時々、変なのは認めますがぁ
どこにでもある光景だった。
王国北部の、寒村で老人がクワを担いで農地に赴く、ただそれだけのありふれた日常の光景はある出来事のせいで一瞬にして異常へと変わっていた。
「なんじゃぁ、ありゃぁ……?」
あまりの出来事に老人はクワを落として、顎を戦慄かせた。
ある一点を凝視し、口からこぼれたヨダレすら拭わずに一点を見つめていた。
その視線の先はそう高くない山――その向こう側にあった。
山頂から『にょきりと首を出した馬』の姿はどこからどう見ても立派な異常だった。
そんなものが地響きをあげて、寒村に向かってきているというのだから老人でなくとも慌てるだろう。
「バ――バケモンじゃぁ! 村が食われちまうんじゃ~!」
這々の体で走る老人を同じように農地に向かっていた村人は内心、滑稽だと思ったのか忍び笑いしていた。
それも老人が何から逃げているのか理解して、同じように逃げ出していった。
すぐさま農地に出かけていた村人全員が村の中央に集まりだした。
村に閉じこもっても絶望的状況は変わらないだろう。
容易く巨大な馬に蹂躙される想像がついてしまう。
それでも老人も村人も村に戻ることを選んだ。
単純に逃げるための道具を取りに戻った者もいたが結局、どう逃げていいかわからず、村の中心で『どうすればいいか』を口々に話し合った。
そんなことをしている時間もないのだが、意見統一の時間は少なからず必要だ。
概ね女子供は逃がす、男は囮になる、という意見でまとまったのだが全員は顔は暗い。
村にある武力など獣を狩るための弓矢か捌くためのナイフ、そして農具くらいだ。
「……騒がしいな。何かあったのか」
杖をつき、足を引いた男が静かな声で尋ねると村人たちはゆるゆると顔を上げた。
絶望的な表情に良くないことが起きていると瞬時に悟った男は、ドカリと石に腰を落とすとざらりと周囲を見渡した。
「落ち着いて話してくれ――いや、その必要はないか」
男の耳にもズシン、ズシンと響く音が聞こえてきていた。
村人たちの恐慌っぷりもどうしてなのか想像がつくというものだ。
だからこそ男は慌てず、しかし、その馬の姿を見て大きく目を見開いた。
村の柵を越えて伸びる鋼鉄のシルエット。
体躯全てが鋼鉄で作られ、首筋には白い焔のように揺れるたてがみがハッキリとわかる。
その巨大さも威容も、その姿も全て男が初めて見たものだ。
しかし、男はその鋼鉄の巨大馬のことを知っていた。
「あぁ、いや、大丈夫だ。皆、落ち着いてくれ。すぐ近くにいるが逃げずにじっとしていてくれ。むしろ逃げようとして怪我をする方が大変だぞ」
男は内心、動揺していたが一切、そんな素振りは見せなかった。
衝動のまま行動しても死ぬだけだと男は熟知していた。
何故なら、かつて男は内紛に参加していたからだ。
内紛の時に負った足の怪我が原因で農作業すら満足にこなせない体だ。
それでも苦境を乗り越え、生き残った彼は革命軍時代で得た知識と経験で村の意見番の立場にいた。
村人を落ち着かせるため、というのもあったが村の精神的支柱にならなければ、彼はもう生きていく術がないのだ。
開き直りにも近い彼の経験は逆に苦境への粘り強さに変わっていた。
「アレは危険な原生生物じゃない。とある貴族様の――」
男も別に『鋼鉄の巨大馬』について詳しく知っているわけではない。
そもそも彼の知る噂は『鋼鉄の馬』が猛吹雪の中で糧食を革命軍に届けた逸話くらいだ。
噂通りなら攻撃の意思はないはずだろう。
しかし、もしも『違う』のなら村は全滅してしまう。
最悪に転べば抗う術はない。
やがて『鋼鉄の巨大馬』が柵の向こう側からゆっくりと首をおろしてくる。
「はぁい。お騒がせしてごめんねぇ」
馬の鼻に一人の奇抜な男性の姿がみえた時、男は動揺をため息で押し出して、ゆっくりと頭を下げた。
それに倣い、村人たちも慌てて頭を下げ始めた。
「ようこそお出でなさいましたフンディング伯爵様。このような寒村に一体、どのようなご用事ですか?」
彼は逆境に勝てたわけではない。
