第91話 神谷智和
2章スタートです。
神谷蓮の父親は、どうしようもないほどギャンブルが好きな男だった。
最初から人生を壊すほどのめり込んでいたわけではない。
少なくとも、本人はそう思っていた。
仕事帰りに余った小銭でパチンコを打つ。休日には競馬新聞を片手にテレビの前へ座り、気が向けば競艇場や競輪場まで足を運ぶ。
勝った日は機嫌よく帰ってきて、負けた日は「今日は運が悪かった」と笑った。
次なら取り返せる。
今度こそ当たる。
あと一回だけ。
そんな言葉を何度繰り返したのか、本人でさえ覚えていなかった。
ただ、気づいた時には遊びではなくなっていた。
給料日になると、真っ先に向かう場所は銀行でも家でもない。パチンコ店だった。
競馬の開催日には朝から馬券を買い、負ければ次のレースへ金を入れる。それでも駄目なら競艇、競輪へと手を伸ばし、勝った時にはそこで止めればいいものを、「今日は流れが来ている」とさらに賭けた。
勝っても帰らない。
負けても帰らない。
結局、財布が空になるまで終わらなかった。
そして財布の中身がなくなれば、今度は借りればいいと思うようになった。
最初は数万円だった。
次は十万円。
返済のために借り、借りた金を増やそうとしてまた賭ける。偶然大きく勝つこともあったが、その金を借金の返済に回すことはほとんどなかった。
勝った金は、自分の金。
借りた金は、いつか返せばいい金。
そんな都合のいい理屈が、いつの間にか頭の中で出来上がっていた。
当然、その歪みは家庭にも入り込んでいった。
「……今月のお金、どこにあるの?」
ある夜。
仕事から帰ってきた父親に、妻がそう尋ねた。
食卓には夕食が用意されていたが、すっかり冷めている。
時計の針は、もう日付が変わる少し前を指していた。
「何の金だよ」
「生活費」
「渡しただろ」
「足りないから聞いてるの」
妻の声は怒っていなかった。
むしろ、怒ることに疲れてしまった人間の声だった。
「電気代もある。家賃もある。蓮のものだって買わなきゃいけない。なのに口座のお金、また減ってた」
「……今月ちょっと使っただけだ」
「何に?」
「色々だよ」
「パチンコ?」
父親は答えなかった。
「競馬?」
「…………」
「またなの?」
「うるさいな」
その一言で、妻の顔が僅かに強張った。
父親は上着を脱ぎ、面倒そうに椅子へ腰を下ろす。
「取り返すからいいだろ」
「何を?」
「負けた分だよ」
「いつ?」
「次だよ」
「その次って、いつなの?」
妻の声が震えた。
「ずっと言ってるじゃない。次は勝つ、次で返すって。何回聞いたと思ってるの?」
「だから返すって言ってるだろ!」
思わず声を荒らげた瞬間。
隣の部屋から、小さな物音がした。
二人とも黙った。
襖の隙間から、小さな顔が覗いている。
まだ幼い蓮だった。
「……父ちゃん?」
父親は一瞬だけ言葉を失った。
妻がすぐに表情を変え、蓮のところへ向かう。
「ごめんね。起こしちゃった?」
「……喧嘩してるの?」
「してないよ」
そう言いながら、妻は蓮の頭を撫でた。
父親はその光景を黙って見ていた。
胸のどこかが痛んだ。
こんなことを続けてはいけない。
その程度のことは、父親にも分かっていた。
明日からやめよう。
少なくとも家の金には手をつけない。
借金も少しずつ返していけばいい。
そう思った。
その夜は。
けれど数日後。
父親はまたパチンコ店にいた。
負けた。
競馬に賭けた。
負けた。
競艇へ行った。
また負けた。
今度こそ取り返そうと借りた金まで失い、返済日が来れば別のところから金を借りた。
家に帰る時間も、少しずつ遅くなっていった。
妻と顔を合わせれば金の話になる。
金の話になれば喧嘩になる。
喧嘩になるのが嫌だから帰らない。
帰らなければ、さらに家庭から離れていく。
その繰り返しだった。
それでも父親は、自分の家庭が本当に壊れるとは思っていなかった。
妻は怒っているだけだ。
そのうち機嫌も直る。
一度大きく勝って金を持って帰れば、全部元に戻る。
どこかで本気でそう思っていた。
だから。
ある日の夕方。
珍しく早く帰宅して、玄関に見慣れない空白ができていることに気づいた時も、最初は意味が分からなかった。
「……ん?」
妻の靴がない。
部屋へ入る。
妙に静かだった。
「おい?」
返事がない。
