第82話 思い
音が、消えていた。
爆発した瞬間から、蓮の耳には甲高い耳鳴りしか残っていない。
何が起きたのかも分からないまま、何度も地面を転がった。
肩を打った。
背中を打った。
頭まで何かにぶつけた。
そして最後に、柔らかいものへ身体が重なって止まった。
「……っ」
息を吸うだけで全身が痛む。
霞んだ視界の下に、黒い髪が見えた。
「……莉奈……?」
自分の声すら遠かった。
腕に力を込め、身体を僅かに持ち上げる。
その下にいたのは、やはり莉奈だった。
詩織に撃たれた胸元は赤く染まっている。
目は開いていた。
けれど呼吸は浅く、唇から漏れる息も弱い。
「莉奈!」
返事はない。
「おい、莉奈!」
蓮が顔を近づける。
すると。
莉奈の唇が、ほんの僅かに動いた。
「……れん……」
「いる。ここにいる」
生きている。
まだ。
その事実に縋るように、蓮は莉奈の肩へ手を伸ばした。
だが、その時。
耳鳴りの向こうから。
何発もの銃声が聞こえてきた。
*
爆発の衝撃で、黒田も地面へ片膝をついていた。
「……くそっ」
耳がまともに聞こえない。
舞い上がった土と煙が視界を塞いでいる。
それでも。
黒田は動かなかった。
すぐそばには詩織がいる。
木の根元へ崩れるように倒れ、その首元からは血が流れていた。
幸いにして、噴き出るようには血は出ていなかった。
傍らには、壊れた首輪。
「詩織!」
佳子が叫んでいる。
両手を撃たれているため、抱き起こすことすらできないが痛みに耐えながら顔を軽く叩く
「詩織! 聞こえる!?」
「佳子、動かすな!」
黒田はそう叫びながらも、二人のところへ駆け寄れなかった。
まだ終わっていない。
爆発を起こした人間がいる。
煙の向こう。
木々の間に。
人影が動いた。
「……相馬」
黒田の目が鋭くなる。
相馬も爆発の直後で体勢を崩していた。
だが生きている。
そして。
その手にはまだ銃があった。
「相馬!」
黒田がハンドガンを構える。
相馬もこちらへ銃を向けようとした。
黒田は迷わなかった。
発砲。
「ぐっ!」
相馬の銃を持った手が跳ね上がる。
指から銃が落ちた。
地面へ転がる。
それでも黒田は構えを解かない。
もう一発。
今度は相馬の肩が大きく揺れた。
「がっ……!」
身体が木へぶつかる。
撃たれた肩を押さえながら、相馬が黒田を見る。
黒田は詩織と佳子の前から動かない。
「もうやめろ、相馬!」
相馬の荒い呼吸が聞こえる。
「終わりだ!」
「……まだ……」
「何?」
「まだ……終わってない……」
相馬は落とした銃へ視線を向けた。
「拾うな」
黒田の銃口が相馬を追う。
「次は外さん」
相馬の動きが止まる。
数秒。
互いに睨み合った。
その間にも、相馬の手から血が落ちている。
肩も撃たれている。
それ以前から負っていた傷もある。
もうまともに戦える状態ではない。
それでも。
相馬の目から、生への執着だけは消えていなかった。
「……帰る」
「相馬」
「俺は……帰るんだよ……」
次の瞬間。
相馬が身を翻した。
「待て!」
黒田は銃を向けた。
だが撃てなかった。
相馬の身体が木々の間へ入り込む。
追えば撃てるかもしれない。
しかし。
「黒田さん!」
背後から佳子の声。
振り返れば、倒れた詩織。
両手を負傷した佳子。
少し離れた場所には、爆発に巻き込まれた蓮と莉奈。
ここを離れられない。
「くそ……!」
黒田はその場から森へ銃を向け続けた。
相馬の背中が。
木々の向こうへ消えていく。
一秒。
二秒。
もう見えない。
「……逃げられたか」
黒田が低く吐き出した。
その直後だった。
銃声が。
一発だけ響いた。
「――!」
黒田が顔を上げる。
佳子も森を見る。
逃げていった相馬の身体が、木々の隙間に再び見えた。
止まっている。
いや。
よろめいている。
