第92話 墓参り
あの島から帰還して、半年が過ぎた。
季節は変わり、街を吹き抜ける風にも、あの日病室の窓から入ってきたものとは違う冷たさが混じり始めていた。
神谷蓮は、一つの墓石の前に立っていた。
まだ新しい石には汚れらしい汚れもなく、刻まれた文字もはっきりとしている。
――神崎家之墓。
その文字の下を見つめながら、蓮は手にしていた花を静かに供えた。
線香に火をつけ、煙が風に揺れながら空へ昇っていくのを、しばらく何も言わずに眺める。
「……半年か」
呟いてみても、不思議と実感はなかった。
もう半年なのか。
まだ半年なのか。
自分でも分からない。
病院を退院してから、日常は少しずつ戻ってきた。
朝になれば目を覚まし、腹が減れば飯を食べる。外を歩けば車が走り、人々は仕事や学校へ向かい、夜になれば街に明かりが灯る。
けれど蓮にとって、そのすべてが以前と同じになったわけではなかった。
大きな音に身体が反応することがある。
人混みの中で誰かが急に手を動かせば、無意識にそちらを見てしまう。
夜中に目を覚まし、自分の首に触れてから、ここが島ではないと思い出す日もあった。
そして。
莉奈の夢を見ることもあった。
『ずっと……一緒だよ』
忘れないと約束した。
だから、忘れなかった。
莉奈の遺体が自分たちのもとへ返されることはなかった。
それでも蓮は墓を作った。
そこに莉奈が眠っているわけではない。
けれど、どこにも帰る場所がないままにしておくことだけは、どうしてもできなかった。
「また来たぞ、莉奈」
蓮は墓石へ話しかける。
「……別に返事は期待してないけどな」
「そういう言い方するから、怒られるんじゃない?」
隣から声がした。
蓮が振り向く。
そこには、車椅子に座った七瀬詩織がいた。
病院で目を覚ましたあの日から半年。
詩織の髪は少し伸びていた。
顔色もあの頃とは比べものにならないほど良くなり、首元に残っていた大きな傷も、服を着ていればほとんど目立たない。
けれど。
あの島で負った傷が、すべて治ったわけではなかった。
詩織は、もう自分の脚で歩くことができない。
医師から告げられた現実を受け入れるまでには時間がかかった。
泣いた日もあった。
誰にも会いたくないと言った時期もあった。
蓮が見舞いに行っても、顔を背けられたことさえある。
それでも半年をかけて、詩織は少しずつ新しい生活を始めていた。
「莉奈なら怒るかな」
蓮が聞くと、詩織は墓石を見た。
「どうだろ。私、莉奈のことそんなに分からないし」
「……そうだよな」
「でも」
詩織は少し考えてから、静かに続けた。
「蓮が来なかったら、その方が怒るんじゃない?」
蓮は思わず笑った。
「それはありそうだな」
「でしょ?」
二人の間に、柔らかな沈黙が落ちる。
詩織にとって、莉奈は自分を撃った人間でもある。
あの銃弾によって首に大きな傷を負い、その結果、詩織は二度と自分の脚で歩けない身体になった。
だから蓮は最初、詩織をここへ誘うべきなのか迷っていた。
しかし、墓参りに行くと話した時。
『私も行く』
そう言ったのは詩織の方だった。
蓮は理由を聞かなかった。
詩織も説明しなかった。
半年が経った今でも、莉奈に対して何を思っているのか、蓮には分からない。
許したのか。
許していないのか。
そんな単純な言葉で整理できるものではないのかもしれなかった。
「神谷」
少し離れたところから呼ばれた。
振り向くと、黒田修司がこちらへ歩いてくる。
その隣には夢篠佳子がいた。
「遅い」
詩織が言う。
「すまん」
「黒田さんのせいじゃないよ」
佳子がすぐに口を挟んだ。
「道間違えたの私だから」
「いや、途中で気づかなかった俺にも責任はある」
「だから私が間違えたんだって」
「運転していたのは俺だ」
「でもナビ見てたの私だよ?」
「……なんか距離近くなってない?」
詩織がぽつりと言った。
二人が同時に黙る。
蓮も黒田と佳子を見比べた。
半年の間に何度か会っているので、蓮も以前から気づいてはいた。
島にいた頃とは明らかに違う。
佳子は黒田に遠慮なく物を言うようになっているし、黒田も佳子の前では以前より表情が柔らかい。
「そうか?」
黒田が真顔で答える。
「近いよ」
「気のせいだろ」
「私もそう思うけど」
佳子まで否定する。
詩織は疑うような目を二人へ向けた。
「付き合ってる?」
「違う!」
佳子が即答した。
「……違う」