そもそも運命に身をゆだねていたわけではない。
どうしたって何もできない彼はそのことを受け入れ、自らの衝動を押し殺していただけだ。
それは強い風の日に頭を下げて歩くようなものだろう。
何一つ、特別なことでもなく、しかし、誰でも簡単にできるようなことでもない。
「頭をあげてもらえるかしらん。ちょーっと人探ししているんだけど、こんなオトコを見なかったかしらん?」
村人を代表して男が顔を上げると何故か舐めるような、品定めするような瞳とぶつかった。
おそらく村の代表として話すに足るか見定めているのだと考えた男は強い意思を瞳に宿し、舐められないようにと胸を張った。
実は『う~ん、少し肉付きが悪いかしらん。顔は荒くれっぽくていいんだけどねぇ』と思われているなんて夢にも思わないだろう。
「いえ、存じません」
羊皮紙に描かれている男は南の人間でよく見る顔つきだった。
ただ羊皮紙の下の方にハインツ・タルンカンペと書かれていたので、それが名前なのかと思っただけだった。
彼は知らない。
ハインツ・タルンカンペが【砕く黄金】と呼ばれる男だということを。
そして、男が足を怪我した時に彼の生命を救った男だったということもだ。
「そう、それならいいのよん。でも近くで見かけたら必ず町の兵士に目撃情報を報せてくれるかしら。別に指名手配でもなんでもないのだけど報奨金は出るから、よろしくね」
これだけ聞くと嘘でも目撃情報を出そうとするだろうが村人全員、そんな気にはなれなかった。
もしも嘘だとバレた場合、『鋼鉄の巨大馬』に殺されてしまうのではないかと恐怖したからだ。
用は済んだとばかりに首が持ち上がり、ズシン、ズシンと音を立てて『鋼鉄の巨大馬』が去っていくのを村人たちはずっと見つめていた。
やがて地響きが聞こえなくなるまで身動きしなかった村人たちの頭に、一つの疑問だけがこびりついていた。
「どうしてあの人は女口調なんだ?」
その疑問はおそらく永久に解けやしないだろう。
ただその日から、この村中心として『悪さをすると巨大な馬に頭から食べられる』という戒めがよく聞かれるようになった。
子供たちはそんな話をされても聞きやしないが、それでも後世まで語り継がれてきたのは妙に大人たちが迫真の表情で語るからだと言われている。
※
そんな未来にまで奇妙な戒めを残していたとは知らずにエドウィンは『鋼鉄の巨大馬』――【薔薇園の鉄騎兵】の鼻上でため息をついていた。
ズシンズシンと上下する景色でアンニュイな気分を晴らしながら、ゆっくりと羊皮紙を開いた。
「一体、どこにいるのかしらんハインツちゃぁん」
描かれたハインツに投げキッスをしても遠方で歩いていたハインツがくしゃみする程度で、何も起きやしなかった。
「まぁ、こんなところを都合よく歩いているわけはないわねぇ。それよりも本命の方を片付けておかないと」
わざわざ【薔薇園の鉄騎兵】を持ち出してまでエドウィンが北を目指す理由。
リーングラードの近くに駐在している四聖団へと威を示すためでもあるが、それ以上の理由は『もっとも安全で、通常よりも速い行軍』を要求されたためだ。
そもそもの原因は毎年、タラスタット平原の浄化を務める法国四聖団が急遽、来訪期日を早めてきたためである。
表向きはアルファスリン姫が初外交を務められるようにと余裕を持った日程を組んだ、という理由。
もう一つは法国近くで行われている学園事業の見学だ。
エドウィンからしても両方の理由は胡散臭すぎた。
初めての外交を行わせるには四聖団の活動は重すぎるように感じる。
急遽、四聖団の頭を組み替えるほど切迫した理由があったとしか思えない。
近くで行われている学園事業に興味があるという話だが、明らかに視察目的だろう。だが四聖団の行程に組みこむほどだったのか――見学だけなら浄化作業が終わって帰り道に寄ればいいだけなのにわざわざ浄化作業前に二週間もの滞在日数を予定している。
両方とも『アルファスリン姫が関与していない何か』によって行動が歪められたようにしか思えない。
さらには上級魔獣の調査を『ついでに行う』というのだ。
