一体、どれだけ飲めば毒となる?
「……私を置いて一人で逃げてくれんか?」
その言葉は優しさでもあった。
やせ細っていてもどことなく中老の品を感じさせる彼は弱りきった身体を木に預けてなお、他者を気遣う心に溢れていた。
その証拠に彼の瞳は決して諦めてはいなかった。
「こんな異国で死ぬようなこともあるまい。そも私を連れていこうと思わなければ一人で逃げられたはずだ」
語りかけた相手は特に何の反応も返さずに木々の向こう側を覗きこんでいる。
その向こう側に何があるか、彼は知っている。
つい先ほど、この『褐色の肌の男』から聞いていた。
「如何なる強者も数には勝てない。貴殿が優れた武芸者であることは知っている。だが、だからこそ誰よりも数の強さは身に沁みているだろう」
木々の向こう側にはおおよそ百を超える盗賊たちが彼と男を待ち構えている。
二対百という数字はどうあがいてもひっくり返せない絶望的な数字だ。
「ほうほう。何やら後ろからぞろぞろ来とるようじゃな。竜車が、ひの、ふの、みの……、わからん。まぁ今の半分かの。増援じゃ」
さらに絶望的な話を聞き、彼は決意する。
もう間に合わないかもしれないが男が逃げ延びる可能性にかけるしかない、と。
「はやく、ここから去りなさい」
「のう、爺様よ」
彼はここに来て理解していなかった。
男が優れた武芸者と知っていながらまだ常識で男を計っていた。
もしも彼がもう少し武芸というものを経験でよく理解していたのなら、また違った発想もあったのだろう。
しかし、彼はそうした武芸や武術といったものから少々縁遠い生き方をしていた。
「主ゃ、何を言うとるんじゃ?」
例えば圧倒的な数の敵を相手になおも子供みたいに口元を曲げるような、そうした規格外を計るスケールは常識にない、と知るべきであった。
「向こう側は平地じゃからの。もう少ししたら一斉に森に入ってくるじゃろうな」
男はこれまた平然と耳を疑うようなことを言い始める。
「ならば今が一番の好機じゃ。ちょっと行ってくるけぇの」
男は――ハインツ・タルンカンペと名乗った男は飛び出した。
兵法からすれば敵の準備が整うまで待つ道理などない。
むしろ率先して潰せと説くだろう。
だからといって二百に迫る人数の陣営に向かって飛びこむ者は自殺志願者よりももっとタチが悪い。
その身を爆弾に変えて特攻するような、一種の狂気じみた行動だろう。
「……なんという無茶苦茶な」
ハインツの行動を呆然と見ていた彼はすぐに正気に戻った。
思い返せば最初からハインツの行動は無慈悲で無謀で、無茶苦茶だった。
嵐のように現れて、全てをなぎ倒し、そして、先ほどのように去っていく。
「せめて何か他に方法が……、いや、この歩けない身体では無事を祈るしかない、か」
怒号が響く木々の向こう側から歓声が聞こえないよう、彼は指を重ねる。
祈りはやがてこれまでのことを思い出させる。
彼――ウォルカー・シューリンがハインツと出会い、ここに至るまでのことを。
※
ウォルカー・シューリンはリスリア西部に住む薬学錬成師だった。
愛弟子であるリィティカと共に医療に携わり、人々を癒しながら日々を暮らしていた。
彼の作る薬は多くの人々を救い、彼に感謝する者は多かった。
彼もまた自らの薬で人を救えることを喜び、同時に『どうしても救えない生命』に臍を噛んでいた。
「生きるということは多くの苦しみを背負うことだ。我々、薬学に携わる者ができるのはその苦しみを少しでも和らげることだけだろう。摂理に背くわけではなく、苦しみから解き放つではなく、苦しみと向き合うための手段として用いられなければならない」
同じようにリィティカが『どうしても救えない生命』に悲しんだ時、自らに言い聞かせるように語った。
決して驕らないよう、勘違いしてしまわないように戒めとしてだ。
「薬は時に死を与えることもあるだろう。苦しみを与えることもあるだろう。しかし、そこから生まれるもので新しい何かを救うこともある。背反する事柄に惑うこともあるだろう。だが忘れてはならないことがある」
『自らの経験』も踏まえて弟子に同じ道を進ませたくないという師の心だった。
「薬で全てを解決できはしないと。薬もまた自然の摂理より生まれたもの、摂理を越えるものではない」
教え、導き、実践し、愛弟子に全てを託すだけの余生だと思っていた。
まだその手が震え、すり鉢を持てなくなるまでは最後まで薬学錬成師であろうとした。
