウガの紅が彩りを添えている。
まずは、美咲が一口。
その瞬間、目を見開いた。
「……うそ、なにこれ、うまっ!」
なつみも続いて口に含むと、思わず笑ってしまった。
「昔のイメージと全然違う。うわー、こんなに爽やかだったっけ?」
春乃は湯呑みにお茶を注ぎながら、静かに言った。
「野草って、子どもの頃に一度“苦手”と思うと、大人になるまで封印されがちなの。でも、舌も心も、年を重ねれば変わる。記憶は絶対じゃない。何度でも塗りかえられるわ」
ふたりは、しばらく黙って小鉢の中のスベリヒユを交互に食べた。
そのとき、ふと、美咲がつぶやいた。
「ねえ、春乃さん。どうしてこの店、開こうと思ったの?」
春乃は、少し目を伏せ、静かに答えた。
「昔、都会で働いてたの。でも、ある日突然、体を壊してね。仕事も失って、何もできなくなった」
美咲もなつみも、息を呑んだ。
「そのとき、公園のベンチでぼんやりしてたら、足元にドクダミが咲いてて。白い花が、風に揺れて……あのとき初めて、“草も生きてる”って思えたのよ」
「……それで、草の道へ?」
「ええ。最初は我流。でも、ある人に出会って。鹿乃子先生という、野草料理の師匠にね」
春乃の目が、遠くを見ているようにやさしくなった。
「その先生が教えてくれたの。“草には、傷を癒す力がある。でも、それは心の傷にも効くのよ”って」
ふたりはしばらく黙っていた。
梅雨の合間の陽が、窓の外でちらちらと揺れている。
「……この店も、癒しの草ですね」となつみが言った。
「ええ、来るたびにちょっとずつ、“過去”の味を、“今”に変えていけたらいいわね」
スベリヒユのたたき味噌。
それは、ふたりの幼い苦手意識を優しく包み込み、大人になった今の舌と心に寄り添っていた。




