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リーングラードの学び舎より  作者: いえこけい
第三章
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恋の代金を憎しみでは払いたくない

「学び舎とは違う、相互の研究を影響させあう研究施設です」

「さすがに教師しながら施設を作るなんて無理ですよ」


 レギィの要求。いえ条件ですか。

 学園とは違う、研究を重視する学問施設を作るとはこれまた……、願ってもないことですが問題がありますね。


「わかっています。学問施設に必要な許可は私がランスバール陛下より頂きます。建設もこちらが手配します。人員の配置や費用もジークリンデ領より捻出します」


 その条件だと自分、あんまり必要ないような気がしません?


 他に隠された条件はないか、少しだけ黙考しました。

 視界の隅に見慣れた誰かさんが居たような気がしましたが、今は気にしていられません。


 今のところ、特に変わった条件ではありません。

 となるとやっぱり、ここからですね。


「ヨシュアンにはこの学問施設の特別顧問としての訪問をしてもらいます。年に二度……いえ、毎週」

「殺す気ですか」


 毎週って……、どうせジークリンデ領に作るのでしょう?

 つまり、ジークリンデ領に来いってことでしょう? それじゃ、ジークリンデ領に引越ししろということと同じじゃないですか。


 職権乱用も甚だしい。


「この『義務教育計画』中は仕方ありませんので諦めます」


 上から目線でありがとうございます。

 ちょー殴りたいです。


「自分は王都から動く気はありませんよ」


 どこぞのバカを野放しにするわけにはいきません。

 アレはベルベールさんか自分が管理してないとすぐアホな行為に走りますからね。


「ヨシュアン。私は性教育の分野を学問にするというヨシュアンの考えを深く考えました。人口増を目指しているというのならヨシュアンはまだ私に言っていないことがあるのではないでしょうか?」

「何かありましたっけ?」

「……女性にとって出産はとても大変なことです。死ぬ人もいるでしょう。ヨシュアンがそんな人々を助けようと考えていることはとても良いことです。尊いことだと思います。ですがヨシュアンならもう一つ、考えを巡らせていてもおかしくはないのではありませんか? 私は出産の経験がないので思い当たりませんでしたが婆やが教えてくれました」


 甘く見すぎた、でしょうか?

 レギィほど頭がいいのなら気づくと予想すべきでした。

 いえ、気づくとは思っていましたが、こんなに早く考えを巡らせてくるとは思いませんでした。


 レギィにはメリットしか語っていません。

 デメリットも『恥にもなりかねない性の分野』という風な話し方をしました。


 性の正しい知識を広めれば幼児が死ににくくなる……、なんて言いました。

 いえ、ある意味、正しいのです。

 あくまで性の正しい知識で死ににくくなるのは『出産の危険の軽減』です。

 出生率しか上げられません。


「赤ちゃんの時が一番、死にやすいということを。ヨシュアンが私に託し、広めようとする性の知識は本当に赤ちゃんの死亡原因まで減らせるのですか?」

「いいえ。できませんよ」


 メルサラはつまらなさそうにそっぽを向いて、シェスタさんはじぃ、と自分だけを見ています。

 あ、これ、二人共、話聞いてませんね。


「ヨシュアン。嘘を、ついたのですか?」

「いいえ、嘘ではありませんよ。少なくとも性の分野が確立しないと目を向けようとしませんからね、幼児医学や予防医学は。いえ、正確には性の分野ではなく、出産などのメカニズムを解明し補助する最適な産科学ですね」


 幼児医学――小児科学と産科学は共に同じライフステージに区分される分野です。

 同じ分類にできる、ということですね。


 ライフステージというのは人生のそれぞれの出来事や成長を区切って節目とする考え方です。

 幼児には幼児の、成人には成人の、老人には老人の、そうした対応が必要だということです。


 現状、すべてが医学とごちゃまぜになってしまっているため、こうした区分を作る必要もありました。

 専門化、そして細分化ですね。


「将来的には下地として必要な分野です。性の分野は学問として産科学を生み出すための先駆けで、レギィに知ってもらいたかったのは……」

「そういう話ではありませんっ!」


 立ち上がり、じっと自分を見つめるレギィ。

 その瞳にはうっすらと水分が溜まっていました。


「ならそうとあの日、その話を聞いた時に言えばよかったのではありませんかっ! まるで騙すような言葉とやり方で、どうしてです。素直にそう言ってくれたらよかったではありませんかっ!」


 理由はわかっています。

 しかし、レギィ。それを貴方に言うつもりはありません。

 とはいえ、口先でどうにかなる状態ではありません。


 何を語れば、レギィは納得してくれる?