そんな決意と日々は荒々しく開け放たれたドアによって、壊されてしまった。
「薬学錬成師ウォルカー・シューリン! 貴様には違法な薬剤所持の疑いがかけられている! 王の定めたる罪を償い、罰を受け、許しを乞うために出頭しろ!」
突然、入ってきた兵たちが身に覚えのないことをまくし立てたのだ。
「私の錬成所には確かに危険な薬や材料はあるが、それら全ては領主様の許可を得て所持を認められている」
「申し開きは然るべき場所でしろ! それ以上の反論は国への反逆と見倣すぞ!」
ウォルカーの言葉は兵に一切、届かなかった。
憤懣や戸惑いこそあれど黙ったのは自らのためではない。
兵たちの姿と言葉に萎縮して震えるリィティカの姿が見えたからだ。
もしも、ここでまた無罪を主張すると兵はきっとウォルカーを殴るだろう。下手をすればリィティカにまで暴力が振るわれるかもしれない。
「リィティカよ。思うとおりにしなさい。君はもう一人前の錬成師だ。私がいなくとも――」
「早く行け!」
背中から小突かれ、ウォルカーが前につんのめる。
それに小さく悲鳴をあげたリィティカが何かを言う前に目線を向ける。
「(頼むから何も言うな。これ以上、刺激する必要はない。何、少しすれば疑いも晴れるのだ。我々は何も後ろ暗いことなぞしていないのだ。堂々としていればいい)」
ウォルカーの意図を悟ったのかリィティカは口を押さえ、壁に背を預けた。
それを見たウォルカーは安心して両手に木の枠をはめられ、兵たちが乗ってきたであろう『黒塗りの護送竜車』に乗りこむ。
左右を兵に固められながらもウォルカーはリィティカの無事を祈った。
もしも何かあったら息子がなんとかするだろうという希望的な観測こそが心の救いでもあった。
リィティカへの心配は尽きないが、我が身の心配も重要だ。
不審な点がいくつもあるのだ。
一つ目は出頭命令書がなかったこと。
ウォルカーは西部でもそこそこ名の通った錬成師だ。
先代領主の持病のために薬を作ったこともあり、かかりつけの医者とも顔なじみだ。
その流れで今代領主とも付き合いもあり、色々と便宜をはかってもらったこともある。
後ろ盾のある人物を出頭命令書もなく容疑だけで連行しているのだ。
ましてや領主と懇意にある人物を領主が捕まえるとなると本人の評判に関わる。
やるなら内密に、手紙を送るか何かで出頭を促すだろう。あるいは呼び出しを装い、場を改めて話をするなどのワンクッションを敷いてから行動するだろう。
もしも容疑ではなく確実な証拠を持っている場合、それがやむないのならば暗殺の一つや二つ、行われてもおかしな話ではない。
わざわざ容疑を盾に連行した部分に腑に落ちない。
二つ目は兵たちの乗ってきた『黒塗りの護送竜車』だ。
もしも何らかの事情でウォルカーを強制的に連行しなければならないと仮定しよう。
ここで奇妙なことは『黒塗りの護送竜車』を使用したことだ。
領主の紋章も入っていない、何のものかわからない竜車はしばしば秘密の出来事に使われる。
このことから『領主はウォルカーを捕まえたという出来事を隠したい』と見て取れる。
これがそもそもおかしい。
ウォルカーが知る領主なら堂々と正面からウォルカーを切るだろう。
領主が評判を気にしなければならない相手は国民ではなく王やその側近だ。
王に『懇意であっても不正を許さない人物』と思われた方が好人物に見えるだろう。
そうでなくとも領主は『そうしたまどろっこしいことを嫌う人物』だったとウォルカーは記憶している。
領主の人柄と兵たちの行動がちぐはぐで、何か噛み合わないものを感じるのだ。
そして、三つ目は――
「(錬成所から移動してしばらく経つが、いつまで経っても止まる気配がない)」
――今まさにウォルカー自身が体感していることだ。
錬成所から領主館まで朝に出れば昼前に辿り着くというのに、すでに半日以上、竜車は動き続けている。
通常、竜車での旅はこまめに休憩を取る。
これは騎竜たちの疲労を考えてのことだ。
「(まるで何かに急き立てられるわりに到着しない。わざわざ身柄を確保している以上、すぐに殺されはしないだろうが……)」
この時点で領主からの暗殺の可能性はないも同然だ。
ウォルカーはすでに兵たちを領主の私兵とは見ていない。おそらく兵ですらないのだろう。
ならば、一体、どこの誰が彼らを使ってウォルカーをさらったのかという疑問は何もわからない以上、推測も立てられない。
