第80話 莉奈
相馬への攻撃をやめても、莉奈の警戒は解けていなかった。
蓮に深追いするなと言われ、刀は鞘へ戻している。だが、右手は柄の近くに残したままだ。
少し離れた木々の向こうには、まだ相馬がいる。
姿は見えない。
逃げたとも思えない。
黒田も同じ考えなのだろう。銃を構えたまま、相馬が消えた方向を睨み続けていた。
「全員、木から出るな」
低い声で言う。
「相馬はまだ近くにいる」
その言葉を証明するように、森の奥で何かが動いた。
枝が揺れる。
黒田の銃口がすぐにそちらへ向く。
次の瞬間。
銃声。
「伏せろ!」
弾丸が頭上を抜け、背後の幹へ食い込んだ。
蓮が詩織の前へ身体を入れる。
黒田が撃ち返した。
乾いた音が二度続き、木々の奥で相馬らしき影が消える。
「くそ……」
蓮も莉奈から渡された銃を構えたが、もう相馬は見えない。
「追うな」
黒田が言った。
「向こうも俺たちを引っ張り出そうとしてる」
「分かってる」
蓮は銃を下ろさないまま、背後の詩織を振り返った。
「詩織、大丈夫か?」
「うん……」
「本当に?」
「大丈夫……とは言えないけど、黒田さんがすぐ死ぬような傷じゃないって」
「だからって安心できるかよ。腹撃たれてるんだぞ」
「脇腹」
「似たようなもんだろ」
「全然違うと思うけど……」
詩織が小さく笑う。
けれど、すぐに痛みで顔を歪めた。
「ほら、無理して喋るな」
「蓮だって無理してるでしょ」
「俺はいいんだよ」
「よくないって」
蓮は詩織を気にしながらも、何度も森へ視線を戻していた。
相馬がどこにいるか分からない。
だからこそ、詩織から完全に離れることもできない。
莉奈は少し離れたところから、その姿を見ていた。
何でもないことだ。
撃たれた仲間を心配しているだけ。
そんなことは分かっている。
詩織が蓮を助けるためにA端末を渡したことだって知っている。
だから。
悪い人ではない。
そう思っている。
それなのに。
「佳子も見せて」
今度は蓮が佳子を見る。
「何を?」
「手」
「さっき黒田さんに見てもらったよ」
「俺は見てない」
「蓮が見ても治らないでしょ」
「いいから」
「もう……」
佳子は困ったように笑い、傷ついた両手を少しだけ持ち上げた。
両手とも血で汚れている。
指は動いているものの、まともに武器を握れる状態ではない。
蓮の眉間に皺が寄る。
「……ひでえな」
「そういうこと本人の前で言う?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
佳子が笑った、その時だった。
黒田が突然銃口を動かした。
「神谷、頭下げろ!」
蓮が反応する。
直後、銃声が響いた。
弾丸が蓮たちの隠れている木の端を削り、木片が詩織の髪へ降りかかった。
「詩織!」
「大丈夫!」
黒田が撃ち返す。
蓮も銃を向ける。
一瞬だけ見えた相馬の身体へ狙いをつけたが、引き金を引くより先に相馬が木の陰へ消えた。
「位置変えてる……」
蓮が呟く。
「ああ」
黒田は銃口を下げない。
「一か所に留まる気はないらしい」
相馬も負傷している。
まともに動ける状態ではないはずだ。
それでも。
少しずつ位置を変えながら、こちらへ銃弾を送り続けている。
黒田がいるため、簡単には近づけない。
だがこちらも、詩織と佳子を置いて動けない。
互いに決め手がない。
森の中に、そんな不安定な均衡が生まれていた。
莉奈の指が、刀の鞘をなぞる。
蓮はまた詩織を庇った。
相馬に撃たれたのだから。
当然だ。
分かっている。
それでも。
胸の奥が気持ち悪かった。
「神谷」
黒田が森を睨んだまま言う。
