第93話 洋食屋さん
墓地を出てから車で十分ほど走ったところに、小さな洋食店があった。
大通りから一本入った場所にある店で、昼時を少し過ぎていたこともあり、店内には空席が目立っていた。入口には小さな段差があったものの、店員がすぐに簡易スロープを用意してくれたため、詩織も問題なく中へ入ることができた。
「窓側でいい?」
佳子が尋ねると、詩織は店内を見回してから頷いた。
「うん。そこがいい」
四人は窓際のテーブルへ案内された。
詩織の車椅子を置けるよう椅子を一脚外してもらい、その向かいに蓮、隣に佳子と黒田が座る。
メニューを開いた途端、詩織の表情が真剣になった。
「……迷う」
「墓地出た時からお腹すいたって言ってたじゃん」
「お腹すいてるから迷うんだよ。ハンバーグも食べたいし、オムライスも食べたい」
「好きな方にしたら?」
「それができたら迷ってない」
詩織が当然のように答えると、佳子は呆れたように笑った。
「じゃあ私オムライスにするから、詩織ハンバーグにしたら? 少しあげるよ」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあそうする」
あっさり解決したらしい。
蓮はメニュー越しに二人を見ながら、思わず口元を緩めた。
半年前。
同じ二人が島にいた時には、食事を選ぶ余裕などなかった。
食べられるものがあれば食べる。
水があれば確保する。
物資を見つけても、それが罠ではないかと疑う。
そんな環境にいた自分たちが、今はハンバーグとオムライスのどちらにするかで悩んでいる。
たった半年。
それなのに、まるで遠い昔の出来事のように感じる瞬間があった。
「蓮は?」
詩織に聞かれ、蓮はメニューへ視線を戻す。
「俺?」
「何食べるの?」
「まだ決めてない」
「遅い」
「お前に言われたくないんだけど」
「私はもう決めたから」
「佳子に決めてもらっただけだろ」
「決めたことには変わりないよ」
「そういう問題か?」
二人が言い合っていると、隣から小さな笑い声が聞こえた。
佳子だった。
「なんだよ」
「いや……二人とも病院にいた時と変わったなって」
「そう?」
「変わったよ。あの頃はもっと暗かったもん」
その言葉に、詩織の表情がほんの少しだけ止まる。
けれど、それは一瞬だった。
「そりゃそうでしょ。目が覚めたら足動かなくなってたんだから」
あまりにも普通の口調で言うので、佳子の方が戸惑った。
「……ごめん」
「なんで佳子が謝るの?」
「いや、その……」
「別に言っちゃ駄目なことじゃないよ」
詩織は自分の膝へ視線を落とした。
車椅子に乗るようになってから、もう半年になる。
「最初は、もう全部終わったって思ったけどね」
声は明るかった。
けれど蓮は、詩織がそこまで来るのにどれだけ時間がかかったのかを知っていた。
病室のカーテンを閉めたまま、誰とも話そうとしなかった日。
リハビリを拒んだ日。
蓮が見舞いに行っても、「今日は帰って」と言われた日。
そして、自分の足を何度も見つめながら泣いていた日。
半年ですべてを受け入れられたわけではないだろう。
これから先も、受け入れられない瞬間は何度も来るのかもしれない。
それでも詩織は今、こうして外へ出ている。
「まあ」
詩織が顔を上げた。
「二億あるし」
蓮は思わず吹き出しそうになった。
「そこで金かよ」
「大事でしょ?」
「大事だけど」
「これから色々お金かかるんだから、もらえるものはもらうよ」
「強くなったね、詩織……」
佳子が感心したように言う。
「佳子だって二億あるじゃん」
「あるけど……怖くてほとんど触ってない」
「私も大きい買い物はしてないよ」
「車椅子は?」
「これは必要だから別」
「そういうところはしっかりしてるな」
蓮が言うと、詩織は少し得意そうな顔をした。
「蓮は使った?」
「墓」
その一言で、三人が静かになった。
莉奈の墓。
今日、四人で手を合わせてきた場所。
「それ以外は、ほとんど」
蓮は水の入ったグラスを指先で回しながら続ける。
「未だに自分の金って感じがしないんだよな」
「分かる」
佳子が頷いた。
「通帳見ると怖いもん。数字が多すぎて」
「それ以前に、勝手に口座作られてる方が怖いけどね」
詩織の言葉に、黒田が初めて口を開いた。
「そこは気にしておいた方がいい」
それまで黙ってメニューを見ていた黒田の声に、蓮は視線を向けた。
「やっぱり黒田さんも気になります?」
「当然だ」
黒田はメニューを閉じた。
「本人の知らないところで口座を作り、本人名義で二億を動かせる。普通に考えればできることじゃない」
「銀行の中にも関係者がいるってことですか?」
「分からん」
黒田は断定しなかった。
「だが、少なくとも金だけ持っている連中じゃない。それだけは確かだ」
場の空気が少しだけ変わった。
エクストラバレット。
その名前を口にしなくても、全員が同じものを思い浮かべていた。
「……今日はその話やめない?」
佳子が言った。
黒田を見る目に、僅かな不安が浮かんでいる。
「せっかく四人で来たんだし」
「ああ」
黒田はそれ以上続けなかった。
「すまなかった」
「謝らなくてもいいけど……」
佳子はそう言いながら、テーブルの下へ落ちそうになっていた黒田のメニューを取ると、そのまま彼の前へ戻した。
「黒田さん、まだ決めてないでしょ?」
「俺は何でもいい」
「それ一番困るやつ」
「そうなのか?」
「そうだよ。ほら、これとか?」
佳子がメニューを黒田の方へ寄せる。
自然に二人の肩が近づいた。
黒田は特に気にした様子もなく、佳子が指した料理を見ている。
