第90話 後遺症
「先生を呼んできます!」
看護師がそう言い残して病室を飛び出していくと、慌ただしい足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。
蓮はその音を追うこともなく、ただベッドに横たわる詩織だけを見つめていた。
さっきまで眠ったまま動かなかった指が、確かに動いた。
閉じられた瞼も、微かに震えている。
「詩織……聞こえるか?」
車椅子から身を乗り出し、できるだけ近くから呼びかける。返事はないものの、詩織の眉間にほんの僅かな皺が寄った。
何かを探しているように、右手の指先がシーツを擦る。
「大丈夫だ。ここは島じゃない」
自分自身にも言い聞かせるように、蓮は続けた。
「もう終わった。ゲームは終わったんだ」
その声が届いたのかは分からない。
それでも、詩織の瞼は何度か震えたあと、ゆっくりと持ち上がっていった。
「…………」
僅かに開いた瞳には、まだ焦点が合っていなかった。
眩しそうに細められた目が白い天井を映し、次に窓辺のカーテンへ動く。そこがどこなのか理解できていないのだろう。詩織は何かを言おうとして唇を動かしたが、掠れた息しか出なかった。
「無理に喋らなくていい」
蓮がそう言った瞬間。
詩織の目が動いた。
ゆっくりと声のした方へ向けられ、車椅子に座る蓮を捉える。
「…………れん……?」
あまりにも弱い声だった。
それでも。
蓮には、はっきり聞こえた。
「ああ」
すぐに返事をする。
「いるよ」
詩織はしばらく蓮の顔を見つめていた。
夢を見ているのではないかと確かめるような目だった。
「……生きてる……?」
「生きてる」
「蓮……生きてる……?」
「ああ。ちゃんと生きてる」
それを聞いた詩織の目から、ゆっくりと力が抜けていった。
安心したように瞼を閉じかけたため、蓮は思わず焦る。
「おい、詩織?」
「……大丈夫」
今度は小さいながらも返事があった。
「ちょっと……疲れただけ……」
「だったら無理して喋るな」
「……蓮が……言ったんじゃん」
「何を?」
「起きたら……話そうって……」
蓮は目を見開いた。
「……聞こえてたのか?」
詩織の口元が、本当に僅かに緩んだ。
「途中から……なんとなく……」
「だったら返事くらいしろよ」
「無茶……言わないで……」
「……そうだな」
蓮も小さく笑った。
その笑みはすぐに崩れそうになった。
詩織が喋っている。
目を開けている。
自分を見ている。
島では、それが当たり前ではなかった。
ついさっきまで、本当にもう一度声を聞けるのかさえ分からなかったのだ。
「……帰ってきたぞ」
蓮が言うと、詩織はぼんやりと天井を見上げた。
「帰って……?」
「ああ」
「ここ……どこ?」
「病院みたいだ。俺もさっき起きたばっかりだから、詳しくは分からないけど」
詩織の視線が、自分の首元へ向かおうとする。
それに気づいた蓮は、すぐに続けた。
「首輪はない」
「…………」
「俺もない。佳子も外せた。葵も黒田さんも無事だ」
詩織の目が少しだけ大きくなる。
「……みんな?」
「ああ。五人ともいる」
「佳子も……?」
「いるよ」
「葵さんも……黒田さんも?」
「全員いる」
それを聞いた詩織は、長く息を吐いた。
「……そっか」
その一言に、いくつもの感情が混じっているように聞こえた。
嬉しいのか。
安心したのか。
それとも、五人しかいないことを理解したのか。
蓮には分からなかった。
ただ、詩織はそれ以上、他の参加者の名前を口にしなかった。
間もなく廊下から複数の足音が近づき、医師と看護師が病室へ入ってきた。
「七瀬さん、分かりますか?」
医師がベッドのそばへ立つ。
詩織はゆっくりと目を向けた。
「……はい」
「ここがどこか分かりますか?」
「病院……?」
「そうです。気分はどうです?」
「身体が……重いです」
「分かりました。今から少し状態を確認しますね」
医師が診察を始める間、蓮は看護師に促されて少し離れた。
意識。
呼吸。
目の反応。
手を握れるかと聞かれ、詩織はゆっくり指を動かす。
何度か質問が続き、そのたびに詩織は短く答えた。
やがて医師が看護師へ何かを伝えたところで、病室の外が急に騒がしくなった。
「詩織が起きたって本当ですか?」
佳子の声だった。
「夢篠さん、待ってください!」
「顔見るだけです!」
看護師の制止も間に合わず、佳子が扉から顔を覗かせる。その後ろには葵と黒田までいた。
「佳子……」
詩織が名前を呼ぶと、佳子の顔がくしゃりと歪んだ。
