第78話 相馬の苦悩
「……相馬」
木々の向こうに現れた人影を認めた瞬間、黒田の声が低くなった。
その名前を聞いた佳子と詩織も、ほとんど同時に表情を強張らせる。
誰なのかを尋ねる必要はなかった。
相馬直人。
そして、相馬に与えられている現在のクリア条件。
――2nd STAGE開始時点で生存していた、自分以外の参加者全員の死亡確認。
その内容を、三人ともすでに知っている。
だからこそ。
森の奥から歩いてくる男の姿を見ても、誰一人として駆け寄ろうとはしなかった。
雨の上がった森は薄暗く、葉から落ちる雫が地面を絶え間なく叩いている。
その中を歩く相馬は、遠目にもまともな状態ではなかった。
服は泥と血で汚れ、片腕は身体の横へ垂れたままほとんど動いていない。片脚も負傷しているらしく、一歩進むたびに身体が僅かに傾く。
それでも。
手にした銃だけは離していなかった。
佳子は無意識に息を呑む。
傷ついている。
明らかに弱っている。
それなのに、安心できない。
むしろ。
そこまで傷ついてもまだ歩いていることの方が、佳子には恐ろしく感じられた。
「二人とも、俺より前に出るな」
黒田が小さく言った。
佳子は武器へ手を添え、詩織も蓮から預かった拳銃を握り直す。
相馬が顔を上げた。
最初に黒田。
次に佳子。
そして。
詩織。
三人の姿を順番に確認する。
その目が。
一瞬だけ止まった。
「……黒田か」
掠れた声だった。
「相馬」
黒田も名前だけを返した。
それ以上の言葉は続かなかった。
湿った風が木々の間を抜ける。
枝葉が擦れ。
雫が落ちる。
ほんの数秒。
互いに何も言わない時間が続いた。
そして。
相馬の右腕が動いた。
黒田の表情が変わる。
「伏せろ!」
叫び声とほぼ同時に、相馬の銃口が持ち上がった。
銃声が森を引き裂く。
黒田は反射的に身を沈めた。
すぐそばの木の幹が抉れ、湿った樹皮が飛び散る。
佳子も身体を低くしようとした。
だが。
間に合わなかった。
右手に激しい衝撃が走った。
「――っ!」
握っていた武器が地面へ落ちる。
何かで殴りつけられたような感覚。
その直後に。
焼けるような痛みが手の中へ広がった。
「佳子!」
詩織の声が聞こえる。
しかし。
さらに銃声。
今度は左手。
「ぁあっ!」
佳子は悲鳴を上げ、その場へ膝をついた。
両手を胸元へ引き寄せる。
痛い。
熱い。
指に力が入らない。
血が滲み。
指先を伝って地面へ落ちていく。
「佳子!」
詩織が振り返る。
その瞬間。
右脚へ衝撃が走った。
「――っ!」
膝が崩れる。
身体が傾いた。
詩織は咄嗟に近くの木へ手を伸ばしたが、届かない。
続けて。
もう一発。
腹部。
正面から少し外れた脇腹に近い位置へ、強い衝撃が叩き込まれた。
「……ぁ……」
息が抜ける。
詩織は濡れた地面へ倒れた。
何が起きたのか。
一瞬。
理解できなかった。
腹部へ手を当てる。
温かい。
恐る恐る手を持ち上げると。
指が赤く染まっていた。
「……血……」
頭の中が真っ白になる。
撃たれた。
その事実を理解した途端。
傷の痛み以上に。
恐怖が押し寄せてきた。
死ぬ。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
「詩織!」
黒田はすでに動いていた。
佳子の服を掴み、近くの太い木の裏へ引き込む。
そのまま身体を低くして詩織へ駆け寄り、腕を掴んだ。
「黒田……さん……」
「喋るな。こっちだ」
「お腹……撃たれて……」
「分かってる!」
詩織を引きずるようにして射線から外す。
その直後。
また銃声が響いた。
三人が隠れた木へ弾丸が食い込み、樹皮が弾けた。
黒田の顔から。
完全に迷いが消えた。
木の端から身体を出す。
銃を構える。
相馬が再びこちらへ銃口を向けているのが見えた。
黒田は照準を合わせ。
引き金を引いた。
銃声。
相馬が咄嗟に身体を引く。
弾丸は相馬を外れ、背後の木へ食い込んだ。
黒田は続けてもう一発撃った。
相馬が木の陰へ転がり込むように身を隠す。
二発目も。
当たらなかった。
「くそっ……」
黒田が小さく吐き捨てる。
威嚇ではない。
最初から。
相馬本人を狙っていた。
佳子と詩織を撃った。
さらに追撃までしてきた。
もう。
外すつもりで撃つ理由などなかった。
黒田はしばらく銃口を相馬の隠れた木へ向けたまま動かなかった。
相馬が出てくれば。