周囲がわからないように完全に閉ざした竜車の中で、揺れる術式ランプの光を見るか、耳を欹てて不思議な音はないか聴くことくらいだ。
やがて変化が訪れたのは空気が冷たくなった頃だろうか。
無言で竜車の外に放り出されたウォルカーの前にもう一台の竜車があった。
それ以外の情報を得るためにすぐさま周囲を観察する。
思ったとおり外は暗く、ひんやりとしている。
月の明かりが梢を照らし、そこが森であることがわかる。
それ以外は特に特徴らしいものはない。
領主の館でないことは明白であり、兵たちが『得体の知れない輩の尖兵』だと気づいたウォルカーはいよいよ覚悟する。
「(生命だけで済んでもらえると助かるのだが……)」
やがてウォルカーの前に黒いフードで顔を隠した人物が姿を現した。
「彼がウォルカー・シューリンか?」
その声にウォルカーは耳を塞ぎたくなった。
ひび割れた、複数人が一緒くたになって一文を読んでいるような、奇っ怪な声に鳥肌が立つ。
ウォルカーが感じているような違和感と奇っ怪さを兵たちも覚えているのだろう。
兵たちはフードの人物の問いに鷹揚に頷く。
「約束通り、連れてきた」
「報酬はそこに置いてある、それ、お前たちの後ろだ」
その言葉を理解した兵たちが背後を見ると革袋が置かれていた。
一抱えくらいある大きな革袋を兵の一人がゆっくりと担ぎ上げる。
「……たしかに、報酬はもらった」
兵たちは動揺を隠すように押し殺した声で返答する。
一方、ウォルカーもまた動揺を押し殺していた。
周囲を観察した時に確かに背後には何もなかった。
暗いせいで見落としがあったとかそんな話ではない。
竜車の入口は一つのみで、そこからウォルカーは放り出されたのだ。
そのすぐ後ろを兵たちが立っていたのだから『竜車と兵たちの間に何かあるのならウォルカーや兵たちはソレを見ていないとおかしい』のだ。
ならば答えは一つだろう。
なんらかの手段でウォルカーや兵たちの背後に革袋を置いたのだ。
何故、わざわざそんな行動を取ったのかこの場にいる誰も理解できない。
意図が理解できない行動ほど怖いものはない。
兵たちは静かに竜車に乗りこみ、ウォルカーを置いて森の闇に消えていった。
おそらくこの場に長く――むしろフードの人物の近くに居たくないという気持ちだったのだろう。
それはウォルカーも同じ気持ちだった。
「さて、ウォルカー・シューリン。不躾な真似をして申し訳なかったな」
「一体、私に何の用があってこんな真似をしたのだ」
「それを答える前にまず、後ろを見てもらおう」
言われ、後ろを向くと突如、遠くで何かが燃えていることに気づいた。
それが先ほどウォルカーを乗せてやってきた竜車だと気づくのに二呼吸の時間を必要とした。
「何故……、彼らを殺したのだ」
どうやって、という疑問はやはり無駄だった。
問題は実際に悪意を持ち、何らかの手段で偽兵を殺した理由だ。
それにフードの人物は答えず、ただ黄色い歯をにんまりと歪ませただけだった。
ウォルカーは息を飲み、知らず一歩、後ろに下がった瞬間、バランスを崩して倒れてしまった。
無様に地面に倒れ、立ち上がろうとした時にようやく足の腱が切れていることに気づく。
靴は『猛獣にでも食われたかのような跡』があるのに足首は鋭利な刃物で斬られたようにパックリと開いて、そこから血がだらだらと流れている。
「ウォルカー・シューリン。不躾ついでにアナタには手伝ってもらおう――」
なんとかして止血しようともがくウォルカーの襟首を掴まれ、フードの人物が乗ってきた竜車に強引に押しこまれる。
「大したことではない。アナタが残した仕事をちゃんと終わらせてもらうだけだ」
「残した、仕事とは何のことだ……?」
「――アルベルタ・サヴァルシュヴァルツ」
その名前にウォルカーは動きを止めた。
すぐに竜車が動き出し、ウォルカーは逃げる手段も身体も機会すらも逃してしまった。
ゴトゴトと揺れる世界の中でウォルカーは項垂れる。
「(悪夢は終わったわけではなく長く潜伏し、今になって表れたというのか)」
過去からやってきた赤い手に首を掴まれたような気がし、額の汗を拭う。
夜鷹の鳴き声がアルベルタの哄笑のように聞こえ、嫌がおうにもウォルカーを思い出へと引きずり始めた。
※
それは【十年地獄】が始まって第一寒波の通り過ぎた頃合だ。
彼女と出会ったのもまたこんな風に寒い季節だった。
