荒波に浮かぶ瀬
初めて午前のこの時間に屋上へと登りました。
明々と照らす強い太陽の光も明るみに出せないほど、自分の心は真っ暗に染まっていました。
今なら黒属性の深奥にたどり着けるかもしれません。
「最近は風が強い日ばかりですね。」
レギィはなびく髪を少しだけ抑えて風景を楽しんでいました。
余裕ですね。その余裕、少しは分けてください。
こっちは突然の婚約者発言でマトモに立っているのかどうかわかりません。
いえ、もう欄干に体重を預けています。
「風なんてどうでもいいと思いませんか? 思いますよね? 思ってください。大事なものはそんなありふれた自然の中になく人との触れ合いで、唾棄すべきはその間に横たわる陰謀めいた闇ですよ!」
有象無象の森羅万象より自分の人生がかかっています。
「一体、どういう面白い事象が作用して自分が婚約者になったのか、説明してください」
場合によっては自分、ちょっと【愚剣】を取りに王都まで帰らなければなりません。
「嫌ですか? 私との婚約は」
「嫌とか嫌じゃないとかではなくてですね、当人同士の気持ちもなく勝手に決められてる時点でどうかと思いませんか」
「よくある話ですね」
「ですよね!」
レギィはやんごとないお貴族様なので、庶民たる自分とは結婚観が違うんですね、そうでしたね滅びればいいのに……。
「婚約者はどうするんです? 偽物ですけど、自分とはかけ離れた設定でしょう?」
たしかこんな設定でした。
リスリア北西の辺境、このリーングラードに近い場所。
山奥の別荘で静養している病弱な青年『シグニール・ウェン・へスラント』がいました。
線が細く、体格も女性と見間違うほど小さいその青年は、内紛時すらも世界から取り残されたように窓から見える同じ景色ばかり眺めていた。
彼には生きる希望もなく、ただ弱りきって死ぬばかりと絶望しながら病床に臥せっていました。
その青年の前に転機が訪れました。
ちょうど各領に演説回りをしていたレギィがこのド田舎に訪れたのです。
すでに年老いて先のない領主はせめて孫の無聊を慰めようとレギィを青年と会わせたのでした。
青年の絶望に伏せた瞳を見たレギィは、持ち前の優しさで青年を元気付けようとしました。
何度も言葉をかけ、何度も生きる勇気を語りました。
頑なだった青年も幾度となく交わされるレギィとのやり取りに徐々に希望を持つようになりました。
しかし、レギィはまた民衆の鼓舞のために旅立たねばなりませんでした。
そう長くは一緒に居られない。
レギィを待つ人々は多く、青年はここから動くことはできない。
出会いが神の気まぐれでなされたのなら、別れは必然でした。
そこで青年はレギィと約束をしました。
この病が治り、外に出られたその時は――結婚して欲しいと。
レギィは青年に希望を持たせるために婚約をし、そして内紛で傷つく人々の心を癒すために領地を後にしたのでした。
そして内紛が終わり、青年はレギィとの約束通り、見事、健康になってレギィに会いに行った――まるで吟遊詩人が語るような愛の美談です唾棄すべきですね。
ちなみに考えたのは自分ではありません。
ベルベールさんです。
以前、アルベルヒの指輪の解除ワードを覚えているでしょうか。
アレを設定したのもベルベールさんです。
見た目のクールさの割に乙女チックな趣向が好きなようでして。意外と読む本も恋愛重視の物語だったりします。
本人曰く「ありえないから面白い」だそうです。
実際、恋愛中の人間の頭の中はあまり良いものではないようですね。
酩酊している酒飲みの頭の中と同じだと言ってました。
ともあれ架空の人物かと言われるとそうでもなく、実はへスラント辺境領は存在してますし、へスラント卿もかなりのご高齢です。
孫もいます。孫の名前は確かにシグニールです。
実在の人物を元に設定していたのです。
「『シグニール・ウェン・へスラント』はもう身罷っていますので問題はありません」
本人が美談にトドメを刺しましたよ。
いや、まぁ、設定ですから嘘も多分に含まれているというお話です。
シグニールは療養ということになっていますが、実際は幼い頃に死んでおり、辺境だったために王都までその事実が伝わっていなかっただけです。
そこをベルベールさんが目を付け、あることないこと装飾して出来上がったのが偽婚約者です。
ちなみにへスラント卿はジークリンデ領との関わり合いのある、つまり血縁です。
へスラント卿は大叔父でしたっけ? ともあれ身内もグルだということです。
「それにそうかけ離れた話でもありません」
「どこがですか?」
どの辺に共通点があると思ったのですか?
自分とシグニール、身長くらいしか共通点がありませんよ。
しかし、レギィは特に肯定も否定もせず、曖昧な笑みだけを浮かべました。
なんでそんな気になるような仕草を取るんですか。
「実体のない話のままにしておくべきではない、とランスバール王の案によって実際に役をしたヨシュアンをそのまま当てたのです」
「あ、もうわかりました」
バカ王の名前が出た瞬間、全てを理解しました。
この世の理を理解したような気分でした。
あの恐るるべきバカは何を考えているのでしょう。
そんなに自分が結婚しないことをバカにしてんでしょうか?
