第79話 そっか、そうか、そういうこと
銃声が聞こえたのは、莉奈に肩を借りながら森を進み始めてから、それほど時間が経っていない頃だった。
乾いた音が、湿った木々の奥から何度も響いてくる。
蓮の足が止まった。
「……今の」
「うん。銃だね」
莉奈も同じ方向を見ていた。
雨はすでに止んでいたが、森の中にはまだ濃い湿気が残っている。濡れた土は歩くたびに靴へまとわりつき、頭上の枝からは、ときおり大粒の雫が落ちてきた。
爆発の衝撃を受けた蓮の身体は、まだまともに走れる状態ではない。少し無理をするだけで脇腹から背中にかけて鈍い痛みが広がり、呼吸まで浅くなる。
それでも、今の銃声を無視するという選択肢はなかった。
莉奈が一人で会いに行った詩織たちは、あの方向にいる可能性が高い。
「行こう」
蓮が歩き出そうとすると、肩を支えていた莉奈が腕に力を入れた。
「待って」
「どうした?」
「これ」
莉奈は蓮から一度手を離すと、自分が持っていた銃を取り出した。
差し出されたそれを見て、蓮が眉を寄せる。
「……俺に?」
「持ってて」
「莉奈は?」
莉奈は腰に差した日本刀へ軽く手を触れた。
「私はこっちがあるから」
蓮はすぐには受け取らなかった。
今の自分が、どこまで戦えるのか分からない。腕を上げることはできても、爆発の影響が残った身体で正確に狙える保証などなかった。
莉奈はそんな蓮の迷いを見透かしたように、銃をさらに近づけた。
「使わなくて済むなら、それでいいよ。でも、持ってないよりはいいでしょ」
「……そうだな」
蓮は銃を受け取った。
手に伝わってくる重みで、嫌でも意識が切り替わる。
さっきの銃声。
一発や二発ではなかった。
誰かと誰かが戦っている。
「蓮は無理しないでね」
莉奈が再び身体を支える。
「それ、持ってるからって前に出たら駄目だから」
「それはお前にも言いたいんだけどな」
「私は大丈夫」
「そういうこと言う奴が一番信用できない」
「蓮に言われたくない」
莉奈が少しだけ頬を膨らませる。
こんな状況でなければ。
ただの何気ない会話に聞こえたかもしれない。
だが、再び遠くで銃声が響いた瞬間、二人の表情から余裕は消えた。
「近い」
蓮が言う。
「急ごう」
「走れる?」
「無理でも行く」
「……じゃあ、ちゃんと掴まって」
莉奈は蓮の腕を自分の肩へ回し、二人は銃声のした方向へ進み始めた。
森を進むにつれて、蓮の中に嫌な感覚が膨らんでいく。
何かが起きている。
それも。
もう終わった後ではない。
今、この瞬間にも。
*
木々の隙間から人影が見えた。
莉奈が足を止める。
蓮も彼女の肩から僅かに身体を起こした。
最初に見えたのは。
銃を持った男だった。
木の陰へ半身を隠しながら、別の方向へ銃口を向けている。
泥と血に汚れた服。
負傷している腕。
不自然な立ち方。
顔が見えた。
蓮の身体が硬直した。
「……相馬」
名前が口から漏れた瞬間。
頭の中に。
別の光景が蘇った。
聡子。
銃声。
撃たれた身体。
地面。
足元の地雷。
そして。
爆発。
『生きてください』
最後に聞いた声まで。
鮮明に蘇る。
蓮の手が、莉奈から渡された銃を強く握りしめた。
胸の奥から湧き上がってきたものを、うまく言葉にできなかった。
怒りなのか。
憎しみなのか。
もっと別の何かなのか。
聡子はゲームマスターだった。
自分たちに隠し事もしていた。
最初から全部を信用できる相手だったわけでもない。
それでも。
最後に。
あの女は。
自分へ生きろと言った。
その聡子を撃った男が。
目の前にいる。
「……蓮?」
莉奈が異変に気づく。
しかし、相馬もこちらに気づいた。
顔を上げる。
視線がぶつかる。
「……神谷」
相馬の表情が変わった。
蓮が生きている。
相馬にとって、それが何を意味するのか。
蓮も知っている。
相馬の銃口がこちらへ動いた。
「蓮!」
莉奈が身体を前へ出そうとする。
だが。
その前に。
蓮が銃を持ち上げた。
相馬の顔が。
照準の向こうへ入る。
指が引き金を引いた。
銃声が響いた。
反動が傷ついた身体へ伝わり、蓮の上体が大きく揺れる。
弾丸は相馬を外れ、背後の木へ食い込んだ。
「蓮!」
「……こいつは」
蓮は歯を食いしばって身体を支えた。
「こいつは……聡子を……!」
相馬の顔から一瞬だけ表情が消えた。
それでも。
銃を下ろさない。
「……あいつのことか」
その言葉が。
蓮の中に残っていた何かを切った。
「お前が言うな!」
二発目。
相馬が木の陰へ身を引く。
弾丸は幹を削った。
身体が痛む。
照準も安定しない。
それでも蓮は、もう一度銃を向けようとした。
相馬も木の陰から銃口を出す。
先に撃つのはどちらか。
その一瞬。
蓮の横から。
莉奈が消えた。
「――え?」
莉奈は蓮を支えていた腕を離すと、相馬へ向かって一気に駆け出していた。
刀が鞘から抜かれる。
相馬が気づいて銃口を向ける。
発砲。
莉奈は木の陰へ身体を滑り込ませ、銃弾をやり過ごすと、そのまま反対側から飛び出した。
相馬との距離が一気に縮まった。