次は撃つ。
その緊張を保ちながら。
黒田は詩織たちのもとへ身体を戻した。
「詩織、腹から手を離せ」
「でも……血が……」
「傷を見る。離せ」
黒田の声は強かった。
だが。
慌ててはいない。
詩織は震えながら腹部を押さえていた手を離した。
黒田が傷を見る。
続いて。
撃たれた脚。
「脚、少し動かせるか」
「……やってみます」
詩織が力を入れる。
「っ……!」
鋭い痛みに顔が歪んだ。
それでも。
動く。
黒田は傷の位置と出血を確認した。
「大丈夫だ」
「……本当ですか?」
「ああ。少なくとも今すぐどうこうなるような傷には見えない」
「でも、お腹……」
「真ん中じゃない。脇腹寄りだ。脚も動く」
黒田は詩織の目を見る。
「怖いだろうが、意識もしっかりしてる。落ち着け」
詩織は何度か浅い呼吸を繰り返した。
死ぬと思った。
今も。
怖くないわけではない。
腹部から血が出ている。
脚も痛い。
それでも。
黒田の言葉に縋るように頷いた。
「佳子」
黒田が隣へ移る。
佳子は両手を胸元へ引き寄せていた。
「見せろ」
「……最悪」
佳子は痛みに耐えながら両手を差し出す。
「両方って……」
「指は?」
「分かんない」
「動かしてみろ。ゆっくりでいい」
佳子が指へ力を入れる。
「っ……」
痛みが走る。
それでも。
動いた。
右も。
左も。
黒田は確認すると、短く息を吐いた。
「武器は持つな」
「でも――」
「その手で撃てるか?」
佳子は黙った。
地面へ落とした武器は。
数メートル先に見えている。
だが。
取りに行けば。
相馬から丸見えになる。
「……無理」
悔しそうに答える。
「今はそれでいい」
黒田は詩織を見る。
詩織の手には。
まだ蓮の拳銃が握られていた。
倒れた時にも。
手放さなかったらしい。
「詩織」
「はい」
「無理に撃とうとするな。撃てると思った時だけでいい」
詩織は拳銃を見た。
蓮から預かったもの。
返すつもりだった。
また会えたら。
ちゃんと。
「……はい」
小さく答える。
しばらく。
銃声はなかった。
相馬は木の向こうへ隠れたまま。
こちらも。
動けない。
雨上がりの森に。
再び水滴の音だけが戻ってくる。
佳子は傷ついた両手を見つめた。
「……本当に撃つんだね」
詩織が顔を向ける。
佳子は木の向こうを見たまま続けた。
「条件のことは知ってた。でも……実際に会った瞬間に撃たれると、全然違う」
詩織も。
腹部へそっと手を添える。
分かっていた。
相馬の条件を。
自分たちが生きている限り。
相馬は助からない。
それでも。
どこかで。
話ができると思っていた。
「相馬!」
黒田が声を上げた。
返事はない。
「聞こえてるんだろ!」
少しして。
木々の向こうから掠れた声が返ってきた。
「……聞こえてる」
「これ以上撃つなら、俺も撃つ」
「もう撃っただろ」
「次は当てる」
短い沈黙。
「……そうかよ」
相馬の声には。
怒りすらほとんど残っていなかった。
疲れている。
ひどく。
「お前の条件は知ってる」
黒田が言う。
「俺たちが生きてる限り、お前がクリアできないのも分かってる」
相馬から返事はない。
「それでも、俺たちは殺させない」
「……分かってる」
「なら銃を捨てろ」
沈黙。
そして。
小さな声。
「……無理だ」
黒田の眉が動く。
「相馬」
「無理なんだよ……」
その声は。
黒田たちへ向けたものというより。
自分自身へ向けているように聞こえた。
相馬は木へ背中を預けていた。
銃を握ったまま。
荒い呼吸を繰り返す。
腕が痛む。
脚も痛む。
身体のあちこちが。
もう限界に近い。
「……ちゃんと、やったのに」
誰に聞かせるでもなく。
相馬が呟く。
黒田が僅かに眉を寄せた。
「何?」
佳子も顔を上げる。
相馬は答えない。
ただ。
俯いたまま。
ぶつぶつと言葉を漏らしている。
「ちゃんと……条件、クリアしたのに……」
詩織が目を見開いた。
「……クリア?」
相馬には。
聞こえていないのかもしれない。
「最初の……」
息を吐く。
「誰も殺さなくて……よかった……」
相馬の指が。
首輪へ触れる。
「ちゃんと……やったんだよ……」
黒田の表情が変わった。
佳子も。
詩織も。
初めて聞く話だった。
相馬が。
1st STAGEで条件を達成していた。
そんなことは。
誰も知らなかった。
「相馬さん……?」
詩織が呼びかける。
だが。
相馬は返事をしない。