「……え」
相馬自身も。
何が起きたのか分かっていないようだった。
ゆっくり。
自分の身体へ視線を落とす。
それから。
黒田たちとは違う方向へ顔を向けた。
木の陰から。
一人の人影が姿を現す。
「……水野?」
黒田が目を見開いた。
葵だった。
右脚を庇いながら立っている。
両手で銃を構え。
相馬を見ていた。
「……葵……」
佳子も気づいた。
相馬がふらつく。
「なんで……」
葵は答えなかった。
銃を構えたまま。
相馬から目を離さない。
「なんで……お前が……」
相馬の声が震える。
葵の指も。
震えていた。
「……ごめん」
小さな声だった。
「私も……」
息を吸う。
「死にたくない」
もう一度。
銃声。
相馬の身体が大きく揺れた。
一歩。
後ろへ下がる。
背中が木へ当たった。
そのまま、ずるずると座り込む。
「……俺は……」
力が抜けていく。
「……生きたかった……だけなのに……」
相馬の身体が横へ倒れた。
動かなくなる。
森に。
静寂が戻った。
黒田はしばらく銃口を下げなかった。
相馬を見ている。
再び動き出さないことを確かめるように。
やがて。
ゆっくりと銃を下ろした。
「……終わったのか」
佳子が呟く。
葵も銃を下げた。
相馬の方へは行かなかった。
代わりに。
黒田たちの方へ歩き出す。
一歩進むたび、負傷した右脚が痛む。
僅かに身体が傾く。
それでも歩いた。
「葵……!」
佳子が呼ぶ。
葵はようやく佳子を見る。
「佳子……」
その視線が。
倒れている詩織へ移った。
表情が変わる。
「詩織……?」
歩く速度が少しだけ上がった。
「どうしたの……?」
「撃たれた」
佳子の声が震える。
「首輪にも当たって……外れたんだけど、詩織が……」
葵が近づく。
黒田は相馬の消えた森を最後に一度だけ確認してから、ようやく詩織の方へ身体を向けた。
「水野、無理に走るな。お前も脚をやられてる」
「でも……」
「まず呼吸を確認する」
黒田が詩織のそばへ膝をつく。
佳子。
葵。
黒田。
三人が詩織の周囲へ集まる。
少し離れた場所では。
蓮が。
まだ莉奈のそばにいた。
*
「……何だったんだ」
蓮には。
遠くで銃声が続いていたことしか分からなかった。
誰が撃ったのか。
誰が倒れたのか。
確認する余裕などない。
目の前にいる莉奈の呼吸が。
少しずつ弱くなっている。
「莉奈」
蓮が身体を起こそうとする。
「待ってろ。黒田を呼んで――」
立ち上がりかけた瞬間。
視界が大きく揺れた。
「っ……!」
爆発の影響が残っている。
平衡感覚が戻らない。
膝が折れかける。
その腕を。
莉奈の手が掴んだ。
「……え?」
弱い力だった。
振り払おうと思えば簡単に外せるほど。
それでも。
蓮は動きを止めた。
「莉奈?」
「……行かないで」
「でも、お前――」
「行かないで」
もう一度。
蓮は莉奈を見た。
「……分かった」
膝をつく。
「行かない」
「ほんと?」
「ああ」
「……よかった」
莉奈が微笑んだ。
詩織に撃たれた直後。
蓮が自分へ駆け寄ってきた時と同じ。
安心しきったような。
幼い笑顔。
「蓮……」
「何だ」
「約束……覚えてる?」
「約束?」
「ずっと……一緒」
蓮の胸が締めつけられる。
忘れていた。
莉奈だけが。
ずっと覚えていた。
あの日。
まだ何も知らなかった頃に交わした約束。
「……ああ」
蓮は莉奈の手を握った。
「覚えてる」
「ほんと?」
「ああ」
莉奈が嬉しそうに笑う。
「……よかった」
「だから喋るな。今は――」
莉奈の視線が。
蓮の胸元へ動いた。
「……端末」
「え?」
「詩織の……端末」
蓮の表情が変わる。
服の内側。
そこにはまだ。
A端末がある。
「今そんなことどうでもいいだろ」
「だめ」
「莉奈」
「蓮の……首輪」
莉奈の視線が蓮の首元へ向く。
