第XIX話 忘れかけた味
春の芽がひと段落した午後三時。
常連の美咲となつみが帰り、店内に静けさが戻った頃、控えめなチャイムが鳴った。
「こんにちは……まだ、大丈夫ですか?」
現れたのは、グレーのスーツを着た中年の男性。穏やかな眼差しと少し疲れた雰囲気。その姿に春乃の胸がざわつく。どこかで見た記憶がある──が、思い出せない。
「いらっしゃいませ。軽いものでしたら、まだお出しできます」
春乃がそう言うと、男はふっと笑みをこぼした。
「助かります。……正直、入るか迷ってたんです。看板を見て、なんだか懐かしい香りを感じて」
しばらくして、春乃は厨房で思い出す。銀座の修行時代、週末限定で出していた“まかない膳”。予約制の隠れメニューで、春の野草を使った優しい一皿を出していた。
「もしかして……銀座の“やまと”に、いらしたことありませんか?」
男の目が見開かれた。
「……やっぱり。あのときの、あの料理……あなたが?」
男の名前は佐伯雅臣。出版社勤務で、かつて銀座の取材帰りによく“やまと”に立ち寄っていたという。
「もう何年も前ですが、あなたの出した“ノビルのだし巻き”が忘れられなかった。独特なのに、妙に落ち着く味で……以来ずっと探してたんです」
春乃は驚いた。まかない膳は決して派手な料理ではなかった。
けれど、あの頃から「育てられたものではなく、生えてきたもの」に惹かれていた自分の原点とも言える料理だった。
「今日は……《ノビルの味噌ポタージュ》があります。よろしければ、それを」
やがて湯気をたてて運ばれてきた土鍋には、素朴な色合いのスープが静かに揺れていた。
味噌と豆乳、炒めたノビルと新玉ねぎ、そしてほんの少しの麦麹の甘み。
佐伯は一口すすると、目を閉じ、深く息をついた。
「……これだ。いや、前よりももっと優しくなってる気がしますね」
「昔より、力を抜けるようになったのかもしれません」
春乃は笑った。
かつては“完璧な出汁”を求めていた自分が、今は“風味の余白”を大切にするようになった。草が育つままに、香るままに、寄り添うように料理する。
「もう一度、あの味に出会えるなんて思いませんでした。……これ、名刺なんですが」
佐伯はそう言って名刺を差し出す。出版社の食文化編集部に所属しているという。
「あなたの料理、どこかで紹介させていただけませんか? “都会に生きる草と、人の味”──そういうテーマで特集を組める気がして」
春乃は驚いたまま、名刺を受け取った。
「……ありがとうございます。でも、私はただ、草を摘んで料理してるだけで」
「それが、今いちばん必要とされてる言葉かもしれませんよ」
佐伯はそう言って笑い、土鍋をきれいに空にすると、深くお辞儀して店を出ていった。
春乃は差し出された名刺をそっと見つめてから、メモ帳に小さく書き残す。
《草は、誰かの記憶を連れてくる》
春の芽には、今日も静かに風が吹いていた。