「そいつらを見るのはいいが、相馬から意識を切るな」
「分かってる」
「なら背中を向けるな」
「……悪い」
蓮が銃を握り直した。
「莉奈」
突然名前を呼ばれ、莉奈の表情が明るくなる。
「なに?」
「お前もこっち来い。離れすぎるな」
「うん」
莉奈はすぐに蓮の方へ歩いていった。
その途中。
詩織と目が合う。
「莉奈」
「……なに?」
「ありがとう」
思いもしなかった言葉だった。
「何が?」
「端末。蓮に渡してくれたんでしょ」
「ああ……うん」
「ちゃんと届いてよかった」
蓮の服の内側には、詩織から渡されたA端末がある。
まだ壊されてはいない。
「蓮」
「ん?」
「端末……見た?」
蓮の表情が僅かに止まった。
「ああ。見た」
「……そっか」
「悪い。勝手に見た」
「ううん。いい」
詩織の手が自分の首輪へ伸びる。
「じゃあ……知ってるんだね」
「ああ」
「俺なんだろ」
詩織の肩が僅かに震えた。
「たぶん……」
「一番長く一緒にいた相手」
「……うん」
詩織は蓮を見る。
「蓮だと思う」
莉奈の表情から笑みが消えた。
知っていた。
端末を一緒に見た時から。
それなのに。
本人の口から聞くと、何かが違う。
「でも」
詩織が続ける。
「私は蓮を殺さない」
「条件をクリアできなくても?」
「……怖いよ。死にたくないし、首輪だって外したい」
詩織の指が首輪へ触れる。
「でも、蓮を殺してまで助かりたいとは思わない」
「詩織……」
「だから端末も渡したの」
詩織が莉奈を見る。
「蓮の条件に必要なんでしょ?」
莉奈は答えなかった。
「だったら、使って」
「でもお前はどうするんだよ」
「分からない」
「分からないって……」
「まだ何か方法があるかもしれないし」
「なかったら?」
詩織が答えに詰まる。
その時。
銃声。
「下がれ!」
黒田が叫んだ。
蓮が反射的に詩織を抱えるように引き寄せる。
その直後、詩織がいた場所のすぐ近くへ弾丸が突き刺さった。
「っ……!」
「詩織!」
「大丈夫……」
蓮は詩織を庇ったまま、森へ銃を向ける。
黒田も相馬のいた方向へ発砲した。
遠くで枝が揺れる。
また逃げた。
「ちょこまかと……!」
黒田が低く吐き捨てる。
蓮は詩織を木の陰へ戻した。
「ここから出るな」
「蓮……」
「いいから」
そのやり取りを。
莉奈は黙って見ていた。
また。
蓮が詩織を守った。
相馬が撃つたびに。
蓮は詩織を見る。
佳子を見る。
自分ではなく。
「蓮」
莉奈が呼んだ。
「……なんだ?」
「詩織の端末、壊さないの?」
「今は壊さない」
「どうして?」
「今話しただろ」
「詩織が困るから?」
「それもある」
「……そっか」
莉奈は笑った。
佳子がその顔を見る。
「莉奈……?」
「なに?」
「いや……」
何かがおかしい。
以前、自分を追いかけてきた時と同じ。
静かすぎる。
「蓮は優しいね」
「急に何だよ」
「だって、自分の首輪を外せるのに、詩織のこと考えて壊さないんでしょ?」
「当たり前だろ」
「当たり前……」
莉奈はその言葉を繰り返し、今度は佳子を見た。
「佳子が同じだったら?」
「は?」
「佳子の端末を壊せば蓮が助かる。でも佳子が困るってなったら」
「莉奈」
「壊さない?」
蓮の眉が寄る。
「今する話じゃないだろ」
「答えてよ」
「……壊さない」
莉奈の笑みが消えた。
「そうなんだ」
詩織。
佳子。
二人を交互に見る。
やっぱり。
同じ。
どっちも。
蓮にとって大切なんだ。
そして。
相馬がまた撃った。
「伏せろ!」
黒田の声。
銃弾が飛んでくる。
蓮が詩織の前へ身体を入れた。
佳子が身を縮める。
