第三話
争いが起こる時、さらに油に火を注ぐような出来事が起きるのは世の常なのだろうか。この夫婦の喧嘩もさらにエスカレートさせる事態が起きたのはまさにその時だった。
ブルン、ブルルル。
急に車の列が動き始めたのだ。義彦はハッとして車のハンドルを握り締めるが、すぐにそれが期待はずれだと思い知らされた。動き始めたのは隣の車線だったからだ。どの車もようやくこの渋滞地獄から抜け出せるという歓喜の声に似たエンジン音を響かせている。しかし、それはいまだ身動きできない義彦たちの車線の車からしてみれば、忌々しいだけだ。再び、クラクションが鳴り響く。それは「おまえらばかり先に行くんじゃねえ」と言っているようだった。義彦のイライラもさらに悪化し、悔しさに歯軋りし、今まで鳴らすことがなかったクラクションを押していた。
「そら、見なさい。あなたがモタモタしているうちに隣の車線は動き出したじゃない」
泉は何故か勝ち誇ったように言った。
「おまえだって、こっちの車線の方がいいって言っていただろう?」
「その時はこっちの方がスムーズだったからじゃない。当然でしょう?私が言いたいのはあなたが早めに隣の車線に移っていれば良かったってことよ」
「そんなの分かるかよ!」
「分かるわよ。あなたに思慮が足りなかっただけでしょう?大体、あなたはいつも考えが浅はかなのよ。だから、いつも貧乏くじしか引けないの。隣の吉田さん、あなたと同期なのに課長に出世したんでしょう」
「・・・・・・」
いつの間にか話題はタバコから昇進へと変わっていた。
「大した大学も出ていないのに、仕事だって、あなたの方が頑張っているのに、あれは重役に上手く取り入ったからなのよね。要するに要領が悪いのよ、あなたは」
「そんな言い方しなくてもいいだろ!」
「そうかしら。吉田さん、海外の支店に赴任されたんでしょう。いいわよね。それに比べて、こんなところで渋滞にあっている私たちって、すごく惨め」
「あいつは親のコネもあるんだ。取引先の会社の重役が叔父に当たるから、海外に行けたんだ。決して要領だけの問題じゃない。それに海外に行ったら、あいつのやり方が上手く行くとは限らない」
「それでも、今の私たちよりもずっとマシよ。あ、ほら、今なら入れたんじゃない」
泉は義彦に文句を言いながらも、しっかりと車の流れを見ていた。そして僅かな隙を的確についてきた。しかし、車間が空けば、入ろうとするのは他の車も同じらしく、義彦の2台くらい前を進む車がちゃっかりと入り込んでしまった。その後は物凄い剣幕でクラクションを鳴らす車が追いついてしまったので、義彦は入るチャンスを完全に失ってしまった。
「ほら、やっぱりあなたは要領が悪い。もっと頼りがいのある人と一緒になるんだった」
「よく言う。大体、おまえだって不器用でも真面目に仕事している俺が好きだって、言ったじゃないか?」
「それ、いつの話よ!」
「五年前だよ、俺がおまえにプロポーズをしたときだよ!」
そう言いながら義彦は顔が真っ赤になる自分に気付いた。そんな昔のことを今、口にしていることはとても未練がましいことではないかと思えたのだ。そして、泉は冷めた目で義彦を見ていた。
「おまえは変わった。優しくなくなった・・・・」
義彦は泉から目を逸らして呟いた。
「何よ。私が悪いみたいな言い方しないでよ。変わったのはお互い様でしょ」
「そうだな。おまえはシワが多くなった。怒ってばかりだからな」
「あなたこそ、おなかが随分と出てきたわよ。ビールの飲みすぎよ」
「これはビールのせいじゃない。うちはお金がなくて安価な発泡酒ばかりじゃないか。それにおまえは家事を手抜きして、スーパーの惣菜しか出さないじゃないか。だから、栄養のバランスが悪いんだ」
「何ですって、自分の不摂生を人のせいにしないでよ。私だって忙しいのよ」
「だから、あんな雑貨屋なんか止めてしまえばよかったんだ・・・・」
義彦は自分たちの会話がまた戻っていることに気付いた。何かにつけて火がついて、それで行き着く先がここかと思うと義彦は気が滅入りそうだった。そこで二人のケンカはまたも中断した。ケンカするにもそれなりに体力を使う。この先、渋滞はまだまだ続くのに今のままでは身が持たない。二人は自分たちのやっていることが凄く無意味なことに思えた。
やがて渋滞に変化が訪れたのは、それから間もなくしてからである。隣の車線が再び動かなくなったのだ。義彦はそのとき「ほら、見たことか、隣の車線だってすぐに詰まるだろうが」と妻に言おうと思い、横を向いた。しかし、泉の疲れ憔悴した表情を見た瞬間、その言葉は喉の奥で飲み込まれた。
「泉はいつから、こんなに老けてしまったのだろうか?」
そんな言葉が口に出そうになる。しかし、義彦はそれも飲み込んだ。
「私たち、一緒にならない方が良かったんじゃないかしら・・・」
泉はそう言った。しかし、先ほどのような責める言い方ではなかった。どこか気落ちした小さな声だった。そしてその言葉は少し枯れていた。
「何だよ。さっきまでは散々、俺を責めていたくせに」
「ごめんなさい・・・・」
そう言った泉の声は明らかに涙声であった。
「ごめん、俺も言いすぎた」
「そうじゃないのよ。私、ついイライラしてあなたに当たってしまって。本当は、今日ぐらい家族で笑って過ごしたかったのに・・・・・」
泉は顔に手をやって震え始めた。義彦はそれを見て戸惑う。何て声をかければいいのか分からなかった。泉の言葉はそのまま自分にも当てはまることだった。自分もイライラして口調がきつくなっていた。
「パパもママも仲直りしようね」
背後から娘の声がした。その声に義彦と泉が同時に振り返る。香織は笑っていた。まるで両親のケンカを宥めるように明るく笑っていた。
「ごめんね、香織、もうママとパパは仲直りするからね」
「ああ、もういつものパパとママだ。だから香織は心配しないでいいよ」
義彦と泉は同時に香織に言葉をかけた。そしてそのままお互いを正視する。先ほどまで険悪な空気が漂っていただけに、正面から向き合うのは照れくさいらしく、二人は同じように顔を逸らした。
「俺たち、まだダメな親だな」
「そうね。香織に助けられるなんて」
「子はかすがいってやつだな」
義彦はそう言って笑った。それを見ていた香織は不思議そうに「かすがいって何?」と聞く。
「かすがいって言うのはね・・・・・、あれ、何をする道具だったっけ?」
「確か、コの字型の釘じゃなかったか」
「え、香織は釘なの?」
香織はもっと綺麗なものを想像していたらしく、少し不満そうに口をすぼめた。それを見て義彦と泉は顔を突き合わせて笑った。ふと、義彦は「渋滞っていうのも悪くはないな」と思えた。だが、その義彦の笑みもすぐに消えた。そのまま無言で泉に視線を移す。泉もそれに応えるように黙って頷いた。二人の間には「香織には最後まで明るい顔でいてもらいたい」という意思の疎通があったのだ。