自室で薬学理論を書き綴っていたウォルカーは竜車の音が近づいてくることに気づいて顔をあげた。
おそらく急患、それもある程度、資金を持っている者だ。
ウォルカーはこの時、金に困っていた。
いや、ウォルカーだけではなく誰もが平等に困っていたのだろう。
だんだんと高騰していく食料は国民全てを苦しめていた。
錬成所はこの寒さのお陰か繁盛しているので他より余裕があるのだが、旅先で拾った少女リィティカを養おうとするとどうしても台所事情が圧迫される。
息子や妻も当然、養っていかねばならないがだからといってリィティカを蔑ろにするつもりはなかった。
息子と妻のためにリィティカを放り出すという選択肢もない。
ウォルカーに出来るのは日々の蓄えでどうにか食料を備蓄していくことくらいだ。
リィティカが独り立ちするまでの辛抱だが、かと言って何もしないわけにもいかない。
漫然としない、真綿で首を絞められるような日々もこれで少しは楽になるだろう。
金持ちならば払いがいい。こんな時代でも金はあるところにはあるものだ。金でなくとも食料をもらうという手もある。
そう考え、階下を目指して机から立ち上がった。
そこに居たのは冬の寒さよりも寒気のする赤色だった。
腐った血で洗い染めたような白衣にこの世の全てを皮肉るような唇。黒い髪をなびかせた長身の女性。
ソレはウォルカーを見た瞬間、さらに唇をひん曲げて口を開いた。
「錆びついているようだが腕は確かなようだな」
「どちら様でしょうか。その出で立ちからやんごとない身分の方のようですが……」
「アルベルタ・サヴァルシュヴァルツ。ここより東にある領の領主になるか」
アルベルタはまるで他人事のように自らの身分を明かす。
だが、ウォルカーにしてみれば貴族が顔を出している以上、一つの大事になりえる。
慌てて頭を下げるが、その様子を見てアルベルタは非常につまらなさそうな顔をする。
「おい、何をしている」
ドスの効いた声と同時にウォルカーは襟首を捕まえられ、顔を上げさせられる。
抗おうにも女性とは思えない腕力だったのでなすがままにされるウォルカーだった。
「貴様は錬成師だろう。真理の追及を旨とする者でありながらくだらない権力ごときに頭を下げるのか? ん?」
「……己の性分と社会性は違い、身分に対し畏敬を持つのは当然のことでしょう」
その答えを聞いて、アルベルタはつまらなさそうにウォルカーを手放す。
「ハッ! 模範解答だな。まぁいい。どうでもいい。思想はともかく周囲の道具を見れば腕の程はわかる。貴様への要件は一つ、私の仕事を手伝うことだ」
「私にできることなどそう多くはありますまい」
「あぁ、貴様には調薬以外、何一つ期待していない。私の指定する薬品を作ればそれでいい。金は弾もう。何せ『もう一人、家族が増えた』のだろう?」
ウォルカーはギクリとするが、努めて顔に出さないようにした。
何故、ウォルカーの現状を知っているかなんて聞いても不幸しか起きないからだ。
そして、同時にこの仕事を受けなければならなくなった。
すでにアルベルタはウォルカーの周辺を調べていて、拒否すれば『どうにかして言うことを聞かせようとする』だろうからだ。
「……どの薬品をご所望で」
「人という種を壊す薬だ」
「そのようなものは――」
「ないとは言わせんぞ。人を治す薬があるのなら壊す薬も、いや、治すよりも先に壊す方が先だったはずだ。なぁ、ウォルカー・シューリン。どうして天然自然たるものに毒などというものが存在すると思う? 貴族が喰らう砂糖、香辛料もまた摂取をすぎると身体へと変調を来す。水もたらふく飲み過ぎると死ぬ。過ぎたるものは毒である。無毒であろうとも蓄積すれば毒へと変わる。なぁシューリンよ。貴様が作るその薬。人を救うための薬は――」
矢継ぎ早と繰り出される言葉。
その一つ一つが『知っている』からこそ蠱惑的に聞こえる。
先ほどまで二階の自室で書いていた薬物理論にしてもそうだ。
アルベルタはウォルカーのもっとも知りたい根本を蠱惑的に語っているだけなのだ。
「――一体、どれだけ飲めば毒となる?」
ウォルカーがもっと知りたいこと。
錬成師が望み、臨む真理『究極の純粋』よりも焦がれたもの。
「知らぬだろう? 知ってみたいとは思わないか?」
人に良い薬が犬に効くとは限らない。
犬が食べられるものが人も食べられるとは限らない。
ならば人と犬の違いは?