「詩織……!」
両手が包帯で覆われているため抱きつくこともできず、佳子はベッドのそばまで来ると、泣きながら笑うしかなかった。
「よかった……ほんとによかった……!」
「佳子……手……」
「こんなの大丈夫」
「両方……包帯なのに……?」
「大丈夫ったら大丈夫なの」
どう見ても大丈夫ではない。
けれど詩織もそれ以上は言わず、弱々しく笑った。
葵もベッドの近くまで来る。
「おかえり、七瀬さん」
その言葉に詩織は少し驚いたあと、ゆっくり頷いた。
「……ただいま」
黒田は少し離れたところに立っていたが、詩織と目が合うと静かに頷いた。
「よく戻ったな」
「黒田さんも……」
「ああ」
それだけだった。
けれど、十分だった。
蓮は四人の姿を見渡した。
佳子。
葵。
黒田。
詩織。
そして自分。
五人。
島で最後まで生き残った五人が、ようやく全員、意識のある状態で同じ場所に揃った。
誰の首にも首輪はない。
誰も武器を持っていない。
もう端末に表示される条件を気にする必要もない。
初めてだった。
何の条件もなく。
ただ仲間として。
五人で同じ場所にいるのは。
「……本当に終わったんだね」
佳子がぽつりと言った。
誰もすぐには答えなかった。
やがて詩織が窓の外へ視線を向ける。
白いカーテンの向こうには、穏やかな青空が広がっていた。
「……変なの」
「何が?」
佳子が尋ねる。
「外……普通だから」
その言葉に、蓮は少し驚いた。
自分も先ほど、まったく同じことを思ったからだ。
「私たちが……あんなことしてたのに……」
詩織は途切れ途切れに続ける。
「外は……何も変わってない」
「……そうだな」
蓮は窓を見る。
世界は続いている。
自分たちが知らない間も。
自分たちが死にかけている間も。
何もなかったように。
「でも」
佳子が小さく言った。
「帰ってきたよ」
詩織が佳子を見る。
「私たち……ちゃんと帰ってきた」
佳子の目から、また涙が零れた。
詩織はそれを見つめながら、ゆっくり頷いた。
「……うん」
穏やかな時間だった。
けれど。
それは長く続かなかった。
詩織の表情が、ふと変わった。
「……あれ?」
蓮が気づく。
「どうした?」
詩織は答えなかった。
視線を、自分の身体へ向けている。
「詩織?」
「……なんか……変」
医師がすぐそばへ寄った。
「どうしました?」
「身体……まだ、薬とか効いてますか?」
「どうしてそう思います?」
「だって……」
詩織の声に。
少しずつ不安が混じっていく。
「足が……変なんです」
病室の空気が変わった。
蓮の胸に、先ほど医師から聞いた言葉が蘇る。
――首に受けた損傷が大きい。
詩織はまだ何も知らない。
布団の下にある自分の脚へ視線を向ける。
「先生……」
「七瀬さん。焦らなくて大丈夫です」
「足……動かしていいですか?」
医師は一瞬だけ黙った。
「ゆっくりで構いません」
詩織は自分の脚を見つめた。
動かそうとしているのだろう。
けれど。
布団は動かない。
「…………」
詩織の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
もう一度。
今度は先ほどより強く動かそうとしているのが表情だけで分かった。
それでも。
何も起きない。
「……え?」
掠れた声が漏れた。
「詩織」
蓮が呼ぶ。
しかし詩織には聞こえていないようだった。
「待って……」
呼吸が少し速くなる。
「待ってください……」
「七瀬さん、落ち着いて」
「なんで……?」
詩織は医師を見る。
その瞳に。
はっきりと恐怖が浮かんでいた。
「なんで……動かないんですか?」
佳子は何も言えなかった。
葵も。
黒田も。
そして蓮も。
誰一人、答えることができない。
「先生……」
詩織の声が震える。
「私の足……」
医師は詩織のそばへ椅子を寄せた。
「七瀬さん」
穏やかではあるが、先ほどまでとは違う声音だった。
「これから、あなたが負った怪我について説明します」
詩織は医師を見つめる。
蓮は無意識に拳を握った。
ゲームは終わった。
首輪も外れた。
五人とも生きて帰ってきた。
けれど。
あの島で受けた傷まで。
なかったことになるわけではない。
窓から吹き込んだ涼しい風が、白いカーテンを静かに揺らしていた。
その向こうには。
何も知らない日常が、どこまでも続いていた。
1章はこれで終了ですが、書きだめを一気に出したので改めて読み返して修正していきます。
引き続き、2章もよろしくお願いいたします。