あれか、レギィもレギィで反対しなかったのですね、そりゃそうでしょうよ。反対する理由はありませんからね!
ベルベールさんも言ってくれたら良かったと言いたいのですが、ベルベールさんはバカ王の味方ですからね。仲良くしていても容赦はありません。
仕方ないのもわかります。
つまり、この件は全てバカ王が悪いようです。
「わかりました。このことはちゃんと復讐帳に記載しておきます。ベルガ・エス・プリム三発分は軽いですね」
「たまに陰湿なことを言い出しますね、ヨシュアンは」
二度とこんな真似ができないように首ごと脳を引きずり出してやります。
「今回はレギィも悪ふざけがすぎますよ。さすがに婚約の中身を入れ替えるなんて真似、バカ王の許可があったとしてもやりすぎです。レギィは貴族ですから王に逆らえないのはわかりますが……」
何のために苦労して役を演じたと思っているんですか。
「違います」
レギィがすっと自分の隣りに移動します。
レギィの見下ろした先には、花壇がありました。
そこには七不思議の一つ、『由来のわからない墓』があり、今も生徒たちを見上げているでしょう。
「私はランスバール王の気持ちもわかる気がします」
「いや、人間としてわかっちゃダメでしょう? 当の本人に隠れて婚約させるようなヤツですよ?」
あれは人類史上、稀に見るバカですよ?
無駄に仕事できるスペックがある分だけに性質は限りなく悪いです。
「私はヨシュアンがどういう人間か知っています。意地悪で頑固で短気。いつだって誰かの傷の肩代わりをして傷ついて、黙り込んで、そっと隠してしまいます。こちらが気を使おうと声をかけたら『え? なんのこと』なんて言い始める次第ですから。気を使ったこちらが馬鹿みたいに思えて仕方ありません」
「ものすごい勢いでダメ出しされてませんか?」
そういう風に見られていたんですか、自分。
というかそんな相手に何故、惚れた。
自分のことでアレですが、自分でもちょっと惚れる要素が見当たりません。
「ランスバール王もベルベールも私も……、きっと貴方の生徒たちも知っていることです」
「周知の事実だったんですね」
人間不信になりそうな客観をありがとうございます。
ここからどうフォローしてくれるか見物ですね。
「でも、貴方が過ごしたリスリア王国での七年間。それを知る者は居ても『貴方が過ごしてきた残りの十九年間』を誰も知らないのです。家族と過ごしてきた日々も、貴方の友人がどんな人なのかも、私は聞いていません……」
「レギィはどこまで聞いています? 自分のことを」
レギィは小さく首を振りました。
「フィヨから知らされたことを信じるなら、貴方は御伽噺の住人になってしまいます」
今度は天上大陸を見やりながら、そう言葉を漏らすレギィに自分はどこか天を仰ぐ気持ちになってしまいました。
情報源がフィヨなら、きっとレギィが知っている自分の素性はほとんど的を射ていないでしょう。ある意味、間違っていないというか。
彼女は自分の『本当の出自』を少し、乙女チックに勘違いしていましたから。
あえて否定もしませんでした。
いえ、否定したら悪化したのでできなかったんですよ。
「ただ、私たちには知りえないような奇妙な知識を持っていることは知っています。まるで――あの【狂える赤鉄】のように」
とりあえずレギィの頬を引っ張りました。
すかさず加重干渉で自分を這い蹲らせるあたり、手馴れてますよね。
レギィの頬は生徒たちに比べると、少しだけ固かったです。
「……さすがにレギィ、今のは非常に不愉快な例えですよ」
狂人に似ていると言われたら、それはもう侮辱としか取れません。
「言いたかったわけではありません。でも、ごめんなさい。言いすぎたかもしれません。それでもヨシュアンが異国人であるのなら、ここに住む誰かが聞くべきことでしょう」
リスリア人からすれば自分の知識を見て、特殊な教育を受けたと思うでしょう。
注射器のように特殊な知識を知り、『三国のどこも義務教育を行っていないにもかかわらず義務教育の経験者』でもある自分。
その部分は裁判の時、教師陣の前で語った嘘でなんとか理由が付けられます。
海向こうの住人だと思えば、全ての謎は解けるはずです。
これは自分だから適応される嘘です。
ですが【狂える赤鉄】は違います。
【狂える赤鉄】の技術力は一体、どこから生まれたのか、です。
人体実験や注射器などの技術は自分のようなケースを除けば、むしろあの女こそ……、いえ。
そこを気にしている場合ではありませんね。
【狂える赤鉄】を取り巻いていた何かにはいつか遭遇して、戦うことになるでしょう。予感があります。
今はレギィの話を聞きましょう。
何故なら、その横顔が何かを諦めて、怖がっているように見えたからです。
「ヨシュアンは何時、帰ってしまうのですか?」
震えるような気温でもないのに、レギィの手は震えていました。
「何時、私たちの前から消えてしまうのですか……?」
「それは、あー……」
「ヨシュアンが王都にいない日。貴方のお店に行ったことがあります。誰も返事をしてくれないことがとても怖かった。二度と会えないのではないかと思うと、とても立ってはいられませんでした。これがヨシュアンが抱いた気持ちと同じなら――」
別に帰りたいわけではありません。
リスリアに居るのは帰り道がわからないというのもあります。いや、こういう言い方をすると自分が迷子みたいですが。
概ね間違いではありません。
では帰る手段があるのなら?