生物の違いが毒の効果を選択するのなら男と女でもまた違うのは何故か。
同じ男でも幼児と成人では薬の量が違うのは何故か。
いつだって全ての疑問はその根底に辿り着き、一つの答えに辿り着く。
それは種の仕組みだ。
生物の仕組みであり、もっとも知りたいのはヒトの仕組みだった。
ウォルカーの知りたいという欲求、ウォルカーの思想を支える壮大な疑問をアルベルタは見抜いているのだ。
「私は知らねばならない……、私の願いを叶えるために『ヒト種』を暴かなければならない。そのためならば倫理も真理も知ったことではない。知慧という名の屍山血河を渡り切り、全身で血を浴びようが何の痛痒があろうか」
退路はない。進む道の先はおそらく地獄であろう。
そう感じていても差し出された手は魅力でもあった。
「人を救いたいのなら人を暴け。この手を取れば間違いなく貴様に生命の仕組みを教えるだろう」
かくしてその手を取った。
そのことはいつまでも後悔することになる。
仕事の内容自体はそう難しいものではなかった。
アルベルタの指示に従い薬品を作り上げる、それだけのことだ。
時には実地として人体実験にも付き合わされたがさらに苦しくなる生活や剥がれていく倫理観が罪悪感を鈍らせていた。
だが、その時間は血腥くともウォルカー・シューリンにとって灼熱の時代でもあった。
日々、明かされる人体の神秘に効果的な薬剤、知らない毒草から魔薬に至るまで全てを使い、全てを明かし、全てを与えてきた。
得られる恩恵はウォルカーの老いた脳に鮮烈なひらめきと新しい疑問を浮かばせた。
もっと。さらにもっと、より効率的な人の反応を知りたい。
そう願い、欲望のまま突き動かされていた。
だが、それもアルベルタが死に、チームの解散となった時に初めて気づく。
アルベルタの実験場に革命軍が近寄っていると知り、参加者たちは各々、身を守るために逃げていった。
ある者は金目のものを奪い、またある者は研究資料を奪い、そして、ある者は自殺した。
そんな暗澹たる実験場でウォルカーは一人、アルベルタの研究を始末しようとしていた。
アルベルタの研究には後世に残してはならないものもあった。
錬成師としての良心の赴くまま研究資料に火を点け、薬剤を叩き割り、最後は実験生物たちを殺していった。
牢に繋がれた『様々な動物たち』を注射器で毒殺し、小動物なら木の棒で打ち据えて殺した。
最後の実験体の首を絞めたときにウォルカーは気づいてしまった。
リィティカと同じくらいの女の子。
その首をへし折らんばかりに握りしめているという事実に。
「――おぉ」
その声が自らの声帯から出たとは信じられず、壁に背をぶつけ慄いた。
少女の隣には同年代らしき少年の姿もある。
ぐったりとした少年はもう二度と瞳を開けないだろう。少女よりも先にウォルカーが殺したからだ。
それもまた息子のように見え、震えが止まらなくなる。
「――わた、私はなんという」
何よりも人を救いたかったはずだった。
誰よりも薬のことを知り、誰よりも人を救えると信じていた。
子供の頃から積み重ね、人生と共に歩んできた思考と思想があったはずだった。
「なんということをしていたのだ……ッ!」
夢から覚めたようにウォルカーは呻きをあげた。
家族のためだけに罪を犯して、救うために人を犯して、信念のために倫理すらも犯した先にあったのは救いですらなかった。
ただ単純に『余分なものは始末しよう』と思い、単純に『使えない道具を捨てるように動く』という己だった。
その後、どうやって錬成所に戻ってきたか覚えていない。
何も知らないリィティカと息子がウォルカーを笑顔で迎え、そして、哀しい顔で妻の死を伝えてきた。
そのことにまたもや愕然とする。
一皮剥けば己がアルベルタと同じ狂人であったことに吐き気がし、人知れず胃の中をぶちまけた。
吐瀉物の匂いがする壁の前でウォルカーは思考する。
「せめてあの悪魔と共に作ったものを……、少しでも多く、葬らねば」
しかし、それでは少女を殺したこととなんら変わりない。
処分してはならない。罪は決して償えないのだ。
「ならば、それらを投与された全てを救うような、そんな薬――解毒薬を作ろう」
以降、ウォルカーは魔薬の中和剤を作り始める。
彼が知る限り、もっとも人体に深く、深刻に影響する毒だからだ。
研究の資料はいざこざで流出してしまっている。
下手をすれば同じ薬が何度でも生産されるだろう。
もしも魔薬の中和薬さえ作れたら己の罪はもちろんのこと、次に現れるかもしれない魔薬の被害者を救うことにも繋がる。
もうそれしかないと両手を見つめて贖罪を決意する。
そのためにリィティカや息子には苦労をかけるかもしれないが、なるべくのことをしてやるしか方法はない。
そして、もう一つ決意したことがある。
二人の弟子には、決してウォルカーと同じ道を歩かせてはならない。
地獄を歩くのは己一人で十分だと、震える拳を握り締めた。
※
だが、現実はどうだろうか。
魔薬の中和剤を作っている途中で拉致され、再びウォルカーは魔薬を作らされようとしていた。