居間にもいない。
寝室を開けると、妻が普段使っていた鞄がなくなっていた。
いくつかの服も消えている。
化粧品も。
日用品も。
父親はようやく異変を理解し始めた。
「……おい」
家の中を探す。
台所。
風呂場。
トイレ。
どこにもいない。
代わりに、食卓の上に一枚の紙が置かれていた。
父親はそれを手に取る。
短い文章だった。
もう無理です。
これ以上、一緒にはいられません。
その下にも何か書かれていたが、父親はすぐには読み進められなかった。
「……は?」
頭が理解を拒んでいた。
「何だよ……これ」
その時。
「父ちゃん?」
背後から声がした。
振り返る。
幼い蓮が、部屋の入口に立っていた。
「母ちゃん、どこ?」
「…………」
父親は答えられなかった。
蓮は何も知らない顔でこちらを見ている。
「買い物?」
「……ああ」
咄嗟に。
嘘をついた。
「ちょっと出てるだけだ」
「いつ帰ってくる?」
「…………」
「父ちゃん?」
「そのうち帰ってくる」
そう答えながら、父親は手の中の紙を強く握った。
だが。
妻がその家へ戻ってくることはなかった。
幼い蓮を残して、妻は一人で出ていった。
それが身勝手な行動だったのか。
それとも、そこまで追い詰めた父親の方が身勝手だったのか。
当時の父親は、そんなことを考えようともしなかった。
ただ妻に腹を立てた。
勝手に出ていきやがった。
自分だけ逃げやがった。
そうやって相手を責めることで、自分が家庭を壊したという事実から目を逸らした。
それからは、父親と蓮の二人だけの生活になった。
しかし。
父親が心を入れ替えることはなかった。
一時はギャンブルをやめようとした。
幼い息子の寝顔を見ながら、本気でそう考えた夜もあった。
それでも数日が経てば、財布の中にある金が気になった。
これを増やせば、生活が楽になる。
一度勝てば借金を返せる。
借金さえなくなれば、全部やり直せる。
そして。
また賭けた。
負けた。
また借りた。
その頃には、表の賭け事だけでは足りなくなっていた。
もっと大きく賭けたい。
一晩で借金を全部返せるほど勝ちたい。
妻が出ていったことも。
幼い蓮と二人きりになったことも。
父親にとっては、ギャンブルをやめる理由ではなく――いつの間にか「大金を手に入れなければならない理由」にすり替わっていた。
そんな父親が辿り着いたのが、繁華街のさらに奥、表通りから外れた雑居ビルの一室だった。
看板はない。
初めて来た人間なら、そこに何があるのかさえ分からない。
紹介がなければ入れない、非合法の賭場。
いわゆる裏カジノだった。
薄暗い室内には煙草と酒の匂いが染みつき、テーブルの上では、普通の生活をしていれば一度に目にすることもないような金が動いていた。
父親は、そこが気に入った。
パチンコとも競馬とも違う。
目の前で金が増え、目の前で消える。
負ければ、取り返したくなる。
勝てば、もっと欲しくなる。
何より、金を賭けた瞬間だけは、自分が生きているという実感があった。
「もう一回」
テーブルの向こうにいる男へ告げる。
「まだやるのか?」
「当たり前だろ」
「今日はやめといた方がいいんじゃねえか」
「次で戻す」
何度口にしたか分からない言葉だった。
男が呆れたように笑う。
「お前、毎回それ言ってんな」
「次は違う」
「その台詞も毎回聞いてる」
周囲から笑い声が上がった。
父親も笑った。
笑うしかなかった。
その時点で、財布にはほとんど金が残っていなかった。
口座にもない。
それどころか、複数の場所から借りた金の返済日が迫っていた。
それでも父親は席を立たなかった。
立てなかった。
ここで帰れば、ただ負けただけになる。
次で勝てばいい。
次で全部戻せば、それまでの負けは負けではなくなる。
そんな理屈に縋りつきながら、また金を置いた。
そして。
負けた。
「…………」
テーブルの上から金が消えていく。
父親はしばらく、それを黙って見つめていた。
「終わりだな」
店の男が言う。
「……貸してくれ」
「は?」
「少しでいい」
「馬鹿言え。こっちは金融屋じゃねえぞ」
「次で返す」
「だから、その次に賭ける金がねえだろ」
笑いが起きる。
今度は父親だけが笑わなかった。
ポケットを探っても、出てくるのは小銭と煙草くらいだった。
何もない。