では、その思惑とは何か。
「やっぱり法国側で何か起きてるのかしらん? ジグマルドちゃんに話を聞けたらいいんだけどねぇ」
思惑を知るための情報が根本的に不足している。
話を聞こうともジグマルドは法国に赴いている。
鉄不足も心配されるリスリアのために輸入量を増やしに行っている以上、邪魔するわけにもいかない。
「となると、後の頼りはやっぱりヨシュアンかしらん」
ヨシュアンのことだ、きっと推測に足る情報を入手しているだろう。
それに比例して異常な事態に絡まれて、半死半生でピンピンしているところまで想像できるエドウィンだった。
「伯爵様! 地方都市が見えてきました!」
突如、鉄管を通したような響く声が鼻先から聞こえてくる。
「そうねぇ、そろそろ解体しちゃおうかしら。『皆、外に出てくれる』?」
言うや否や、【薔薇園の鉄騎兵】はゆっくりと四肢を折り曲げて、地面に腹をつけて座りだした。
それだけならまだマシな光景だったのだろう。
突如、腹がカパリと開き、中から無数のむくつけき集団が現れたのだ。
この時点で何の悪夢かと目をこするレベルではあるが、幸い周囲は山に囲まれており、その猟奇的な光景を誰かに目撃されることはなかった。
腹から出てきた彼らはそれぞれに荷物を抱え、【薔薇園の鉄騎兵】から遠ざかり始めると荷物を置いて、再び腹の中へと入っていく。
【薔薇園の鉄騎兵】の腹の中にあった全ての兵站を取り出し終われば、次の衝撃が待ち構えていた。
【薔薇園の鉄騎兵】は瞬く間にバラバラに崩れ、鉄塊の山に姿を変えたのだ。
それだけなら、『まだ常識の範囲と片付けられていた』だろう。
何らかの力で馬の形を維持していたのだと納得できただろう。
鉄塊の山から新しい『鋼鉄の馬』が現れなければ、理解に苦しまなくとも良かった。
ポコポコと現れる『鋼鉄の馬』たち。
それだけではなく荷車まで鋼鉄で作られていく。
やがて鋼鉄でできた馬軍がその場にはあった。
まるで生きているかのように嘶き、足をこする『鋼鉄の馬』と荷車にむくつけき男たちは近づき、何の疑問も持たずに兵站を詰め込んでいく。
これが【薔薇園の鉄騎兵】の特性。
巨大な馬から普通の馬まで、どんなサイズにも変更できる【神話級】術式具だ。
全体総量さえ上回らなければ、数もサイズも思うがままだ。
「それじゃぁ、出発しましょうか。予定通り、四聖団を刺激しないように近くに野営地を作ることになるけど、それは任せちゃうわ」
「はい、フンディング伯爵様!」
エドウィンの声に筋肉の集団は嬉々として返事を返した。
目指す地はリーングラード。
鋼鉄の馬たちはガツンガツンと大地を蹴って、走り始めた。
※
最初は後ろめたさがあった。
「シャルティア先生ぃ、飲みすぎですよぅ」
「……のんでいない。こんなものは適量だ、適量。ん? 適量とはなんだったか」
リィティカにとって義務教育計画への参加は師を取り戻すためのものだった。
最初の挨拶で言った『弟子も取らなくてはならなかったため』というのも嘘ではないが、誠実さに欠けているのではないかと何度も思ったことがある。
その上、教師は皆、はっきりとした目的や地位があって、どこか後ろめたさがあった。
私的な理由で子供に物を教えていてもいいのか、と悩むこともあった。
それもヨシュアンに秘密を打ち明けた時に偽らなくていいと思い、ようやく肩の荷が降りた気持ちになったものだ。
「それより聞けリィティカ! アレはな! 私が言ったことは一つも聞いていない。普通に考えたら法国との軋轢が王国に対してどれだけの不利益になるかわかろうものだ。他国に比べて鉱山が少ないリスリアが鉄の安定供給を求めようと思ったら法国の供給に一部を頼らなければならないんだぞ。そうでなくともこれから学園に出入りする調査隊との諍いが長く続けば生徒や住人を危険にさらすかもしれない。見知った相手ではなく、他国の人間だぞ。どこまで信用できるかわかったものではない、それなのに早急に問題を片付けようともせずに逆に不和を残すような戦いをしよって……、何より私の言うことを聞かなかったのが問題だ!」