「アナタには魔薬を作ってもらおう。アルベルタが目指した一つの魔薬。多くの魔薬の集合であり原点。【泥の妙薬】の製造だ」
「それは……、アルベルタの思想とは真逆のものなはずだろう。彼女が目指していたものは――」
「死者蘇生。そのための通過点、あるいは到達点としての【原初のヒト】造り。だが原初にはもう一つの方向性が存在する」
「……作れるはずもない。アレは狂人ではあったがこの世の誰よりも真理に近かった。その思想からなる技術、発想、知識……、常人の私では足元にも及ばない。その彼女が作れなかったものをどうして作れようか」
「彼女は作れなかったのではなく作らなかっただけだ。それに何、その過程で作られるものにも価値がある、という話だ。差し当たってその辺から初めよう」
竜車の中でフードの人物が言った言葉が真実かどうかは問題ではない。
ウォルカーが信念を持って拒否するのは簡単なことだ。
だが、拒否して次に狙うのはウォルカーの技術を継承したリィティカと息子だ。
当然、今度は二人を拉致するだろう。
それだけはさせてはならない。
これ以上の罪を犯してはならない。
その一心でウォルカーはフードの人物の依頼を請け負った。
といってもあてがわれた錬成実験室はアルベルタの研究室や実験場ほどのものではなく、再現しようにも技術的な限界があった。
もちろん【泥の妙薬】なんてものは作れるはずもなく、資料的な手がかりもない。あるのは言い伝えに聞く『魔獣の神を復活させる』くらいの情報だ。
結局のところ既存の魔薬を製造することに終始した。
そして現実の問題としてウォルカーに出来たのは機材を理由に要求された魔薬の製造本数を減らすことくらいだろう。
「――助けはやはり、期待できないか」
目覚めたウォルカーは石造りの天井を見上げて、ポツリと呟いた。
ウォルカーが寝泊まりしている錬成実験室は地下にあり、荒い石造りがそのままに剥き出しにされていた。
廃れる前までは罪人を閉じ込めるための牢だったことが窺われる。
おそらく使われなくなった砦かを改造したのであろう。
ここまでは黒塗りの竜車、たどり着いてからは目隠しされてやってきた。
どこにいるのかなんて見当もつかない。
脱出も困難だった。
抜け道一つなく、あったとしても足の腱を切られたことで歩くのも困難な状態だ。逃げきれる可能性は低い。
ならばと考えつくのはウォルカーを心配したリィティカが領主に願い、捜索してくれていることくらいだがそれも望みが薄い。
領主云々が問題なのではない。
問題は領主の私兵程度ではこの砦にいる者は倒せない、ということだ。
この砦にはアルベルタの研究所にも居た洗脳実験体が幾人か配備されている。
彼らの性能は人間の形をした獣と同等だ。
その気になれば素手で岩を砕くだろう、その拳を壊してでも。
「洗脳実験体をものともせずに助けに来る者など――そんなものは法術式騎士団くらいしか思いつかないな」
国からすればウォルカーは貴重な人材だろうが、いないからといって困るものでもない。
領内や近隣では名が通っていても国全てに名前が売れているほど有名人ではない。
国がウォルカーを重要視する可能性は低いだろう。
フードの人物も追跡や情報漏れにはひどく神経質な様子だった。
ウォルカーの跡からここまで辿り着くのは難しいだろう。
以上の悲観から法術式騎士団は来ないだろうと結論づけていた。
もしかするとこのまま救われず、人を不幸にする薬を作り続けて死ぬのだろうか。
全てを中途半端に放置して、残ったのはただ救われない己と他人だけ。
「案外、お似合いの死に方なのだろう」
自嘲気味に呟き、その日もフードの人物から課せられたノルマを達成しようとして、ふと気づく。
まるで巨人の足にでも踏まれているかのように小刻みに揺れる天井。
そして、等しく聞くことのなかった喧騒にも似たざわめき。
異常の中で生活していても異常が起きるということに奇妙な感慨すら覚えるくらいだった。
起き上がり、慎重に歩き、鋼の扉に近づく。
ひやりと頬に伝わる鉄の冷たさの向こうから騒然とした気配がする。
これ以上の情報を得るためには扉を開けなければならない。
しかし、扉は外からかけられており鍵は洗脳実験体が持っている。
何かがあったにしろ、侵入者ならいずれここにたどり着くだろう。
そうでないのならいつも通り最悪の仕事を続けるだけの話だ。
よろよろとその場から離れ、適当な椅子に座り込む。
願わくばこの扉が開いてくれたら、と、そんな淡い期待をして待っていた。
確かにこの時、扉は開いた。
ただし、鉄扉が粉微塵になって開くという斬新な開け方だったが。
「ほう、ようやくマトモな人間がおったの。少しくたびれておるが大丈夫かの爺様よ」
破壊音と共に現れたのは褐色の肌の男性だった。
この日、ウォルカーは久しぶりに人間を見た気持ちになっていた。
しかし、その気分もすぐに改めなければならなくなるだろう。
何故ならウォルカーを見つけた男はハインツ・タルンカンペであり、あまりに無茶苦茶な人物だったからだ。
※
「そろそろ王都のはずなんじゃがなぁ」
