第二話
「仕事は辞めたくないってことか?」
義彦は相変わらず、前を見たまま、妻を一瞥もせずに言った。それに対し、妻はしばらくの間、無言で義彦の言ったことを反芻しているようだった。
「私は働く女性として充実しているの?あなたみたいに嫌々働いているわけではないの」
妻は金切り声をあげて叫んだ。もう完全にヒステリー状態だった。しかし、義彦にしても今度ばかりは腹に据えかねた。
「俺の仕事をおまえが片手間でやっている雑貨店と一緒にするな!」
義彦は妻の方へ振り向いて叫んだ。義彦にとっては家族のために働いているという自負があった。だからこそ、今までどんなに辛くても頑張って働いていたのだ。それを頭から否定されることは許せないことであった。しかし、その言葉がさらに妻の怒りに火をつけたのは言うまでもなかった。
「片手間?私にとっては生涯の仕事だと思っているわ。私が友達とお金を出し合って、築いた店なのよ!あなたがいなくなってもやっていける会社とは違うの!」
「そんなのはただのママゴトの延長線上なだけだ。辞めても別に誰かに迷惑がかかるものじゃない。それにこの先も続けられるか分からないだろう?」
「それはあなたも同じじゃない!あなたの会社だってこの先どうなるんだか、分からないわよね」
「おまえの仕事と違う。俺の会社はつぶれたら、多くの失業者が出るんだ!」
互いの腹の底に溜まっていた物はここに来て一気に吐き出されたようだ。そして二人の喧嘩を煽るかのようにクラクションの応酬が始まった。
それから、数十分。車の動きはやはり遅かった。ただ、すでにクラクションの音も聞こえなくなった。車のエンジン音は相変わらずだが、とりあえずは落ち着きを取り戻したのかもしれない。しかし、義彦と泉の夫婦間は未だに冷戦のままだった。お互い、自分の腹の中にあったことをすべて吐き出してからと言うもの、一言も口を利かない。視線も合わせず、義彦は前方を、泉は助手席から変わることのない風景を見ていた。娘の香織は幸いなことに再び眠りに入ったようだ。おそらくは泣きつかれたのかもしれない。
ただこの一時の静けさは嵐の前の静けさとも言えた。ここで誰かが再び、クラクションでも鳴らそうものなら、激しい騒音の応酬が再開されるだろう。静寂を突き破るきっかけはどんな些細なことでも構わないのかもしれない。
「ふぅ」
義彦はそう言って、口元に手をやった。それは前方を走る車の窓から一本の紫煙が立ち昇ったのを義彦が見てしまったことがきっかけだった。そして義彦は車の脇の小物入れから無言でタバコを取り出した。
義彦は前方の車の運転手がタバコを吸い始めたことに触発されただけだった。しかし、それが夫婦喧嘩の第2ラウンドになるとは義彦も気づかなかった。義彦にしてみればこのイライラした状態から少しでも抜け出したかっただけなのだ。
「あなた、タバコ辞めたんじゃなかったの?」
泉は信じられないという顔で義彦を見ていた。義彦はシガレットライターを手にしたまま、顔をしかめた。確かに義彦は今、禁煙をしているはずだった。
「これはずっと前に買っておいたタバコだ。いいだろう?一本くらい」
義彦はそう言うとタバコに火をつけようとする。しかし、すかさず泉がタバコを抜き取ってしまった。
「何をするんだ!」
「禁煙するって約束したでしょう?」
二人はほぼ同時に怒声を発した。そして二人は積年の仇敵のように睨みあいを始めた。
「俺は今までずっと禁煙していたよ!」
「嘘、陰でこそこそ吸っていたでしょう?その証拠がこれよ」
そう言うと泉は奪い取ったタバコを義彦の眼前に見せつけて怒鳴った。
「だから、それは禁煙前に買ったものなんだ。別に俺は陰でこそこそ吸っていた訳じゃない」
義彦はそう弁明した。しかし、泉の疑いは晴れることはなかった。義彦がむきになって弁解すればするほど状況は悪化していくのは明らかだった。もともと、泉は大のタバコ嫌いだった。昔の職場では、ヘビースモーカーの上司が絶えずタバコの煙を吸っていたので、職場は煙が充満し、タバコのヤニが体中にこびりつきそうだと言っていた。
義彦は付き合い始めた当事から、タバコを吸っていたが、泉の前では極力、吸わないように努力していたので泉も何も言わなかった。ただ、娘の香織の生まれた頃から、どこか神経過敏になり、義彦にも禁煙を勧めるようになった。義彦も最初は素直に泉の言うことを聞いていたのだが、禁煙というものが、そんな簡単に止められる訳はなく、家以外では度々吸っていた。
しかし、タバコを吸う姿を運悪く妻に見られてしまった。そのせいで義彦は完全に妻の信用を無くしていた。妻は激怒し、香織を連れて家を出るとまで言う始末だった。お互いの両親まで出てきて喧嘩の仲裁が行われたが、そのおかげで義彦は徹底的に禁煙をするはめになったのである。今にして思えば、その裏には泉の育児ノイローゼも原因の一つではなかったのかと、義彦は思っている。確かに妻は出産後、神経が過敏になっているようであった。
「それは本当に禁煙を誓った前に買ったものなんだよ」
義彦は再度、弁解した。
「じゃあ、ここにずっと置きっぱなしだったの?どうして、捨てなかったのよ!」
妻には義彦の弁解が入り込む余地はなかった。それよりも、義彦の一言が明らかに火に油を注いでいるようだった。
「確かに捨てなかったのは悪かったよ。でも、本当に吸ってない。これは事実だ」
義彦は誠意を込めて謝った。正直なところ、タバコを捨てなかったのも、妻に対する背徳の行為ではなく、単に捨てるのがしのびなかったというケチくさい理由からだ。実際、そのタバコの袋はまだ1本しか吸っていない。喫煙者の知人を乗せたときにでも、あげるつもりで取っていたのだ。
「まあ、そのことは許しましょう」
義彦の誠意が通じたのか、泉は幾らか蔑んだ目で見ながらも、義彦を許したようだった。しかし、義彦はすぐにその怒りがまだ収まっていないことに気づいた。目元がピクピクと動いている。
「それじゃあ、辞めたタバコを今になって何で吸おうとするわけ?しかも、私と香織のいる前で?」
「・・・・・・・」
義彦は再び絶句した。確かにそれを言われれば弁解のしようがなかった。義彦も本当に無意識のうちにタバコを追い求めていたのだ。それを前の運転手が吸っていたとか、渋滞でイライラしていたという言い訳で通じるわけはなかった。
「ごめん、俺もどうかしていた。本当に無意識のうちにタバコを求めていたんだ」
義彦は素直に謝った。これで今の泉の機嫌が直るかどうかは分からないが、少しでも自分の誠意を見せたかった。しかし、それに対して泉の目は相変わらず冷たいものだった。
「ふうん。それって、無意識と言うより、いつか吸えるようにという甘い考えがあったからよ。だから、ここにタバコを残した。そして、もし吸ってしまっても無意識だったんだって言い訳して逃げるつもりだったのね」
泉は冷淡で残酷な視線を義彦に投げかけながら言った。そのとき、さすがの義彦も体が震えるのを感じた。
「おまえは亭主がここまで頭を下げているのにそれを信用しないって、言うのか?」
「何よ!頭を下げて許されるなら、この世界に戦争なんて起きないわよ」
妻は完全に冷静さを欠いていた。目茶苦茶な理屈をつけて義彦を否定する。しかし、冷静さを欠いていたのは義彦も同様であった。二人はさっきよりも激しい睨みあいを開始した。