バンと机を叩くシャルティアにリィティカは眉を八の字にして、曖昧に頷いた。
シャルティアと仕事仲間だけでなく友人関係になれたのも、そうしたしこりが無くなった部分もあった。
言わばヨシュアンがシャルティアとリィティカを友人にした、とも言える。
しかし、今はそのヨシュアンがシャルティアの怒りの原因になってしまっている。
聞いてもリィティカは政治や戦闘にくわしくないため判断できないが、一つだけわからないことがある。
「どうしてヨシュアン先生はぁ、知っていて無茶をしたんでしょうねぇ」
軍務や政治に疎いリィティカと違って、ヨシュアンは『ただの職人とは思えないほど政治や軍務をよく知っている』のに、状況が悪化する戦い方をしたのだろうか。
「バカだからに決まっている!」
「時々、変なのは認めますがぁ……」
シャルティアは端的に言い表してしまったが、言わんとしていることくらいリィティカにも心当たりがあった。
何度となく怪我をして帰ってくることを筆頭に、異常な行動も行い、取り繕うように妙に筋の通った言い訳をする。
最近の奇行といえば突然、机を割ったことだろうか。
一時は疳の虫が強い人なのかと思ったくらいだ。
「つかみどころがないですよねぇ。なんていうか、普通に話しかけると当たり前の意見を言うしぃ、突拍子のない発想でも着々と形にしていくのにぃ」
普段の行動は、ただの慣れない職業に一生懸命な人にしか見えない。
だからこそ奇異な行動とのギャップが度々、周囲を戸惑わせる。
「そう、そうだな」
シャルティアもリィティカと同じ感想を抱いていた。
そのうえでシャルティアはリィティカとは違う観点を持っていた。
ヨシュアンは内紛経験者だ。
人の生き死にも見てきているだろうし、親しい誰かとの死別もあったろう。
こんな時代に生きていたら誰にだってスネに傷の一つや二つ、あって当たり前だ。
もしも、そうしたスネを隠す行為があの喫驚な行動の原点にあるのなら、ある程度の推測は成り立つ。
例えば怪我にしても、義務教育計画反対派の妨害者を倒していると仮定すれば一つの解答は得られる。
賛成派に属していると解を出せば裏でコソコソとしている理由も説明がつくだろう。
当然、教師としても積極的に学園事業を成功させようと動くだろう。文化祭の発案などはもっともいい例だろう。
しかし、そうなるとガルージンとの決闘だけが浮いて見えてくる。
下手をすれば学園だけの話では済まなくなるくらいの暴挙だった。
正式な決闘の場で対戦者に拷問するなど、あってはならないことだ。
「まるで人が変わる、というべきか」
ヨシュアンの中に別人でもいるのではないかと疑うほどの豹変だった。
「人が変わる……、ですかぁ?」
「いや、なんでもない。ともあれアレは無茶をした結果、『自分一人でなんとかする』という考えがまだ抜けていないんだろう!」
シャルティアはワイングラスを傾け、一気に飲み干すと次のボトルを取り始める。
その飲み方はまるで怒りというよりも遣る瀬無さを紛らわせているように見えて、リィティカの眉はまた八の字になるのだった。
その場はシャルティアが備蓄の酒を全て飲み干してしまったためにお開きとなり、翌朝には二人の不和は解決したわけだが、その内容を後日、シャルティアから聞いたら疑問や心配を吹き飛ばすような話だった。
「(そっかぁ……、ヨシュアン先生はシャルティア先生のことが好きだったんですかぁ)」
ヨシュアンもアイガリーゼスを吹き飛ばしている間にまさかそんな誤解が生まれているとは夢にも思わないだろう。
いつものように学園のドアを開けて外に出た瞬間、リィティカはハタとあることに気づいてしまう。
「(でもぉ、レギンヒルトさんのことはどうするんでしょうかぁ?)」
たしかレギンヒルトはヨシュアンを好いているはずだ。
それはもう、疑いようもなく行動から見て取れる。若干、うまくいかないのは相手がヨシュアンだからだろうという予測も立てている。
だが、ここでヨシュアンがシャルティアのことを好きだったとしたら?
