第XVII話 カラスノエンドウと春の原っぱ
週末の「春の芽」は、春らしい暖かさに誘われて、昼から小さな賑わいを見せていた。
厨房では、春乃がミツバとナズナを刻み、美咲がヨモギの下処理をしていた。
ふと、店の扉が静かに開く。振り向くと、そこに見慣れない女性が立っていた。
優しい目元と、草原を思わせるような緑のワンピース。
そしてその手には、野の花を添えた小さな紙袋。
「……なつみ?」
美咲の声に、女性は目を細めて笑った。
「久しぶり、美咲」
それは、電話で話した翌週のことだった。
山岸なつみ――子どもの頃、美咲と一緒に原っぱで遊び、草を摘んでは名前を覚え合った大切な友人。
十年以上の時を経て、再び店の暖簾をくぐってきた。
春乃に紹介すると、なつみはぺこりと頭を下げた。
「美咲と原っぱを駆け回ってたころ、私、いつか草のことをちゃんと学びたいって思ってたんです。今は、里山の保全活動をしています」
「まあ、素敵ね」春乃が微笑む。「野草はね、摘むより、まず“守る”ことから始まるのよ」
なつみが差し出した紙袋の中には、小さなカラスノエンドウの束が入っていた。
「これ、今朝、わたしの活動してる畦道で摘んだの。まだ若くて、やわらかいのを選んできた」
美咲は思わず笑った。
「覚えてる。小さい頃、ふたりで“ピーピー豆”って呼んでたよね」
「そう。鞘をつぶして笛みたいにしてた」
春乃は袋の中身を確認すると、すぐに厨房に入り、仕込みに取りかかった。
今日の特別な一皿――《カラスノエンドウのかき揚げ》。
青豆のような香りと、春先の陽だまりを閉じ込めたような味がする、春乃の得意料理のひとつだった。
店内に香ばしい香りが広がるころ、春乃が二人のもとに運んできたのは、湯気の立つかき揚げと、甘めの味噌だれが添えられた一皿。
なつみは箸を取り、ひとくち。
「……ああ、これ。野の味だ」
「懐かしい?」と美咲が聞くと、
「ううん、懐かしいけど、全然ちがう。ちゃんと“大人の味”になってる。昔の思い出に寄りかかるんじゃなくて、思い出をいまの私に引き寄せてくれる……そんな味」
春乃はそれを聞いて、静かに微笑んだ。
「草の料理は、過去じゃなくて“いま”を咲かせるものよ。だから、同じ草でも、あなたの季節で変わる」
なつみはふと、テーブルの端に咲いたネジバナの乾燥花に目をとめた。
「これが、あの“おまじないの草”?」
「うん。あの夜、あれを飲んだら、なつみが電話くれた」
「じゃあ、これからは……おまじないなんかなくても、会いに来ていいよね?」
「もちろん」
ふたりは顔を見合わせて笑い、その間に、またカラスノエンドウのかき揚げが減っていった。
やがて日が傾き始めるころ、なつみは立ち上がった。
「また来るね。今度は、別の草を持ってくる」
「何がいいかなあ。スベリヒユとか? 昔、変な味って言ってた」
「それ、いま食べたら、きっと違う味に感じる気がする」
扉の外、夕陽に照らされた路地には、風に揺れるスズメノカタビラ。
都会の片隅にも、やさしい春が確かに息づいていた。