 あいにく、この状況。いい言い訳を思いつきそうにありません。


 ただ本当に悲しそうなレギィには少しだけ、悪いと思っています。


「どうしてヨシュアンはそう、私と向き合ってくれないのです! 本当の言葉を言ってくれないのです!」


 なぁなぁで慰めるか謝るか。

 わかっています。どちらも逃げの選択でしかありません。


 ですが、本当のことを言えないのなら人は嘘をつくしかないんです。


 まるで自分を取り巻く、嘘設定のように。


「カカ! たっまんねーな、おい」


 口調ほど心底、うんざりした調子でメルサラは口にくわえていた楊枝を空中にペッと吐き出しました。

 楊枝は一瞬で燃え尽き、木の焼けた薄い匂いが自分の鼻をかすめました。


「んなこともわかんねーのかよ、日傘好きのお嬢ちゃんはよーぅ。生娘だってもっとマシな喘ぎ声をあげんぜ?」

「メルサラさんがどうしてヨシュアンのことがわかるのですかっ」

「あぁ? わかるに決まってんじゃねぇか。こっちゃ23連敗中だぜ? ベッドの上じゃぁ不戦勝だがよ」


 喉が引き攣るような笑い声をあげて、グルリとレギィを睨みつけるメルサラ。


 おい、何を言うつもりだ。


「んなもん、ヨシュアンがテメェのこと、憎くて憎くてたまんねーからだろ」


 瞬間、指先から伸びたエス・ブレドをメルサラの顔面に叩き込もうとして、爆発が手の甲を叩きました。

 このメルサラ! 一瞬で極小のエス・プリムを合わせてきやがった!


 慌てて自分がイスから転げるように避難してしまいました。

 しかし、今更逃げを打っても、手の甲にはじくじくと焼ける痛みが走っていました。


 思考に身体が寄ったような動きに舌打ちしそうです。


「おせぇよ、バーカ。怪我が治ってねぇのにオレに一撃、入れられると思うなよ」


 怪我に気を遣ったつもりはなかったのですが、肉体はそうではなかったようです。

 その数瞬、しかしメルサラ相手ではあまりにも大きな隙だったようです。


「黙って見てろよ、怪我人」


 姿勢すら崩さずにメルサラはまたレギィを睨めつけました。

 その反対で、レギィは何を言われたかわからない顔をしています。


「おい、白いの。つまり、そういうことだっつーの。アレだろ、ジグマルドの野郎がヨシュアンに何したか知らねーけどな。テメェの身内だってー話じゃねぇか。こいつがジグマルドの目の前にいる時ゃ、このオレでも近寄りたくねぇんだよ。羨ましいぐらいに殺気ムンムンでよぅ。そんなにブチ殺したい相手の身内っつーなら、殺したくてたまんねぇだろ、フツー!」

「そんな、それは、でも、ヨシュアンは納得していると、理解していると」

「カカ! カハハハッ!! なんだそりゃぁ! 傑作すぎんだろ!!」


 とうとう足を机に置いてバタバタし始めました。


 そっと手に触れられる感触で隣を見ると、何を考えているかわからないシェスタさんが服をちぎって、自分の手の甲の手当をしていました。


 あ、火傷の治療ですか。

 痛みすら忘れていました。


 しかし、メルサラ。

 レギィと黒色野郎の関係に気づいて……、あ、あのいたずらが成功した悪ガキみたいな顔は違いますね。

 カマをかけたのでしょう。相変わらず本能で正解を選ぶバカです。


「誰がそんな言葉信じるんだよ! バカかテメェ! 頭ン中までお花畑かぁ! くっせー香水まきちらす前にその愉快なオツムで常識とやらを考えてみろよ!」


 非常識が常識を語っているあたりがとてもファンタジーでした。


「殺してぇって頭を理屈で納得させられるかボケ!」


 メルサラに殺意を語らせたら右に出る者はいません。


 複数の否定の言葉が一瞬で浮かびましたが、しかし、同時にメルサラの言葉が正しいと思う自分だけは……、否定できませんでした。


 憎いかどうかと聞かれたら、自分は憎くないと答えましょう。

 嫌いかどうかと問われたら、自分は嫌いじゃないと答えましょう。


 しかし、『憎いだろ?』と言われたら、自分は答えに詰まります。


 ジグマルド――あの黒色野郎を殺し損ねたのも、殺すのを止めたのも、アレの身内なのも、全部、レギィなのですから。


 これがレギィと向き合いたくない理由です。

 こんな気持ちのまま、向き合えばレギィが傷つきます。


 どんな結末になるかなんてどうでもいい。

 無意味に傷つけるくらいなら、ダッシュで逃げます。


 現在、逃げられそうにありません。

 こういう場合は――どうしましょう?