黒田が応射する。
銃声が重なる。
木の皮が弾け、湿った土が跳ねた。
蓮も相馬へ銃を向ける。
相馬の姿が一瞬見える。
蓮が撃つ。
外れた。
相馬が木の陰へ消える。
「くそっ!」
蓮が次の動きを探す。
莉奈は。
そんな蓮を見ていた。
蓮は相馬を見ている。
詩織を庇っている。
佳子の位置も確認している。
莉奈の方を。
見ていない。
「……また」
声が漏れた。
莉奈の右手が刀の柄へ伸びる。
佳子が気づいた。
「……莉奈?」
莉奈が振り向く。
「どうしたの?」
微笑んでいた。
その笑顔を見た瞬間。
佳子の背中を冷たいものが走る。
「莉奈……その手」
蓮も気づいた。
「何してる?」
「……蓮」
「刀から手を離せ」
莉奈は動かない。
「莉奈」
「どうして?」
「何が」
「どうして蓮は……この二人ばっかり見るの?」
「……は?」
「この二人がいるからでしょ?」
「何言ってるんだよ!」
「蓮が私を見てくれないの」
莉奈が刀を抜いた。
「莉奈!」
「黒田さん!」
佳子の声に黒田が振り向く。
「何を――」
銃声。
相馬だ。
「くそっ!」
黒田は莉奈から強制的に視線を外し、相馬へ撃ち返さなければならなかった。
莉奈が詩織へ一歩近づく。
「刀をしまえ!」
「嫌」
「約束しただろ!」
莉奈の瞳が揺れる。
「……したよ」
「だったら――」
「でも」
詩織を見る。
「やっぱり嫌」
詩織が蓮の拳銃を持ち上げようとした。
莉奈の目がそこへ向く。
それも蓮のもの。
ずっと詩織が持っていた。
気に入らない。
莉奈が刀を持ったまま近づく。
「莉奈!」
蓮が前へ出ようとした。
銃声。
足元の土が弾ける。
「出るな、神谷!」
黒田が叫ぶ。
相馬がこちらの混乱に気づいている。
撃つ間隔が短くなっていた。
莉奈が止まる。
蓮を見る。
相馬の銃撃に動きを封じられながら、それでも自分と詩織の間へ入ろうとしている。
莉奈は手の中の刀へ目を落とした。
近づけば。
蓮が止める。
また。
蓮が邪魔をする。
「……そっか」
莉奈が呟いた。
そして。
手を開いた。
刀が地面へ落ちた。
「……莉奈?」
蓮が目を見開く。
莉奈は刀を見なかった。
別のものを見ていた。
佳子が先に気づく。
顔色が変わった。
「駄目!」
数メートル先。
相馬に撃たれた時、佳子が落とした銃。
泥の上に残されたままになっている。
莉奈がそちらへ歩き出す。
「莉奈!」
蓮も気づいた。
「それを拾うな!」
莉奈は止まらない。
蓮が追おうとする。
その瞬間。
相馬が撃った。
蓮のすぐ横の幹が弾ける。
「っ!」
「神谷、出るな!」
黒田が応射する。
相馬の射撃が。
蓮を止めた。
黒田の視線も奪った。
莉奈にとっては、それだけで十分だった。
地面へ屈む。
佳子の銃を拾う。
「莉奈……」
蓮の声が変わった。
「それを置け」
莉奈が立ち上がる。
その手にはもう刀はない。
銃がある。
森の向こうでは。
相馬がまだ生きている。
黒田は相馬へ銃口を向けている。
蓮は莉奈を見ている。
守られるように、その背後には詩織がいる。
佳子もいる。
莉奈はその光景を見て。
小さく笑った。
「やっと私見た」
「莉奈」
「刀じゃ駄目なの」
「何言ってるんだ」
「近づいたら、蓮が止めるから」
銃口が上がる。
「莉奈、やめろ」
詩織へ。
それから。
佳子へ。
銃口がゆっくりと二人の間を行き来する。
「前にも思ったけど」
莉奈の声は穏やかだった。
「やっぱり私――」
遠くで。
相馬の銃声が、もう一度響いた。
誰も。
その場から動けない。
莉奈の指が、銃の引き金へかかる。
「二人とも、いらない」