本当に、何も。
「……くそ」
小さく吐き捨て、椅子の背にもたれかかった。
明日になれば返済が待っている。
仕事をして返せる額なら、とっくにそうしている。
だが、働いて稼いだ金を、また賭けた。
借りた。
負けた。
また借りた。
もう、普通に働いて返せる範囲を超え始めていた。
「人生終わったな、お前」
誰かが笑いながら言った。
「うるせえよ」
「いくらあるんだ? 借金」
「知らねえ」
「知らねえってことは、相当だな」
「数えてねえだけだ」
「それを相当って言うんだよ」
また笑い声が起きる。
父親は煙草を一本取り出し、火をつけた。
深く吸い込み、ゆっくり煙を吐き出す。
「……一発で返せる賭けでもあればな」
独り言のつもりだった。
けれど。
その言葉を聞いていた男がいた。
少し離れた席に座っていた、見覚えのない男だった。
「あるぞ」
父親は顔を向ける。
「何が?」
「一発で返せる賭け」
「……競馬か?」
「そんな可愛いもんじゃない」
男はグラスを傾けながら笑った。
「勝てば人生が変わる」
「負けたら?」
「人生が終わる」
父親は鼻で笑った。
「なんだそれ」
「知らないのか?」
男が少し声を落とした。
「エクストラバレット」
その名前を聞いた瞬間、近くにいた何人かが僅かに男へ視線を向けた。
父親は気づかなかった。
「……何だ、それ」
「都市伝説だよ」
「都市伝説?」
「ああ。金に困った奴、刺激を求める奴、人生をひっくり返したい奴……そういう連中の間でたまに話題になる」
男はグラスの中の氷を揺らした。
乾いた音が鳴る。
「選ばれた人間だけが参加できる、特別なゲーム」
「ゲームって?」
「そこまでは知らねえ」
「知らねえのかよ」
「知ってる奴がいたら、都市伝説になってねえだろ」
男は笑った。
「ただ、賞金がとんでもないって話だ」
「いくら?」
父親の反応は早かった。
男が眉を上げる。
「食いつくところ、そこかよ」
「当たり前だろ。金にならねえなら興味ねえ」
「……十億」
煙草を持っていた父親の手が止まった。
「何?」
「総額十億円」
「十億……?」
「本当かどうかは知らん。俺だって噂で聞いただけだ」
「……参加した奴は?」
「さあな」
「勝った奴は?」
「知らねえ」
「どうやったら参加できる?」
今度は男が黙った。
数秒、父親の顔をじっと見たあと、呆れたように笑う。
「お前さ。今の話聞いて怖くならねえの?」
「何が」
「勝てば人生が変わる。負ければ人生が終わるって言っただろ」
「もう終わりかけてんだよ、こっちは」
父親は灰皿へ煙草を押しつけた。
「十億あれば全部返せる」
「総額だぞ」
「それでも十分だ」
「都市伝説かもしれねえ」
「本当にあるなら?」
「…………」
「あるなら、どうやって参加する?」
男は答えなかった。
父親は身体を乗り出す。
「知ってんだろ?」
「噂だけだ」
「それでいい」
「やめとけ」
「いいから教えろよ」
男はしばらく迷っていた。
やがて周囲を一度確認すると、声をさらに小さくした。
「……エントリー方法があるって話は聞いたことがある」
父親の目つきが変わった。
「エントリー?」
「ああ」
「どこで?」
「俺も詳しくは知らん。ただ――」
男はそこで言葉を切った。
「本当に申し込んだら、後戻りできないらしい」
「だから?」
「死ぬかもしれないんだぞ」
父親は少しも迷わなかった。
「十億なんだろ?」
「…………」
「だったら賭ける価値はある」
その顔を見た男は、それ以上止めようとはしなかった。
ただ、小さく首を振った。
「……ギャンブル狂いってのは、本当に救えねえな」
「今さらだろ」
父親は笑った。
借金。
妻。
家に残してきた幼い息子。
自分がこれまで何を失ってきたのか。
その時の父親は、何一つまともに見ていなかった。
見えていたのは、十億円という数字だけだった。
人生をひっくり返せるかもしれないという可能性。
これまでの負けも、借金も、壊れた家庭さえも。
一度大きく勝てば、すべて取り戻せる。
そんな都合のいい幻想だけだった。
この時の父親は、まだ知らなかった。
エクストラバレットが、金を賭けて楽しむようなゲームではないことを。
そして。
妻が去ったあの家に残された幼い息子――神谷蓮までが。
いつか同じゲームへ引きずり込まれることになるとは。