 ありのままを語ることはできない。

 嘘をつくにはあまりにレギィは気づいてしまいました。

 逃げることも背くこともできない。

 説得するにも言いくるめるにもメルサラの説得力を超えた言葉を自分は持ち合わせていません。


 絶対不可避の状況です。


「本当、ですか? ヨシュアン」


 レギィの顔からは表情が抜け落ちていました。

 

 不可避であることに間違いありません。

 しかし、避けれえない程度の危機、何度も覆してきました。

 その程度ができなくて何が【戦略級】術式師か。


「その話は放課後にしましょう」

「へたれだ! カカッ! へたれがいんぞ!」


 メルサラが大爆笑でした。

 うるさい、ヘタレと呼ぶなら呼ぶといい。

 臆病者というのなら臆病者と罵れ。


 今は血路を開くんです!


「少なくともここには生徒がいます。聞き耳くらい立てています。何も自分たちのことを生徒に聴かせる必要はありませんよ。河岸を変えるくらい、訳はないはずです」

「………ッ」


 レギィは肯定とも否定とも言えないまま、無言でした。

 本当のことを聞きたいはずでしょう。今すぐにでも、聞きたいはずです。

 しかし、お互い立場を忘れてはいけないはずです。


「お互い、好き勝手にできる時期なんてとっくに過ぎているでしょう」

「……わかりました」


 ちょうどいいことに予鈴が鳴りました。

 よし、逃げきれる、いえ、矛盾するようですがこのまま逃げてはいけないのも確かです。


 ただ逃げるのではなく、次に繋げる戦略的撤退をすべきです。


 自分はシェスタさんに手当の礼を目でやって、それからレギィと向き合いました。


「信じられないかもしれませんが、理由あってのことです」

「……信じます、でも」


 レギィの無理矢理作った顔が、笑顔が胸に痛いです。


「信じさせてください。ヨシュアンの言葉で」


 胸が痛いどころか、ドキドキしています。

 殺されるんじゃないかと内心、ビクビクですよ。


 冷静に、表情すら変えなかった自分ですが心の中の自分は全力で頭を抱えています。

 あれ? どうしてこうなったんでしょう?


 自業自得なんですけどね、傷つけまいと逃げ続けたツケです。


 レギィは向き合う覚悟をしています。

 おそらく辛いことを言われる覚悟をしています。


 傷つき、血を流す覚悟を彼女もしました。

 かつて自分がそうしたように。


 でも気づいていますか?

 その覚悟は相手にも強いる覚悟だということを。


 そして自分は理解しているのでしょうか。

 レギィがそこまで覚悟を決める理由を。


 本当の、芯に迫った理由を自分は知らないのではないのでしょうか。

 お互い冷静になるための時間は得ました。


 だからハイ、そうですかと安易に向き合うわけにもいきません。

 できればそのまま、失望して諦めて欲しいものです。


「修羅場……、あれって修羅場?」

「三人囲って修羅場を【大食堂】でやるなんて……、さすがヨシュアン先生だぜ」


 ヒソヒソと語り合う数名の生徒たちや剣呑な気配を放つプルミエールの目線がとても痛かったです。

 自分なんか生徒に言い訳する時間も得ましたよ。


 何事もなかったかのように【大食堂】を出ると後ろから追ってくる気配があります。


「で、何か用ですか? マッフル君」

「ん~……、べっつに~」


 くそう! 気づいてましたよ、【大食堂】の隅っこに珍しくマッフル君がいたことくらい。

 絶対、さっきの話を聞いてたに決まっています。


 しばらくペタペタとついて来てましたが職員室の前でマッフル君が口を開きました。


「先生さ、マジ凹み中?」


 子供のくせに大人を心配するな、とか。

 そんなこと気にする前に己の心配をしろ、とか。


 色々考える間すらなく、唖然としてしまいました。


「……いつものことですよ」

「いや、いつものことだったら人としてダメでしょ。知ってたけど」


 肩をすくめてマッフル君の頭を撫でてやりました。

 今回は怒りませんでしたね。身から出た錆どころか刀身が折れてますよ、これ。


「昔っから面倒には事欠かない人生でしてね。マッフル君もそろそろ教室……ではなく【教養実習室】ですね。羊皮紙は忘れないようにして戻りなさい」

「ん~、ま、そういうことにしといてあげる」


 生意気な口を聞くマッフル君のオデコを軽くデコピンして職員室に入りました。


 生徒に心配されるようだと、まだまだなんでしょうね。

 表には出してなかったはずですが、それでもわかるんでしょう。


 以前、シャルティア先生が言ったように子供は大人の顔に敏感だというのが、よくよくわかりました。


 でも不思議な話ですね。


 いつの間にか、心は少し軽くなったような気がします。


 向き合う……、えぇ、安易に向き合うわけにはいかない。

 それでも、向き合いましょうか。

 なんてことはないじゃないですか。

 何を今更、誰かを傷つけることなんていつものことです。


 自分が傷つくことだって、いつものことです。


 何より、忘れていました。

 ティッド君や生徒に言っていたじゃないですか。


 生徒に向かい合う勇気を持てと言いながら、教師がそんな体たらくでどうする。


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