「なのに……」
首輪へ触れていた指が。
僅かに震える。
「SYSTEM ERROR……」
掠れた笑い声。
「……意味、分かんねえよ……」
黒田は黙って聞いていた。
「条件……達成したんだぞ……」
相馬の呼吸が荒くなる。
「ちゃんと……言われた通りにした……」
拳が。
首輪を握る。
「なのに外れなくて……」
その声には。
怒りより。
悲しみに近いものが混じっていた。
「そのあと……人が死んで……」
相馬の目が。
ゆっくりと銃へ落ちる。
「変わって……」
現在の条件。
自分以外の参加者全員の死亡確認。
相馬はそれを。
言葉にはしなかった。
言う必要もなかった。
ここにいる全員が。
その条件だけは知っている。
「……ふざけんなよ」
相馬が笑った。
「最初からこれなら……まだ分かるだろ……」
誰も答えない。
「でも……違ったんだぞ……」
詩織は拳銃を握る手に力を込めた。
相馬の言っていることが。
本当なら。
相馬は。
一度は人を殺さずにゲームを終わらせようとしていた。
条件を達成した。
それでも。
首輪は外れなかった。
「相馬さん」
詩織が声をかける。
「……なんだよ」
「私も、人を殺す条件です」
相馬が黙る。
「長く一緒にいた人を……一人、殺さないといけない」
詩織は。
自分の首輪へ触れた。
「でも……私は殺したくない」
「……そうか」
「死にたくないです」
詩織の声が僅かに震える。
「本当は……すごく怖い」
腹部の傷が痛む。
脚も。
今この瞬間だって。
自分が本当に助かるのか分からない。
「でも……その人を殺して助かりたいとは思えない」
相馬は。
しばらく何も言わなかった。
「……強いな」
「違います」
詩織は首を横へ振る。
「怖くて……できないだけです」
「同じだろ」
相馬の声が。
少しだけはっきりした。
「俺も怖いよ」
詩織は黙る。
「死ぬのが怖い」
相馬が。
銃を握り直した。
「だから……止まれない」
黒田が静かに息を吐く。
「だからって、こいつらを殺させる気はない」
「分かってる」
「俺も死ぬつもりはない」
「それも分かってる」
「だったら銃を捨てろ」
相馬は。
ゆっくり顔を上げた。
木の向こうにいる黒田の姿は。
ほとんど見えない。
それでも。
声のする方を見つめる。
「……無理だ」
「相馬」
「俺は……」
一度。
言葉が止まった。
「俺は、生きて帰りたいだけなんだよ」
その一言だけは。
はっきり聞こえた。
詩織は目を伏せる。
佳子も。
何も言えなかった。
その気持ちだけなら。
全員が同じだった。
「……私たちだって」
詩織が言う。
「帰りたいです」
相馬は答えない。
「佳子も。黒田さんも。私も……みんな帰りたい」
「分かってるよ」
「だったら――」
「分かってるから困ってるんだろ!」
突然。
相馬の声が大きくなった。
詩織の肩が震える。
「全員帰れるなら、俺だってこんなことしてねえよ!」
荒い呼吸。
そして。
少しずつ。
声が小さくなる。
「……帰りたいだけなんだ」
もう一度。
今度は。
自分に言い聞かせるように。
「俺は……帰りたいだけなんだよ……」
黒田は銃を握ったまま。
何も言わなかった。
相馬を許すことはできない。
佳子と詩織を撃った。
人を殺している。
それでも。
目の前にいる男が。
最初から人を殺すことを望んでいたわけではないことだけは。
分かった。
しばらく。
誰も話さなかった。
そして。
相馬の銃が。
木の陰から僅かに現れる。
黒田の目つきが変わった。
こちらも銃を構える。
会話をしたからといって。
何も解決していない。
相馬の条件は変わらない。
こちらも。
殺されるつもりはない。
詩織は蓮の拳銃を握る。
佳子は。
撃たれた両手を胸元へ抱えたまま。
相馬のいる方向を見つめるしかなかった。
次に。
誰かが動けば。
また銃声が響く。
そんな空気の中。
――ぱきっ。
遠くで。
枝の折れる音がした。
黒田の視線が僅かに動く。
相馬も。
銃を構えたまま顔を上げた。
一度。
二度。
濡れた地面を踏む音。
誰かが。
こちらへ近づいてくる。
一人ではない。
二人。
片方の歩調は遅く。
時折。
もう一人の足音と重なる。
誰かを支えながら。
歩いているような音だった。
詩織の胸が。
不意に大きく鳴った。
その足音は。
莉奈がA端末を持って去っていった方向から。
少しずつ。
確実に。
こちらへ近づいてきていた。