「(しかもぉ、シャルティア先生もちょっと嬉しそうな感じだったからぁ……)」
無意識に手で小さい三角形を作ってしまうくらい、人間関係が極まった形になる。
もしもリィティカが政治の知識があれば『三角関係』になりえないと気がついただろう。
二人がヨシュアンを好きだったとしても家格は圧倒的にレギンヒルトが上だ。
レギンヒルトからヨシュアンを奪う形になればシャルティロット家とジークリンデ家は険悪ないし禍根を残してしまう。
双方とも家の都合も含めてヨシュアンを奪い合うのなら、シャルティアは身を引かねばならない立場だ。
「(でも、きゃーっ! 自分で止められない感情を愛情で止めるなんて、きゃ~! それにシャルティア先生の顔がまた……っ)」
通知簿を抱きしめて心の中で悶えるリィティカの姿は学園長室でカーテンを締めようとしたテーレ以外、誰にも見られることはなかった。
シャルティアに「ヨシュアン先生はシャルティア先生のことが好きなのか?」と聞いてみたところ、シャルティアは苦笑しながら否定していた。
「(『ありえない』だなんて言いながら、ちょっと顔を隠しているところが可愛かったなぁ)」
絶対にアレは照れ隠しだと心の中で確信しているリィティカだった。
カツンカツンと鋼鉄が石を叩く音がして、振り向くとそこには鋼鉄の馬に乗った奇抜な男性がいた。
「はぁい。少し聞きたいことがあるんだけど貴女、その服、学園教師のよね。知ってるわよぉ、だってその服の意匠、ワタシも考えたんだもの。どう? かわいいでしょ?」
まるでピエロだと思ったのはつかの間で、すぐに言葉の内容が頭を通過し始めた。
「(え……、なんでこの人、女口調なんですかぁ? というか妙にしなを作ってるぅ)」
鋼鉄の馬が霞むほど奇っ怪に揺れる腰にリィティカもドン引きだった。
「え~っと、どちら様ですかぁ?」
「あんら~、聞いてないかしら? 王国調査隊の責任者がくるってこと。ん~、正式作法だと従者が先触れを送るんだけど、どっちにしても『ワタシの方が速い』から直接、来ちゃったのよん。ワタシがエドウィン・フンディングよん」
エドウィン・フンディングの名前を聞いて、リィティカの目を見開いて、頭を下げる。
いくらのんびりしているリィティカでも貴族への対応を知らないわけではない。
「いいのよぉ。それよりクレオ学園長のところまで案内を頼めるかしらん。さすがに無許可で建物には入れないわぁ」
「あ、はい。それではぁこちらにお越し下さいぃ」
会話している内に鋼鉄の馬から降りたエドウィンは
エドウィンの名前を聞いたリィティカは少しそわそわしながら、再び学び舎の扉へと引き返した。
「あ、あのぉ……」
「なぁに? 」
「もしかして『甘い水薬』の論文を書かれたぁ……、あのエドウィン・フンディング伯爵様ですかぁ」
「あんら~、『匂いの美容法』の方が有名だと思ったんだけどぉ、そっちを見てくれる人がいたのねぇ。嬉しいわぁ」
エドウィン・フンディングの知名度は大きく二つに分けられる。
一つはその奇抜な格好と性癖。
もう一つが研究者としての側面だ。
世間一般では風変わりな格好のせいで変な人というイメージが強いが、錬成師や薬剤師、鍛冶師や術式具元師からすればアルベルタと肩を並べるほどの知名度を誇る。
その多様な研究成果は錬成師が理想的と呼ぶほどだ。
