第89話 詩織
看護師が戻ってきたのは、それから十分ほど経った頃だった。
医師から許可が出たと聞いた瞬間、蓮は反射的にベッドから身体を起こそうとしたものの、先ほどと同じように全身へ鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「だから、一人で立たないでくださいって言ったでしょう」
看護師は呆れたように言いながらも、その声には責めるような響きはなかった。ベッドの横まで車椅子を運んでくると、蓮が無理に立ち上がらないよう身体を支える。
「歩いていけます」
「さっき立つこともできなかった人の言葉は信用できません」
「……見てたんですか」
「見てました」
きっぱりと言われ、蓮は何も言い返せなくなった。
黒田が小さく息を漏らす。笑ったのかと思って蓮がそちらを見ると、すぐに何事もなかったような顔をされた。
「黒田さん、今笑いました?」
「いや」
「笑いましたよね?」
「気のせいだ」
島にいた頃なら、こんな会話をする余裕などなかった。
誰かと話している最中でさえ、耳は周囲の物音を拾い、目は相手の手元や森の奥を警戒していた。ほんの少し気を抜いただけで死ぬかもしれない。そんな場所で三日間を過ごしたあとでは、黒田の何でもない返事すら妙に現実離れして聞こえる。
蓮は看護師に支えられて車椅子へ移ると、改めて病室を見回した。
白い壁。清潔な床。窓から差し込む柔らかな光。
ここには血の跡も、弾痕もない。
当たり前のことなのに、その当たり前が今はひどく不思議だった。
「行きましょうか」
看護師に促され、車椅子がゆっくりと動き始める。
佳子と葵も一緒に行こうとしたが、佳子は両手を負傷しているうえ、葵も右脚に傷を負っている。結局、別の看護師が二人の様子を見ながら付き添い、黒田はその少し後ろを歩くことになった。
病室を出た瞬間、蓮は思わず目を細めた。
長い廊下の先まで窓から陽が差し込み、磨かれた床に淡い光を落としている。看護師が行き交い、遠くでは誰かが小さな声で話していた。配膳用のワゴンを押す音が聞こえ、別の病室からはテレビの音まで漏れてくる。
何もかもが普通だった。
あの島では、朝が来ても安心などできなかった。
目を覚ました瞬間から、自分がまだ生きていることを確認しなければならなかった。誰が近くにいるのか。端末はあるか。武器はあるか。禁止区域はどこか。自分の首輪はまだついているのか。
けれど、ここを歩く人々は誰も自分の首に触れていない。
看護師は仕事の話をしながら廊下を歩き、窓の外では車が信号に従って止まっている。
世界は何も変わっていなかった。
自分たちが島で命を奪い合っていた間も、きっとこうして朝が来て、誰かが学校へ行き、誰かが仕事をし、夜になれば家へ帰っていたのだろう。
そのことが、蓮には少しだけ怖かった。
「蓮?」
隣から佳子の声がして、蓮は我に返った。
「どうしたの?」
「……いや」
少し迷ってから、蓮は窓の外へ目を向ける。
「本当に戻ってきたんだなって思って」
佳子は何も言わなかった。
けれど、その表情を見るだけで、同じようなことを感じているのだと分かった。
やがて一行は、廊下の奥にある個室の前で足を止めた。
蓮の病室とは少し離れている。
扉の横には、小さな名札があった。
――七瀬詩織。
その名前を見ただけで、蓮の胸が強く鳴った。
「ここです」
看護師が静かに告げる。
蓮は返事をせず、扉を見つめていた。
ほんの一枚の扉。
開ければ詩織がいる。
生きていると聞いている。それなのに、実際にこの目で見るまでは、どうしても不安を消すことができなかった。
看護師が扉を開けた。
病室の中にも、穏やかな午後の光が差し込んでいた。
そして。
窓際に置かれたベッドに、詩織はいた。
「……詩織」
蓮の口から、自然に名前が零れた。
目を閉じたまま、白い枕へ頭を預けている。
島にいた時の泥や血に汚れた服ではなく、清潔な病衣に着替えさせられていた。首元には治療のための処置が施され、右脚や身体にも傷を負った痕跡が残っている。