ひときわ高い木の頂辺で、褐色の肌の男が周囲を見渡していた。
片手は眼の上に添え、もう片方の手には『雉の足を掴み』、思う存分、眺め終わるとひと飛びで地面に降り立った。
彼の名前はハインツ・タルンカンペ。
彼はタラスタット平原近くの村から王都に向けて北に向かったまでは良かった。
だが、生来の根無し草か、はたまた方角を気にするような性格ではなかったせいか――あるいは両方が原因だろう――彼は見事に西と東を間違って歩いてしまっていた。
「森、森、森ばかりじゃのぉ」
ようするに王都は逆方向だ。
「ま、そのうち着かぁな」
常人ならばここで引き返すなり人を見つけるなりして道を見つけるのだがハインツはそうではない。
極めて適当かつ安直な楽観で我が道を突き進む。
ついでに雉の羽をむしり、下ごしらえしながら森を歩いていく。
雉が「ぎょえー」と鳴くがまったく意に介さず、自儘に気儘にふらついていると、ふと足元に違和感を覚え、そっと足を引く。
「……ほう?」
うっすらであるが荷車の轍らしきものがずっと奥へと続いていた。
よくよく見れば竜車が通れそうな道、というよりも空間がある。丁寧に隠しているが不自然に木々の繋がりがないのだ。
誰かが森の中を頻繁に荷車で移動しないとできない道だ。
「つまり、この先に行きゃぁ誰かしら会えるわけじゃな」
一人、うんうんと頷くハインツ。
のんびりと轍を追って進み続ける。
しかし、彼は忘れている。
彼は見渡す限り森と言った。
彼自身もその深い森の中を彷徨っているのだ。
そんな森の中で竜車などという大きなものを走らせ、それも道ができるまで何度も往復していることに違和感を持たなかった。
もっともハインツにとって違和感に気づこうが気づくまいが関係ないのだ。
例えば肩から腕が生えたヴォルフの集団と出会った時には「変わった狼じゃのぉ」と思いつつ蹴散らし、不揃いな節足がいくつも張りついた平虫に襲われても特に何も思わず拳で両断してのけた。
常識的に考えても、こうまで異形が蔓延る森はない。
生態系として成り立たない形状と行動は本能に訴える歪さを孕み、それはそっくりそのまま不自然な成り立ちを見るものに伝えさせる。
それらは全て種を暴くために改造された、一代限りの悪趣味。
手前勝手に改造し、不要だと断じ森に廃棄された【異形の捨て子】たちだ。
ありもしないパーツを継ぎ足されて、その拒絶反応に苦しむ彼らは自ら以外の動物を襲い、捕食することでようやく苦しみから解放される。
何故、苦しまねばならないのか。
何故、生まれてきてしまったのか。
呪詛にも似た狂気にすがり、彼らはハインツに襲いかかる。
そして、殺されることで救われていく。
そんな内情をハインツは知らない。
ただ襲いかかってくるから打ち、砕き、殺していく。
天然自然の摂理、弱肉強食のあるままに、しかし、それらを捕食するつもりなく殺戮を繰り返していく。
かくしてハインツは砦の前まで辿り着く。
ちなみに雉はハインツの腰にある革袋にしまわれていた。
激しい戦闘に巻きこまれ、ぐったりとして鳴く気力すら失ってしまっていたからだ。
どうやら雉の苦難はまだ終わらないようだ。
「ほう、ずいぶんとまた剛毅よのぉ」
程度としては中規模の砦だろうか。
全体をぐるりと囲む黄土色の土壁に石造りの見晴台。
ところどころの塀が崩れて、隙間からシダが生え、蔓がびっしりとこびりつき、保護色となって見つかりづらくなっていたのだろう。
見た目はボロボロで人が住んでいる様子も見られないのに中から複数の息吹が感じられる。
ひっそりとした敵意を滲ませ、ハインツの一挙一動を観察している気配がする。
だからこそハインツは口元を曲げた。
この砦に近づけば襲われる、そんなものは承知の上で無造作に大扉を叩き始めた。
※
洗脳実験体たちは砦に近づく何者かの気配を感じ、白い瞳を開き始めた。
彼らは薬品により自我のほとんどを奪われている。
そのままであったら獣のように動くもの全てに襲いかかるだろう。
それでは運用に支障をきたしてしまう。
なので上位者の命令のみ聞くように『特殊な針を脳髄に突き刺している』。
これにより『針』の持ち主の匂いに反応し、『針』の持ち主の言うことだけを聞く獣が完成する。
彼らに命じられた仕事は三つ。
『針の持ち主を襲わない』こと。
『砦の中にいる者を襲わない』こと。
そして、『砦の外から来る者を襲う』こと。
彼らは『針』を持たず外から来る人間がやってきたことに気づき、即座に配置についた。
これは『針』の効果ではなく、獣としてもっとも効率の良い群れの狩りを彼らなりに学び、培ってきたからだ。
彼らは群れこそが効率的な条件だと判断したのだろう。
自我を失いながらも条件によって生存効率を割り出す知性があった。
彼らは獲物が十分、近づいてくるまで待った。
待ち伏せもまた知性が生み出した一つの手段だ。
「たのもー!」
大声をあげ、扉を叩く行動は洗脳実験体たちにとって敵対行動にしか見えなかった。
それが契機だった。
見晴台からハインツめがけ飛び降り、落下と共に振り下ろされる拳。