「帰りませんよ。帰る手段も場所もありません」
なんてことはありません。
手段があっても帰るという選択肢はありません。
なら手段なんてなくても同じことです。
人殺しがのうのうと親の元に帰って、一家揃って涙でめでたしめでたし。
そんな陳腐なハッピーエンドで終わるほど世の中、甘くありませんよ。
「考えすぎです。異国人だから何時かは帰らなければならないのだというのなら、移住政策なんて立てられませんよ」
「しかし、ヨシュアンはこうして私に言われるまでその答えを口にしなかったでしょう?」
「別にペラペラと言いふらすようなことでもなかったからです」
「ヨシュアンを縛る鎖はもう何もないのです。リスリア王国もランスバール王もベルベールも。そして私も、貴方がここに居続ける理由になれない」
確かに色々なことに目を瞑れば、リスリアにこだわる必要はありません。
一度はリスリアから出ようと思ったのなら、なおのことでしょう。
「不安になってもおかしくないではありませんか」
「こんな風の強い晴天の日に傘を差す人はいませんよ。何せ、なくて当然のものに困って雨が降らないか心配しているんですから」
「証拠が欲しいと思ってしまうではありませんか」
「だから婚約ですか」
たぶん、レギィが抱く不安は言葉では説得できないものなのでしょう。
それでも、でした。
不安を抱きながらも欄干に手を伸ばし、そっと自分を見つめる様は。
「私はただ、貴方がすがる瀬となりたいのです」
泣く寸前でも微笑もうとする強さが見えました。
そんな今にも折れそうで折れない身体と心で浮かぶには、ちょっと頼りないですよ。
人一人の人生はいつだって重いものですから。
たとえボートが乗る人を求めていても、ボートを使いたくない人もいるのですよ。
そのボートが沈みやすいとなれば、なおのことです。
結局、自分で泳ぎきるしかないのです。
もっとも自分の人生、荒波なのでタフでないとやってられませんが。
「ですが、やっぱりやりすぎですよ。いくらバカ王の悪巧みにしてもレギィまで加担しなくても良かったんですよ。大体、首輪付きの犬に成り下がるつもりもありません」
でもやっぱり、言葉だけではダメなんでしょうね。
行動……、レギィからすれば結婚すれば不安も解決するのでしょう。
しかし、そんなことをしたらバカ王の手のひらで踊らされているのと同じです。
というか義務教育計画中に面倒な刺客を送ってくるんじゃありません。
刺客が望んできた状況でしょうが、そうするように仕向けるくらいベルベールさんなら可能ですしね。
うわぁ、心底、めんどくさくなりました。
「一年間だけですよ、中身のない婚約の中に入っていられるのは」
レギィもまさか自分から譲歩されるとは思わなかったのでしょう。
驚き、すぐに申し訳なさそうな顔をしました。
「婚約を破棄するにしてもバカ王を殴るにしても、リーングラードにいては何もできません。だから一年間だけ甘んじています。ただ結婚する気はありませんよ? 自分は貴族になんかなりたくありませんから」
「わかりました。必ずその期間にヨシュアンの悪癖を治す方法を見つけます」
レギィにまでとうとう悪癖と捉えられてしまいましたね。
一体、どんな目で見られていたのでしょうか自分。
結局、問題を先送りにしただけです。
現状でどうにもできないならこうするしかありません。
最悪、義務教育計画が終わった瞬間に逃げましょう。遥か彼方まで。
さて、どうしたものかこれからのことを考えていると屋上のドアが音を立てて開かれました。
現れたのは肩で息をしたクリスティーナ君でした。
「どうかしたのですか? クリスティーナ君」
自習と言いつけておいたのにこの慌て様。
まさかまた何か起こったのでしょうか?
しかし、クリスティーナ君はツカツカとレギィの方へと足と向け、ビシリと効果音でもつきそうな勢いで指を差しました。
「レギンヒルト・ジークリンデ卿! ハイルハイツ家が娘クリスティーナ・アンデル・ハイルハイツがルーカンの名の下に決闘を挑みますわ!」
「これ以上、話をややこしくするんじゃありません」
びりびりハリセンでクリスティーナ君の後頭部を殴りつけました。
無防備に屋上の床に倒れこむクリスティーナ君を見て、ため息をつきました。
一体、レギィと話しているだけのわずかな時間で何が起きればこんな事態になるのでしょうか。
「レギィ。わかっているとは思いますが……」
「はい。受けてたとうと思います」
だから、君たちはどうして面倒な方へと足を進めたがるのですか!
ワラワラと未熟な気配が屋上の階段を上ってくるのを感じながら、自分は頭を抱えました。