けれど。
胸が動いている。
ゆっくりと。
確かに呼吸をしている。
それを見た瞬間、蓮はようやく胸の奥に詰まっていた息を吐き出した。
「……本当に、生きてる」
誰に聞かせるためでもない言葉だった。
佳子が蓮の後ろで小さく頷く。
「うん」
黒田も、葵も何も言わなかった。
ただ、それぞれが眠っている詩織を見つめていた。
島で最後まで残った五人。
ようやく同じ場所に揃った。
けれど、まだ一人だけが眠ったままだった。
蓮の車椅子が、ベッドのそばまで運ばれる。
近くで見ると、詩織の顔にはまだ傷や疲労の痕が残っていた。それでも、あの島で見た最後の姿とはまるで違う。血に濡れた首元はきちんと処置され、呼吸も落ち着いている。
蓮はそっと声をかけた。
「詩織」
返事はない。
「……帰ってきたぞ」
やはり、反応はなかった。
それでも蓮は続けた。
「俺も、佳子も、葵も、黒田さんもいる。佳子もちゃんと首輪を外せた」
「……蓮」
佳子が少しだけ困ったように笑う。
「寝てるんだから、聞こえてないんじゃない?」
「聞こえてるかもしれないだろ」
「そうだけど……」
「だったら話しておいた方がいい」
蓮が真顔で答えると、佳子は一瞬黙ったあと、ふっと表情を緩めた。
「……そうだね」
佳子もベッドへ近づき、包帯に覆われた両手を身体の前で大切そうに抱えたまま、眠る詩織へ声をかける。
「詩織。私もちゃんと帰ってきたよ」
葵もその横へ立った。
「七瀬さん。もう終わったからね」
最後に黒田が、眠っている詩織を見下ろす。
しばらく何も言わなかったが、やがて低い声で一言だけ告げた。
「……よく生き残った」
その言葉に、蓮は目を伏せた。
本当に。
よく生き残ったと思う。
誰が死んでもおかしくなかった。
ほんの一秒。
ほんの一発。
ほんの一つ選択が違っていれば、ここにいる五人のうち誰かが欠けていたかもしれない。
いや。
実際に、多くの人間が欠けた。
莉奈も。
聡子も。
相馬も。
そして、それ以前に死んでいった者たちも。
十五人で始まったゲームから帰ってきたのは、五人だけだった。
「神谷さん」
背後から声をかけられ、蓮は振り返った。
いつの間にか、病室の入口に白衣を着た医師が立っていた。
年齢は五十代ほどだろうか。落ち着いた表情をしているが、その目は蓮たちの身体の状態を確認するように一人ずつ見ていた。
「目を覚ましたばかりだと聞きました。あまり無理をしてはいけませんよ」
「すみません」
「七瀬さんが心配だったんでしょう」
医師はそれ以上責めることなく、詩織のベッドのそばへ歩いてきた。
蓮は少し迷ったあと、尋ねた。
「先生」
「はい」
「詩織は……大丈夫なんですか?」
医師はすぐには答えなかった。
眠っている詩織へ視線を向け、それから蓮を見る。
「命について言えば、今のところ危険な状態は脱しています」
その言葉に、佳子が小さく息を吐いた。
しかし。
医師の表情は晴れなかった。
「ただ、首に受けた損傷が大きい」
蓮の胸がざわつく。
「首……」
「詳しいことについては、七瀬さん本人が目を覚まし、状態を確認してからお話しします。今の段階で不用意なことを申し上げるべきではありません」
「でも……」
「神谷さん」
医師の声は穏やかだった。
「まず覚えておいてください。七瀬さんは生きています」
蓮は口を閉じた。
「今は、それが一番大切なことです」
「…………はい」
納得できたわけではない。
けれど、これ以上聞いても今は答えてもらえないのだろう。
蓮は再び詩織へ顔を向けた。
生きている。
今はそれでいい。
そう思おうとした。
けれど、医師が言った「首に受けた損傷が大きい」という言葉だけが、胸の奥に残り続けた。
しばらくして、医師と看護師は病室を出ていった。
長時間の面会は避けるよう言われ、黒田たちもそれぞれ自分の病室へ戻ることになった。
「蓮も休んだ方がいいよ」
佳子が心配そうに言う。
「ああ。分かってる」
「絶対分かってない顔してる」
「分かってるって」