脳天を砕くはずだった拳はするりと躱され、大地を砕いた。
「やっとこさ話ができそうな輩が出てきたと思えば口上も無したぁ、礼儀知らずじゃの」
その言葉に返答する口は洗脳実験体たちになかった。物理的な意味でなかった。
なんてことはない。
ハインツは洗脳実験体が攻撃してきたのに合わせて避けながら拳を当てただけの話だ。
ほとんど洗脳実験体たちの威力がそのまま頭に伝わったような形になるのだろう。
その結果、頭が砕けて破裂してしまったのだ。
ポトリと崩れ落ちる洗脳実験体たち。
これを見て他の洗脳実験体たちはざわりと身を震わせる。
恐怖を感じるような理性は彼らにない。ただ敵が強大なのでより強い身体を構築しようと筋肉を震わせただけだった。
彼らは一斉にハインツに向かって走り出す。
見晴台から、砦の窓から、そして正面の扉から、ありとあらゆる出入り口からハインツを殺すために全力疾走を始めた。
「うぅむ。前もこんなヤツらとやりあった気がするんじゃが……」
殺到する洗脳実験体たちを見て、のんびりとつぶやく。
相手が有無を言わさずに殺しにかかってくるのならハインツも相手を生かす理由がない。
「ほい、よっと」
それはただの踏みこみにしか見えなかった。
たった一歩、ハインツが地面を強く踏みこんだ瞬間、洗脳実験体たちがピタリと止まり出す。
まるで足が地面に縫いつけられたように動けず、しかし戒めに抗おうとしているのか痙攣をし続けている。
【浸透導歩】と呼ばれる導歩の派生にあたる歩法だ。
相手の間合いや動きを歩法で制限する導歩にレギンヒルトが使った強波形を組み合わせた技術だ。
足から地面に波形を流しこみ、地面を伝って相手の足を縛りつけたのだ。
ほんの一瞬の停滞。
その時にはもうハインツは大扉の向こう側にいた。
『砦の中にいる者を襲わない』という条件は満たした。
もう洗脳実験体たちにハインツを襲う必要はなくなった。
「ゆっくり眠れ。己を失ったまま戦鬼として在るのは辛かろうよ」
そして、肉体的にも襲うことができなくなっていた。
ある者は胸に大穴を、ある者は腹部を砕かれ、その一人一つに開けられた致命傷に崩れていく。
すれ違ったその瞬間、全てを拳で絶命させていったのだ。
緩やかに土にしみていく血の色に背を向け、ハインツは鋭い瞳で砦の頂上にいるフードの人物を見上げる。
「お見事……、すばらしい【我地】だ」
「主ゃ、あの哀れな骸の飼い主かの」
「そうだ。そしてこの【スメン砦】の主でもある」
フードの人物が飛び降り、地面に着地した瞬間、石畳が砕け散る。
まるで『超重量の物体』が落ちたかのように陥没し、ハインツの足元を揺らす。
「残念ながら客を迎えるつもりがなかったのでね。歓迎の挨拶はなしだ。ところで一つ、尋ねたいことがある」
そして、何事もなかったかのようにクレーターの中心部で語りだす。
「この【異形の森】は全ての入口だけに留まらず、幾重にも侵入者対策されていたはず。それをどうやってここまで辿りつけたのか」
「妙なことを聞く輩じゃの。もちろん歩いてじゃろ」
「なるほど。言うつもりはない、と」
フードの人物はひび割れた声で愉快そうにつぶやく。
その違和感と話の通じていないところにさすがのハインツも眉を曲げてしまった。
フードの人物が誤解するのも仕方のない話だった。
たとえば森の入口。
カモフラージュされ、認識阻害の術式具によって森の入口自体がなかったように作られている。
森のあちこちには監視用、あるいは迎撃用の罠や生物が犇めいていて侵入者を確実に排除するように作られている。
他にも砦は地形的に守られている。
東は魔獣たちの巣窟である【モンストレアの谷】があり、東部からの行き来は完全に封鎖されており、北部は険しい山脈がある。
元々、ここから北西部にあった亡国の前線基地としてあった【スメン砦】はここより南部を警戒するためだけに作られたものだった。
入口の南部に重点的な警戒網を敷けば単純に歩いてこられる場所ではないのだ。
一方、真実はハインツが言うとおり歩いてきた、それだけだった。
ただ修行がてらに難所ばかり歩くので、通常の警戒網がまったく役に立たなかっただけだった。
今回の場合だと知らず【モンストレアの谷】を斜めに突っ切ってきたせいで警戒網を全スルーしてしまっていた。
「どちらにしろアナタにはここで死んでもらうことになる」
「主ゃ、道を訪ねに来た相手をいちいち殺すつもりかの」
「『ここに我々がいる』と知ってしまった、それだけで十分な理由だ。それにアナタは――」
フードの人物は大きく手を広げ、裾を払う。
その芝居じみた格好とは裏腹にひび割れた声は一層、硬い。
「――殺すと言った相手にそんな顔を浮かべられる生き物だ。どのみち戦うつもりだったはずだろう」
ハインツは笑っていた。
口元をひん曲げ、目を歪ませ、子供のように期待に満ちた瞳を輝かせ、拳を握る。
如何なる理由があろうとも、如何なる敵であろうとも関係がなく、正義であろうが邪悪であろうが相対するのなら彼の拳は善悪を問わない。