「……これでいい」
「本当に見た?」
「見た」
「三秒くらいだったけど」
「食べられれば問題ない」
「もう。そういうところだよ」
詩織が無言で二人を見ていた。
それから、蓮を見る。
目だけで何かを訴えてくる。
蓮にも意味は分かった。
――やっぱり近い。
蓮は小さく頷いた。
詩織が満足そうに笑う。
「何だ?」
黒田が気づいた。
「何でもないです」
蓮は答えた。
「怪しいな」
「気にしないでください」
島であれだけ鋭かった黒田が、このことに関してだけは妙に鈍いらしい。
少なくとも蓮にはそう見えた。
やがて料理が運ばれてくると、話題は自然と変わっていった。
退院してから何をしていたか。
最近見た映画。
詩織が車椅子で外出した時に起きた失敗。
佳子が料理を始めたものの、最初に作ったものを盛大に焦がした話。
黒田がそれを食べたという話になったところで、詩織がまた二人を疑い始めた。
「なんで黒田さんが佳子の料理食べてるの?」
「たまたま」
佳子が答える。
「何がどうたまたまなの?」
「近くにいたから」
「なんで近くにいたの?」
「詩織、今日しつこくない?」
「気になるもん」
「何もないって」
佳子は否定する。
その横で黒田は黙々と食事を続けていた。
蓮はそんな三人を眺めながら、不思議な気持ちになっていた。
これが。
生き残った先にあるものなのかもしれない。
あの島で失ったものは戻らない。
詩織の足も。
莉奈も。
死んでいった十人も。
何一つ戻ってこない。
それでも。
生きている人間の時間は進んでいく。
新しい関係が生まれ。
笑えることが増え。
少しずつ。
日常が作り直されていく。
だからこそ。
食事の途中、蓮は何度か黒田を見てしまった。
墓地を出る時に言われた言葉が、ずっと頭から離れなかった。
『エクストラバレットだ』
黒田は何を知っているのか。
なぜ半年経った今になって話そうと思ったのか。
そして。
なぜ自分だけなのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど黒田は、食事が終わるまでその話題に戻ることはなかった。
*
「じゃあ、またね」
店を出る頃には、陽が少し傾き始めていた。
佳子が詩織の車椅子の後ろへ回る。
「私が送っていくよ」
「一人で大丈夫だけど」
「いいから」
「でも佳子、方向逆じゃない?」
「今日はいいの」
二人のやり取りを聞きながら、蓮は黒田を見る。
「黒田さんは?」
「少し神谷を借りる」
佳子の表情が変わった。
「……さっき言ってた話?」
黒田が僅かに目を細める。
「聞こえてたのか」
「なんとなく」
佳子は黒田を見つめた。
「また調べてるの?」
「ああ」
短い答えだった。
その瞬間。
蓮は気づいた。
佳子は何かを知っている。
すべてではないのかもしれない。
それでも、黒田がエクストラバレットについて何かを調べていることは以前から知っていたようだった。
「黒田さん」
佳子の声が少し低くなる。
「無茶しないでよ」
「分かってる」
「前もそう言ってた」
「今回は大丈夫だ」
「その言葉、信用できない」
佳子は真っ直ぐ黒田を見ていた。
黒田も視線を逸らさない。
二人の間に流れる空気は、さっき店の中で詩織にからかわれていた時とは違っていた。
半年の間に。
二人にも、自分の知らない時間があったのだ。
「……帰ったら連絡する」
やがて黒田が言った。
佳子はしばらく黙っていたが、最後には小さく頷いた。
「絶対ね」
「ああ」
「神谷君も」
「俺?」
「黒田さんが変なことしそうになったら止めて」
「おい」
「分かりました」
「神谷まで何を言ってる」
蓮が笑うと、佳子も少しだけ笑った。
「じゃあ詩織、行こ」
「うん」
詩織は車椅子を押してもらいながら少し進んだところで、一度振り返った。
「蓮」
「ん?」
「あとで連絡して」
「ああ」
「絶対だよ」
「分かってる」
それを確認すると、詩織は前を向いた。
佳子に押される車椅子が少しずつ遠ざかっていく。
蓮は二人の背中を見送った。
やがて人混みの向こうへ姿が消える。
その瞬間。
黒田の雰囲気が変わった。
「神谷」
「はい」
「場所を変えるぞ」
黒田は歩き出した。
蓮もその後を追う。
駅前の人通りから離れ、二人はしばらく無言で歩いた。
どこへ向かっているのか、蓮は聞かなかった。
黒田が何かを警戒していることだけは分かった。
何度か後ろを確認し、人通りの少ない道を選んでいる。
半年ぶりだった。
黒田がこんな目をしているのを見るのは。
島にいた時と同じ。
警察官だった男の目。
何かを疑い。
何かを追っている目だった。
「黒田さん」
蓮が呼びかける。
「何だ」
「さっきの話」
「ああ」
「エクストラバレットについて、何か分かったんですか?」
黒田の足が止まった。
少し先には小さな公園があり、その奥には人の少ない遊歩道が続いている。
黒田は周囲を確認してから、蓮へ向き直った。
「分かったこともある」
「……何ですか?」
「その前に」
黒田は蓮の目を見る。
「お前に言っていなかったことがある」
「俺に?」
「ああ」
風が二人の間を通り抜ける。
黒田はしばらく黙っていた。
何から話すべきか考えているようだった。
やがて。
低い声で言った。
「俺がエクストラバレットに参加したのは――」
蓮は息を止める。
「今回が初めてじゃない」
「…………え?」
「二回目だ」
半年間。
黒田が口にしなかった事実。
それは蓮にとって。
第二のエクストラバレットへと繋がる、最初の扉だった。