黒田は一拍遅れた。
「ほら」
「何が、ほらなの?」
「黒田さん、一瞬遅れた」
「七瀬」
「はい?」
「余計なことを考えるな」
詩織は楽しそうに笑った。
蓮もつられて笑う。
こんな会話ができるようになるまで、半年かかった。
島では考えられなかった。
誰かの条件を疑うこともなく、武器の位置を確認する必要もなく、ただくだらないことで笑う。
それだけのことが。
今は、とても大切に思えた。
佳子が墓前に花を供え、黒田も静かに手を合わせる。
最後に詩織が車椅子を少し前へ進めた。
墓石を見上げる。
「…………」
何を言うのだろう。
蓮は少しだけ気になったが、詩織は結局、何も口にしなかった。
ただ目を閉じ、長い時間、静かに手を合わせていた。
その横顔を見て、蓮も視線を墓石へ戻す。
半年。
時間は進んでいる。
生き残った自分たちだけを乗せて。
*
ゲームが終わったあと、不可解な出来事が一つあった。
賞金だった。
エクストラバレットのルールに記載されていた賞金総額は十億円。
五人生存。
一人あたり二億円。
病院を退院してしばらく経ったある朝、蓮が自宅の郵便ポストを確認すると、見覚えのない封筒が入っていた。
差出人は書かれていなかった。
中に入っていたのは、一冊の銀行通帳。
蓮が作った覚えのない口座だった。
名義は――神谷蓮。
そして。
残高。
二〇〇、〇〇〇、〇〇〇円。
最初は何かの冗談だと思った。
だが、違った。
実在する口座だった。
金も本当に入っていた。
自分は何の手続きもしていない。
銀行へ行ってもいない。
口座開設の申請書を書いた覚えもない。
それなのに、自分名義の口座が存在し、そこには二億円が振り込まれていた。
後になって他の四人にも確認した。
全員同じだった。
それぞれの自宅に、いつの間にか通帳が届いていた。
いや。
届いた、という表現さえ正しいのか分からない。
郵送された形跡すらなく、気づけば郵便ポストの中に入っていたのだ。
五人全員へ。
二億円ずつ。
合計十億円。
ルールに書かれていた賞金は、確かに支払われた。
その事実が、かえって蓮には恐ろしかった。
十五人もの人間を島へ運び。
首輪をつけ。
監視し。
ゲームを行い。
終了後には負傷者を病院へ運び。
本人の知らないところで銀行口座まで作る。
エクストラバレットを運営している人間たちは、いったいどれほどの力を持っているのか。
警察に相談するという話も出た。
だが、結局。
誰も動けなかった。
何をどう説明すればいいのかさえ分からなかったからだ。
証拠になるはずの首輪もない。
端末もない。
島がどこにあったのかも分からない。
何より。
自分たちが病院へ運ばれた経緯すら、はっきりしていなかった。
残されたのは。
傷。
記憶。
そして。
あまりにも現実離れした二億円だけだった。
*
墓参りを終えた四人は、そのまま近くの店で食事をすることになった。
「私、お腹すいた」
車椅子を押してもらいながら詩織が言う。
「墓参り来る途中でも言ってなかった?」
佳子が笑う。
「朝あんまり食べてないもん」
「ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」
「佳子、お母さんみたい」
「誰がお母さんよ」
そんな二人の後ろを、蓮と黒田が歩いていた。
しばらくは蓮も二人の会話を聞いていた。
けれど。
「神谷」
不意に黒田が小さな声で呼んだ。
「はい?」
「食事が終わったあと、少し時間あるか」
「ありますけど」
「二人で話したい」
その声に。
蓮は黒田を見る。
さっきまでの柔らかな表情が消えていた。
島で何度も見た。
あの目だった。
「……何の話ですか?」
蓮が尋ねる。
黒田は前を歩く佳子と詩織へ一度だけ目を向けた。
そして。
声を落とす。
「エクストラバレットだ」
蓮の足が止まりかけた。
半年間。
できるだけ口にしないようにしていた名前。
忘れたことなど一日もない。
それでも。
日常の中では、あえて触れないようにしていた。
その名前を。
黒田は今。
自分から口にした。
「……分かりました」
蓮が答える。
黒田はそれ以上、何も言わなかった。
少し先では。
佳子と詩織が、今日どこで食事をするか言い合っている。
平穏な日常。
そのすぐ後ろで。
蓮は感じていた。
半年間、止まっていた何かが。
再び。
動き始めようとしていることを。