そんな二人のやり取りを聞いて、葵が少し笑った。
「夢篠さんの言うことを聞いた方がいいと思う」
「葵まで……」
「今の神谷君、立つこともできないんでしょ?」
「……看護師さんから聞いた?」
「さっき聞いた」
蓮は何とも言えない顔になった。
黒田が扉のところで振り返る。
「無茶をするのは島だけにしろ」
「黒田さんまで言うんですか」
「当然だ」
そう言い残し、黒田は病室を出ていった。
佳子と葵もそれに続く。
蓮も戻るよう看護師に言われていた。
それでも。
「……あと少しだけ、いいですか」
付き添っていた看護師に頼むと、彼女は少し迷った末に頷いた。
「五分だけですよ」
「ありがとうございます」
扉が静かに閉じる。
病室には蓮と詩織だけが残された。
窓から入ってきた風が、カーテンを揺らす。
蓮はベッドの横で、眠る詩織を見つめていた。
「……みんな帰ってきたよ」
さっきも言った言葉を、もう一度口にする。
「五人とも」
返事はない。
「だから……お前も早く起きろよ」
声にすると、自分が思っていた以上に弱い響きになった。
「ゲーム、終わったんだぞ」
蓮は小さく笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「もう逃げなくていいし、誰かの条件を気にする必要もない。端末だってない。首輪も……」
そこまで言って、言葉が止まる。
詩織の首元へ視線が向いた。
莉奈の放った銃弾。
砕けて落ちた首輪。
あの一発がなければ、詩織はどうなっていたのだろう。
そんなことを考えてしまう。
そして。
莉奈の顔が浮かんだ。
「…………」
蓮は目を伏せた。
自分の首輪を外してくれたのも莉奈だった。
詩織を傷つけたのも莉奈。
詩織の首輪を外したのも、結果として莉奈だった。
何をどう考えればいいのか、まだ分からない。
莉奈を恨むこともできない。
だからといって、詩織が負った傷を軽く考えることもできない。
生き残ったから。
それで全部終わり。
そんな簡単な話ではなかった。
「俺たち……帰ってきたんだよな」
蓮は窓の外を見た。
青い空が見える。
何も知らない世界が、そこに広がっていた。
「なのに、全然終わった気がしない」
父の顔が頭をよぎった。
『ゲームに関わるな』
あの言葉。
あの時は意味が分からなかった。
今なら少しだけ分かる。
けれど。
どうして父はエクストラバレットを知っていたのか。
誰がこのゲームを運営しているのか。
なぜ自分が選ばれたのか。
莉奈はなぜゲームマスターとして島にいたのか。
何も分からないままだ。
ただ生き残っただけで。
答えは何一つ手に入っていない。
「……詩織」
蓮はもう一度呼んだ。
「起きたら……話そう」
島では。
ゆっくり話す時間などなかった。
次に何が起こるか分からず、生き延びることだけで精一杯だった。
「いっぱいあるんだよ。話したいこと」
その言葉を最後に、蓮はしばらく黙った。
返事はない。
やはり。
詩織は眠ったままだ。
「……また来る」
車椅子の車輪へ手を伸ばそうとした。
その時だった。
「…………」
蓮の手が止まる。
何か。
動いたような気がした。
詩織を見る。
「……詩織?」
変わらない。
目は閉じられたまま。
呼吸も穏やかだ。
気のせいか。
そう思った時。
白いシーツの上に置かれていた詩織の右手。
その人差し指が。
ほんの僅かに。
動いた。
「……!」
蓮は車椅子から身を乗り出した。
「詩織?」
返事はない。
けれど。
今度は見間違いではなかった。
詩織の眉が微かに動く。
閉じられていた瞼が、小さく震えた。
「詩織……!」
蓮の声が病室に響く。
廊下にいた看護師が、その声に気づいて扉を開けた。
「どうしました!?」
「今……動いたんです」
「え?」
「詩織の手が……!」
看護師がすぐにベッドへ駆け寄る。
蓮は息をすることさえ忘れたように、詩織を見つめていた。
長い眠りの底から。
ゆっくりと。
戻ってくるように。
詩織の瞼が。
もう一度。
微かに震えた。




