第88話 1つのエピローグ 病院のベッド
清潔な空気が、静かな病室を満たしていた。
わずかに開けられた窓から涼しい風が入り込み、真っ白なカーテンをゆっくりと膨らませている。柔らかく持ち上がった布地は、風が弱まると力を失ったように窓辺へ戻り、しばらくするとまた次の風を受けて揺れた。
窓の向こうから聞こえてくるのは、遠くを走る車の音と、どこかで鳴いている鳥の声だけだった。
銃声はない。誰かの叫び声も、森の奥から響いてくる足音もない。爆発音もなければ、残り時間を告げる端末の無機質な電子音も聞こえない。
あまりにも穏やかで、静かだった。
その部屋の中央に置かれたベッドで、神谷蓮は眠っていた。
閉じられていた瞼が微かに震え、やがてゆっくりと開いていく。最初に視界へ入ってきたのは、見覚えのない白い天井だった。
「…………」
何度か瞬きをしたものの、頭がうまく働かない。
長い夢から突然引き戻されたような感覚だけがあり、自分がどこにいるのか、どうしてここで寝ているのかさえ思い出せなかった。
身体を動かそうとした瞬間、全身の奥から鈍い痛みが湧き上がった。
「……っ」
思わず顔をしかめる。
腕も、背中も、脇腹も痛む。身体そのものが鉛にでも変わってしまったかのように重く、指先を動かすだけでも普段とは違う感覚があった。
けれど、その痛みが少しずつ蓮の意識を現実へと引き戻していった。
視線だけを動かして周囲を確認する。
白い壁に、窓辺で揺れるカーテン。ベッドの脇には小さな棚が置かれ、自分の腕には点滴の管が繋がっている。近くに設置された機器から規則正しい電子音が聞こえていることにも、そこでようやく気づいた。
「……ここ……病院……?」
掠れた声が喉から漏れた。
その時、窓の外から突然、乾いた音が聞こえた。
「っ……!」
蓮の身体が反射的に強張る。
考えるよりも早く上半身を起こしかけ、全身を走った痛みに息を詰まらせながら、それでも鋭く窓の方を見た。
誰もいない。
風に揺れている白いカーテンの向こうを、車が一台走り去っていっただけだった。
「…………」
胸の鼓動が速い。
ただの車の音だった。それなのに、一瞬だけ銃声だと思った。
次の風が部屋へ入り込み、カーテンが大きく膨らんだ時にも、蓮の肩は僅かに跳ねた。視界の端で白いものが動いただけなのに、誰かがそこにいるような錯覚を覚えてしまう。
木々の隙間から突然現れる人影。
いつ飛んでくるか分からない銃弾。
どこにいても気を抜けず、ほんの小さな物音にさえ神経を尖らせていた時間が、身体の奥深くに染みついている。
「……違う」
蓮は荒くなった呼吸を抑えながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「ここは……島じゃない」
その言葉を口にした途端、頭の中にかかっていた靄が一気に晴れた。
忘れていたのではない。ただ、意識が追いついていなかっただけだった。
首に取りつけられた爆発物。拾った端末。中央広場に積み重なっていた死体。十五人の参加者。森の中を駆け回った三日間。
銃声。
血。
悲鳴。
爆発。
そして、次々と失われていった命。
相馬直人。
古瀬聡子。
神崎莉奈。
「……莉奈……」
その名前が口から零れた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
腕の中で弱っていった莉奈の身体と、最後まで自分だけを見つめていた瞳が、あまりにも鮮明に蘇ってくる。
『ずっと……一緒だよ』
『約束……』
『忘れないでね』
蓮は目を閉じた。
忘れるはずがない。
今度こそ忘れないと、自分は約束したのだから。
しばらくそのままでいると、右手が無意識に首元へ伸びていた。指先が恐る恐る首筋へ触れ、そのまま何度も確かめるようになぞっていく。
そこにあるはずの硬い感触が、ない。
三日間、ずっと自分の命を握っていた首輪が消えている。
「……外れてる」
もちろん、分かっていた。
最後の最後に莉奈が自分を助けてくれた。詩織のA端末を自分の手で破壊し、条件を達成したことで首輪は解除された。
それでも、こうして何もない自分の首に直接触れてみるまで、本当の意味では信じられていなかったのかもしれない。
もう爆発しない。
残り時間を気にする必要もない。
禁止区域に怯える必要もない。
自分は――生きている。
「……帰って、きたのか……?」
誰に尋ねるでもなく、蓮は呟いた。
ゲームが終わり、自分は島から戻ってきた。
その事実が少しずつ胸へ染み込んできた、その時だった。
「……詩織!」
蓮は弾かれたように目を見開いた。
最後に見た詩織の姿が蘇る。
木のそばに倒れ、首から血を流していた。呼びかけても目を開けることはなく、葵がそばで処置をしていた。
生きている。
意識を失う直前、確かにそう聞いた。
けれど、それからどうなった?