「まだ……ついてる」
「だから何だよ!」
「外さないと」
「今はお前の方が――」
「蓮」
莉奈の手が。
蓮の腕を少し引いた。
「出して」
「……」
「お願い」
蓮は動けなかった。
「詩織は……」
莉奈の視線が遠くへ向く。
黒田たちが集まっている場所。
その中心に詩織がいる。
首元には。
もう黒い輪がない。
「首輪……外れたよ」
「でも傷がどうなってるか分からない」
「うん」
「端末を壊したら、何が起きるか――」
「でも」
莉奈は蓮を見る。
「蓮は生きられる」
「……莉奈」
「Eは……もう壊したから」
莉奈自身の端末。
あの時。
蓮が破壊した。
残っているのは。
Aだけ。
「お願い」
莉奈が言う。
「蓮……生きて」
その言葉だけは。
はっきり聞こえた。
蓮はゆっくりとA端末を取り出した。
まだ画面は点灯する。
詩織の端末。
これを壊せば。
自分の条件が達成される。
蓮の手が止まる。
「……俺は」
莉奈がその手へ触れた。
「大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ……」
「大丈夫だよ」
莉奈は微笑んだ。
「私がいるから」
力の入らない指が。
蓮の手首へ絡む。
莉奈が蓮の腕を引いた。
「莉奈?」
端末を持った手が下がる。
「待て」
蓮は爆発の影響で身体を支えきれない。
また視界が揺れた。
その瞬間。
莉奈が。
残った力で蓮の腕を引いた。
端末が地面へ叩きつけられる。
鈍い音。
画面に亀裂が走った。
「莉奈!」
「もう……一回」
「お前、何して――」
「お願い」
莉奈の目は。
蓮だけを見ていた。
「生きて」
その一言で。
蓮は動けなくなった。
莉奈がもう一度。
蓮の腕を引く。
今度は。
蓮も抵抗しなかった。
A端末が地面へ叩きつけられる。
画面が砕けた。
内部から鈍い破損音が響く。
表示が乱れ。
消える。
静寂。
数秒後。
蓮の首元で電子音が鳴った。
《INDIVIDUAL CLEAR CONDITION》
《CONDITION ACHIEVED》
「……」
蓮は動けなかった。
首輪の内部でロックが外れる。
僅かな機械音。
黒い輪が緩み。
首から滑り落ちた。
地面へ落ちる。
「……外れた」
蓮の声が震える。
莉奈は。
それを見ていた。
そして。
微笑んだ。
「……よかった」
「莉奈」
「これで……蓮……」
呼吸が途切れる。
「帰れるね」
「お前もだ」
蓮が即座に言った。
「一緒に帰るんだよ」
莉奈は何も言わない。
「聞いてるか?」
「……うん」
「黒田に見てもらう。だから――」
「蓮」
「何だよ」
「こっち……見て」
蓮は莉奈を見る。
「見てる」
「ちゃんと」
「見てるよ!」
莉奈の瞳に。
蓮だけが映っていた。
「……やっと」
小さな声。
「やっと……私だけ見てる」
「莉奈……」
嬉しそうに。
莉奈は笑った。
さっき。
銃弾を受けた自分へ蓮が走ってきた時と同じ笑顔だった。
痛みも。
恐怖も。
そこにはもう見えなかった。
「蓮」
「いるよ」
「ずっと……一緒だよ」
蓮は握っている手に力を込めた。
「ああ」
「約束……」
「ああ」
「忘れないでね」
「忘れない」
「ほんと?」
「ああ。今度こそ忘れないから」
莉奈は。
少しだけ目を細めた。
「……よかった」
指先から。
ゆっくりと力が抜けていく。
「莉奈?」
返事がない。
「莉奈」
蓮は手を握り直す。
「おい」
握り返してこない。
「……莉奈」
それでも。
莉奈の口元には。
最後まで。
微かな笑みが残っていた。
蓮が自分へ走ってきた。
自分のそばにいてくれた。
最後には。
自分だけを見てくれた。
ずっと待っていたものを。
ほんの僅かな時間だけ。
莉奈は取り戻していた。
「……莉奈」
蓮は俯いた。
その手を。
離すことができなかった。