「薬は苦いものや臭いものもあるじゃないですかぁ、それを子供にも飲めるように甘い薬を作られたという部分にすごい感銘を受けたんですよぅ」
シューリンの錬成所には時々、錬成所に駆けこむ親子がいる。
薬医としての噂も聞いているので医者よりもシューリンの錬成所にいった方が早いと思われているせいだ。
子供に薬を飲ませようとして何度か吐き出された経験があったリィティカからすれば、苦くない薬というのは新鮮で、なおかつ実用性の高いものでもあった。
しかし、学会は甘い薬では効能が落ちると言い、あまり高い評価を与えなかった。
逆に貴族の奥様方から信用の高いアロマテラピーの論文だけは高評価だったというのだから、学会というのにも政治があると知ったリィティカでもあった。
「子供ってかわいいじゃない。なのに病で苦しむなんて見てられないじゃない。それも、薬が飲めなくて病気が治らない、なんて見過ごせないわぁ」
「そうですよねぇ。病の子を連れてきたお母さんがものすごく心配そうな顔をしているんですよぅ。もう少し飲みやすいようにハチミツを混ぜることもあったんですがぁ……」
「ハチミツと混ぜても臭みまではどうにもならないものねぇ。だから調薬の段階で色々と、ね。そういえば学園は子供がいたわねぇ。良かったら調合書を差し上げましょうか? もちろんワタシの特製配合表つきよん」
「え……、えぇ~っ」
薬剤師にとって調合のレシピは術式師の術式と同じ価値がある。
そんなものを簡単にあげるだなんて逆に信用できないほどだ。
「だってアナタ、薬学錬成師でしょう? ならヨシュアンがよくお世話になっていると思うのよ」
「はいぃ、でもヨシュアン先生をご存知なんですかぁ」
「よく知ってるわよん。昔から生傷の絶えない人だったからねぇ」
エドウィンは懐かしいものを思い出すように目を細め、それを見たリィティカは少し安堵する。
奇妙な格好ではあるが優しい人なのだろう、それだけは確信できたのだ。
「そうそう。その子供の甘い薬はね。昔、ヨシュアンが病気の子に飲ませるためにワタシに聞いてきたものだったのよ。懐かしいわねぇ。彼とは古い付き合いでねぇ、とある人の頼みもあって専門医みたいなこともしているのよ。そういえばヨシュアンはどうしているかしら」
「えっと、ヨシュアン先生は調査隊の協力のためにぃ、アルファスリン姫と共に遺跡へと向かわれましたぁ」
「……あんら~、やっぱり妙なことになってるのねぇ」
一瞬、エドウィンの瞳が鷹のように鋭くなったような気がしたが、次の瞬間にはウィンクされ、戸惑うリィティカだった。
「えっとぉ、ここが学園長室ですぅ」
「案内、ありがとうねぇ。配合表は明日、こちらに届けさせるわぁ」
「あ、いえぇ、そのぉ……、ありがとうございますぅ。これから寒くなりますからきっと役に……、立っちゃダメですよね」
この一言にエドウィンはリィティカが善性の人間だと理解した。
「えぇ。アナタは立派な、とても優秀な錬成師ねぇ。次の機会は一緒にお茶したいわん。もう一人、女性の教師が居たと思うけどその人も呼んで女子だけのお茶会しましょ」
「はい。喜んでぇ……え? 女子だけぇ?」
微妙に混乱しているリィティカを置いて、エドウィンは学園長室へと入っていった。
中で何が話し合われているかリィティカはわからないが、エドウィンの登場もまた何か事件の兆しなのかな、とぼんやり思うくらいだった。