自分が気を失ったあと、詩織はどうなったのか。
そもそも佳子は間に合ったのか。黒田とC-01へ向かったところまでは覚えている。しかし、自分はその結末を見ていない。
「佳子……葵……黒田さん……」
名前を口にするたび、不安が膨らんでいく。
ゲームが終わったからといって、全員がここへ戻ってきたとは限らない。
蓮は布団を押し退け、痛む身体を無理に起こした。
「ぐっ……!」
全身が悲鳴を上げる。
それでも止まることはできなかった。
点滴の管が引かれるのにも構わず、ベッドの端まで身体を動かして両足を床へ下ろす。冷たい床へ足の裏が触れ、立ち上がろうと力を込めた瞬間、膝から力が抜けた。
「っ……!」
倒れそうになった身体を、咄嗟にベッドへ手をついて支える。
「……くそ……」
思うように力が入らない。
それでも、何も知らないままここで寝ていることなどできなかった。
せめて詩織がどうなったのかだけでも確かめたい。
「詩織……」
その名前をもう一度呟いた時、病室の扉が開いた。
「神谷さん?」
白衣を着た看護師が入ってくる。
彼女は目覚めている蓮を見て一瞬驚き、さらにベッドから降りようとしていることに気づくと、表情を変えて駆け寄ってきた。
「神谷さん! 駄目です、まだ起き上がらないでください!」
「七瀬詩織は!?」
「え?」
「七瀬詩織です。一緒に運ばれたはずなんです。首を怪我してて、意識がなくて……」
「神谷さん、落ち着いてください。まずベッドに――」
「生きてますか?」
蓮の声に、看護師の動きが止まった。
「詩織は……生きてますか?」
ほんの短い沈黙だった。
けれど、そのわずかな時間さえ、今の蓮には耐え難いほど長く感じられた。
やがて看護師は、安心させるように静かに頷いた。
「七瀬さんも、こちらにいらっしゃいます。大丈夫です。生きていますよ」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の肩から力が抜けた。
「……よかった……」
同じ言葉を、島でも口にした。
葵から詩織が生きていると聞いた時にも。
けれど、今度は本当に、ゲームの外まで生きて帰ってきたのだ。
「ただ……」
続いた看護師の言葉に、蓮はすぐ顔を上げた。
「七瀬さんは、まだ目を覚ましていません」
「……まだ?」
「はい」
「どれくらい眠ってるんですか?」
「神谷さん」
看護師は蓮の身体を支えながら、穏やかではあるものの、今度ははっきりとした口調で言った。
「まずはベッドへ戻りましょう。あなたも、つい先ほどまで眠っていたんですから」
「俺も……?」
「ええ。一緒に運ばれてきた方たちの中でも、神谷さんと七瀬さんは目を覚ますのが遅かったんです」
看護師に支えられながら、蓮はゆっくりとベッドへ戻った。
自分がどれほど眠っていたのかは分からない。それでも、その言葉には一つだけ引っかかるものがあった。
「……他のみんなは?」
尋ねた直後、廊下から声が聞こえてきた。
「こちらです」
別の看護師の声だった。
それに続いて、複数の足音が近づいてくる。
蓮は扉へ顔を向けた。
やがて扉が開き、最初に姿を見せたのは見覚えのある大柄な男だった。
男はベッドの上の蓮を見ると、張り詰めていたものが解けたように、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……やっと起きたか」
「黒田……さん……」
黒田修司だった。
あれほど長い間、血と泥にまみれた姿を見てきたせいだろうか。病院の服を着てそこに立っている黒田が、蓮にはひどく不思議なものに見えた。
けれど、生きている。
確かにここにいる。
その事実を理解するより先に、黒田の後ろから小柄な人影が飛び出すように姿を見せた。