「なっ……!」
刀が走る。
相馬が上体を引く。
刃先が服を裂き、胸元を横切った。
あと僅かに深ければ。
肉まで届いていた。
「くそっ!」
相馬が後ろへ下がる。
だが負傷した脚がついてこない。
莉奈は止まらない。
次の一撃。
相馬は木を盾にするように回り込む。
刀が木の表面を削った。
「蓮を撃つ奴は殺す!」
莉奈の声は。
不気味なほど静かだった。
相馬が荒い呼吸をしながら銃を構える。
「お前……誰だよ……」
「知らなくていいよ」
莉奈は刀を構え直した。
「どうせ死ぬから」
相馬が撃つ。
莉奈が動く。
再び。
二人の間で銃と刃が交錯する。
蓮も銃を構えようとしたが、莉奈との距離が近すぎる。
「くそ……!」
撃てない。
相馬だけを狙える状況ではなかった。
その時。
「蓮……?」
声が聞こえた。
小さな。
震えた声。
けれど。
蓮には聞き間違えようがなかった。
銃口を下げる。
声のした方向を見る。
太い木の根元。
そこに。
詩織がいた。
「……詩織?」
顔色が悪い。
服は泥で汚れ。
右脚には血が滲んでいる。
それだけではない。
腹部。
正確には脇腹に近い位置を手で押さえている。
その手も。
赤く染まっていた。
蓮の頭から。
一瞬。
相馬への怒りさえ抜け落ちた。
「お前……その血……」
「蓮……」
詩織の表情が崩れる。
安心したような。
泣きそうな。
そんな顔だった。
「本当に……生きてた」
蓮が一歩踏み出す。
その近くに。
もう一人いた。
「……佳子?」
「蓮……」
佳子は木の根元へ背中を預けていた。
両手を胸元へ引き寄せている。
血。
右手も。
左手も。
「お前まで……」
蓮は息を呑んだ。
詩織の脚と脇腹。
佳子の両手。
誰がやったのか。
聞く必要すらなかった。
蓮の視線が。
相馬へ戻る。
相馬は莉奈の刀を避けながら。
必死に距離を取っている。
「相馬……!」
また怒りが込み上げる。
聡子だけではない。
詩織も。
佳子も。
こいつに撃たれた。
蓮は銃を上げようとした。
だが。
今は撃てない。
莉奈が近すぎる。
「莉奈!」
蓮が叫ぶ。
莉奈は相馬へ刀を振るう。
相馬が辛うじて避ける。
「莉奈、無理するな!」
もう一度。
今度は。
さらに強く。
「こいつに聡子は殺されてる!」
莉奈の刀が。
一瞬だけ止まった。
「今は詩織も佳子も危ない! 深追いするな!」
相馬がその隙に距離を取る。
莉奈は追おうとして。
止まった。
蓮の言葉だから。
というだけではなかった。
視線を動かす。
そこで初めて。
莉奈も。
二人の状態をはっきり見た。
詩織は脚と脇腹から血を流している。
佳子は両手を撃たれている。
「……撃たれたの?」
莉奈が呟く。
刀を握ったまま。
相馬を見る。
そして。
詩織と佳子を見る。
もう一度。
蓮を見る。
蓮はすでに。
二人の方へ歩き始めていた。
「詩織」
足元がふらつく。
それでも。
蓮は止まらない。
「動くな。そのままでいい」
「蓮だって……怪我してるでしょ」
「俺はいい」
「よくないよ」
「いいから」
蓮は詩織の前へ膝をついた。
傷を見た瞬間。
顔が強張る。
「腹、撃たれたのか?」
「脇腹の方。黒田さんが……すぐ死ぬような傷じゃないって」
「黒田?」
「ここだ」
少し離れた木の陰から声がした。
蓮が振り向く。
銃を構えた黒田が。
相馬から目を離さずに立っていた。
「神谷。そいつの傷は確認した。出血はあるが、今すぐどうこうなる状態じゃない」
「本当なんだな?」
「ああ。ただし動かすな」
蓮はようやく。
少しだけ息を吐いた。
「……よかった」
詩織の目に。
涙が滲んだ。
「それ……私の台詞」
「何が」
「蓮が……生きててよかった」
蓮は。
答えられなかった。
代わりに。
小さく頷いた。
そして。
佳子を見る。
「佳子、手は?」
「指は動く」
「両方撃たれたのか?」
「うん。最悪」
佳子は苦笑しようとしたが、痛みのせいで途中で顔を歪めた。
「武器は?」
「落とした。あそこ」
数メートル先。
地面に落ちた武器が見える。
だが。
相馬がいる。
取りに行ける距離ではない。
「……相馬がやったんだな」
佳子は頷いた。
蓮は何も言わなかった。
ただ。
銃を握る手に力が入った。
少し離れた場所で。
莉奈は。
刀を下ろしたまま。
その光景を見ていた。
蓮が。
詩織の前にいる。
怪我を確認して。
心配している。
次は佳子。
自分だって。
まともに歩けないくらい傷ついているのに。
二人のことばかり。
莉奈の胸の奥に。
小さな違和感が生まれた。
さっきまで。
相馬を殺そうとしていた。
蓮を撃とうとしたから。
聡子を殺した男だから。
そして。
詩織と佳子を撃った男だから。
だから蓮は。
自分へ言った。
『今は詩織も佳子も危ない』
「……そっか」
莉奈が小さく呟いた。
蓮には聞こえない。
詩織にも。
佳子にも。
莉奈は刀についた汚れを払うと。
静かに鞘へ戻した。
相馬への攻撃は。
そこで一度。
止まった。
けれど。
莉奈の視線だけは。
相馬ではなく。
詩織と佳子へ向けられていた。