「蓮……!」
「佳子……」
夢篠佳子。
両手にはまだ厚い包帯が巻かれている。それでも、自分の足で立ち、まっすぐ蓮を見ていた。
佳子は何か言おうとして、うまく言葉にならなかったのか唇を震わせた。それから、泣きそうな顔のまま笑った。
「よかった……ほんとに……目、覚めてよかった……」
蓮は答える前に、無意識に佳子の首元を見ていた。
何もついていない。
あの首輪がない。
「……間に合ったんだな」
佳子は一瞬きょとんとしてから、蓮が何を言っているのか理解したらしい。目に涙を溜めたまま、小さく頷いた。
「うん。黒田さんが手伝ってくれて……ちゃんと外せた」
「……そうか」
胸の奥に残っていた不安が、また一つ消えた。
「よかった」
蓮がそう言うと、佳子は泣き笑いのような表情で何度も頷いた。
さらに、その後ろからもう一人が病室へ入ってくる。
「神谷君」
水野葵だった。
右脚を庇うような歩き方は島にいた時と変わっていない。身体のあちこちにも治療の跡が残っていたが、それでも葵もまた、自分の足でここまで来ていた。
「葵……」
「目、覚めたんだね」
「ああ……心配かけたみたいだな」
「本当にね」
そう答えた葵の表情にも、隠しきれない安堵が浮かんでいた。
蓮は三人を順番に見た。
黒田。
佳子。
葵。
そして、自分。
島で最後まで生き残った者たちが、今は白い病室で同じ空気を吸っている。
誰の首にも首輪はない。
手には端末もなければ、武器もない。
残り時間を確認する必要も、誰かの条件を疑う必要もない。目の前にいる相手が、次の瞬間には自分を殺さなければならない条件を与えられることもない。
本来なら、それだけで喜んでもいいはずだった。
それなのに蓮は、どうしても足りないと感じてしまう。
視線が自然と開いた扉へ向かった。
待っていても、そこからもう一人が入ってくる気配はない。
「……詩織は?」
その名前を口にした途端、佳子の表情から笑みが消えた。
黒田も何も言わない。
代わりに葵が、少しだけ視線を落としてから答えた。
「まだ眠ってる」
「…………」
「私たちが目を覚ました時も、七瀬さんだけはまだだった。先生たちが診てくれてる」
生きている。
それは分かった。
けれど、安心しきることはできなかった。
「……会える?」
蓮は看護師へ顔を向けた。
「詩織に、会えますか」
「今すぐというのは……神谷さんも目を覚ましたばかりですし――」
「顔を見るだけでいいんです」
蓮は食い下がった。
立つことさえまともにできない身体で何を言っているのかと、自分でも分かっている。それでも、あの島から一緒に帰ってきたのだと、自分の目で確かめたかった。
「お願いします」
看護師は困ったように蓮を見たあと、佳子たちにも視線を向けた。
しばらく迷っていたが、やがて小さく息を吐く。
「……先生に確認してきます。許可が出るまでは、絶対に一人で動かないでくださいね」
「ありがとうございます」
看護師が病室を出ていくと、部屋には再び静かな時間が戻ってきた。
窓から入り込んだ涼しい風が、白いカーテンをゆっくりと揺らしている。
佳子がいる。
葵がいる。
黒田がいる。
そして自分も生きている。
蓮はもう一度、自分の首へそっと手を当てた。
そこには何もない。
もう爆発するものはない。残り時間も、禁止区域も、自分たちを殺そうとする条件も存在しない。
ゲームは終わった。
自分たちは現実へ帰ってきた。
それでも蓮の視線は、詩織がいるという病室の方角を探すように、閉じた扉へ向けられたままだった。
五人で帰ってきた。
その言葉を心から信じるためには、まだ一人だけ足りない。
七瀬詩織だけが。
まだ、目を覚ましていなかった。




